黒岳の広葉樹林 小金沢連嶺(三)

 賽の河原から黒岳まで、左右とも針葉樹を主体とした林に覆われて眺めはなかったが、天候が下り坂のせいかかえって曇り具合を気にせず歩けて落ち着ける。黒岳山頂からすぐの白谷丸からは再び眺めがよくなったが、再び降り出してきた。ガスがせり上がってきていて遠望も途切れがちになり、そろそろ通り雨では済まなくなりそうだ。食器に雨が降り込むのを気にしながら食べるのはやはりいやなので、湯ノ沢峠の避難小屋で食事にすることにしよう。峠に近づいていくと、付近ではテントを張っている人が多く、ラジオや無線の音が聞こえてくる。ガレの斜面を左手に見ながら湯ノ沢峠に下り着き、右手にほんの少し下ったところにある避難小屋に入る。


 避難小屋は4、5人も入ればいっぱいと行った感じだが、かなりきれいに保たれていて居心地はよい。小屋の近くには水場もある。屋内でバーナーに火を付けて食事を作る。小屋を覗いて「おいしそうね」と言っていく人もいた。すぐ近くに駐車場があって林道が通じているので、山歩きをするわけでもなさそうなカップルとかが顔を出したりする。男性の方が小屋の下の方にあるトイレを見に行って、戻ってきて連れの女性に一言、「大自然のなかでしたほうがいいよ」。あとで自分も見に行って、なるほど、と思った。入り口には毛布が一枚下がっているだけだし….はっきり言って、普通にしゃがむとたいへん危険。夜は行かない方がいい。
 雨は小屋を出るときは一時的に止んでいた。ここから大蔵高丸(おおくらたかまる)までゆるやかに登って行く。右手の甲府盆地側はすっかり雲に隠されてしまっているが、左手にはまだ丹沢や奥多摩方面がいくらか山影を残している。しかしここからハマイバ丸のピークまでは、天候に関わりなく気持ちよく歩ける高原状の伸びやかなルートだ。上り下りがあまりなく散歩気分で歩ける。小金沢連嶺での細く暗い山道に慣れた目にはまったく別な山域のようだ。
ハマイバ丸を彼方に望む 大蔵高丸付近からハマイバ丸を望む
 しかしハマイバ丸を越えた辺りから雨が今までのしとしととした降り方ではなく、ぱしぱしと雨具のフードを叩くようなものに変わってきた。先ほどまで見えていた奥多摩方面すら雲に覆われてしまっている。気分のよい歩きは終わり、ここから先はひたすら先を急ぐのみとなった。長い距離を米背負峠(こめしょいとうげ)まで下ってそれから大谷ガ丸(おおやがまる)に登り返す。ここは樹木に囲まれた山頂で静かではあるもののもはや腰を下ろして休めるような天候でもなく、ただ雨中に前進するのみ。
 稜線から山腹をからむ作業道に下り、ひろくて歩きやすい道を小一時間も歩くと滝子山山頂への分岐に出た。大きな木の下で雨具のフードを脱いで傘をさし、しばし思案。登ろうか、登るまいか。時刻はすでに3時前、ここで山頂を経由すると、中央本線初狩駅に着く頃は6時頃になってしまう。今までフードで耳を覆っていたため聞きにくかった雨音が、耳を出したことで大きくはっきりと聞こえている。冷たい空気が首の回りに漂うのもわかる。冷えはじめた身体でざぁざぁという音を聞いていると、今回のところは山頂を割愛して一週間前に登ったばかりの大鹿沢沿いの道を下ることに決心がついた。


 結局湯ノ沢峠で食事をしてからというもの、ほとんど休憩らしい休憩を取らずに山を下り、中央自動車道を歩道橋で越え、中央本線沿いにある原という集落の稲村神社の軒先でようやく荷物を下ろす。もう夕方5時近い。雨はあいかわらず降り続いている。乾いた靴下に履き替え、濡れた靴下を絞って雑巾のように水を出す。こんなことをするのは久しぶりだが、これが雨の日でいちばん気が滅入る瞬間だ。雨の当たらない神社の軒先から出ていくのは少々気合いが要ったが、我慢して濡れた靴を履き直して歩き始める。だが笹子駅くまであと少しというところで上り列車が行ってしまい、嫌な予感を抱えて駅の時刻表を見ると、案の定、次の列車まで30分近くあるのだった。ここは笹子、駅の近くには休憩できる店などない。列車を待つあいだ、誰もいない吹き曝しの改札口前でベンチに腰を下ろし、止みそうにない雨を眺めていた。だが「よく歩いたものだ」と自分で自分に感心もしていた。
1998/5/23-24

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