浄土平 浄土平と一切経山

ガスの中を歩いた安達太良山(あだたらやま)を野地温泉(のじおんせん)に下って振り返ると、稜線はすっかり晴れてしまっている。なんと恨めしいことか、そう思いつつ土湯峠へ向かう車道を歩いていく。峠直下で今日の宿のある幕川温泉への道が分かれている。そこからすぐの浄土平は吾妻山(あづまやま)の山懐にある高原状の平地で、紅葉のなかそぞろ歩きするには気分のいいところだ。しかし山間の湯に浸かりたいので、今日は幕川温泉に泊まることにする。


翌朝、宿の裏手を回り込むように浄土平(じょうどだいら)へ続く山道をたどり始める。登山者はみな浄土平までバスで入るからこんな道は歩かれていないのでは、と思っていたが、最初から最後まで道筋はしっかりしていてヤブが被さると言うこともなかった。だが、歩き始めて20分くらいの登山道の脇で一本の立ち枯れの木を見たときには本当に驚いた。高さ5〜7メートルの枯れ木全体に大人の手のひらくらいのツキヨタケが上へ上へとびっしり生えているのだ。下から見上げると不健康そうな色の襞が見える。足下には人が落としたのかばらばらの破片まで落ちている。あまりに気持ち悪く、静かにまっすぐ通過してしばらく行ってから振り返ると、少し斜面を登ったせいで今度は傘ばかりが見える。こうして見ると確かに椎茸そっくりだ。幼菌はもっと似ているのだろう。食中毒者が絶えないわけだ。
登りついたところは磐梯吾妻スカイラインの車道だった。平日でまだ朝の9時前なので走っている車は少ない。おかげで前方に大きく姿を現した吾妻小富士(あづまこふじ)を見やりながら快適に歩ける。東吾妻山への急そうな登り口を左に見送って鳥小平(とりこだいら)自然探勝路にはいる。木道設営工事中の小湿原(鳥子平)がすぐ開けるものの、見通しのいいのはここだけで、あとは林の中に終始する。
ところどころ紅葉した樹木が点在するものの、ほとんど平坦な道の展望のなさに飽き始めるころ、浄土平南端の桶沼(おけぬま)付近に達する。右手に、いつのまにか大きくなった吾妻小富士の斜面が視界を満たす。安達太良山からの風に押されて雲が次々と流され、山腹と原に影を落としては過ぎていく。手前に広がる湿原はそこここに松の木を配した草紅葉で、名を兎平湿原と言うらしい。木造の雰囲気のある山小屋、吾妻小屋はすぐそこだった。ここが今夜の泊まり場になる。
吾妻小富士 吾妻小富士
しかしまだ昼前だ、落ち着くには早すぎる。アルバイトらしき娘さんに出されたお茶を飲んでから、荷物の大半を置いて一切経山(いっさいきょうやま)に向かう。明るく開けた高原風景に足取りもたいへん軽い。浄土平にはカメラを抱えた観光客やアマチュアの写真家が木道をあちこちに移動しては、ファインダー越しに狐色の草原や風になびくススキの白い穂をとらえている。
目の前に石ころだらけの斜面を見せている一切経は裸山なので登れば登るほど展望が広がる。車道を隔てて裾野を広げている吾妻小富士の巨大な火口が徐々に姿を現し、鳥肌を立たせるほどの凄絶さを見せる。登っている急斜面の先には平坦面があって、ここが頂上だと思いこんであたりを見回す。強い西風を背後にして浄土平を見下ろすと、吾妻小富士の右隣に桶沼火山が親子のような似た姿で並んでいる。その背後には福島市域が広がり、右手には黒木に覆われたなだらかな高山、さらに右手には同じようにゆったりとした姿の東吾妻山。安達太良山でガスの中の稜線歩きをした昨日から広い眺望に飢えていたので、心から満足だ。開放的な雰囲気に浸りつつ景色をファインダー越しに眺めてはシャッターを押す。


撮りきったフィルムを巻き戻そうと一眼レフのカメラのクランクを巻こうとしたら、何かが千切れるような音と感触。しまった、巻き戻し防止ロックを外さないまま巻き戻そうとしてしまった。ロックを外して恐る恐る巻こうとしてみると、いくらも回さないうちに再び何かが切れる音がしてクランクは空回りを始めてしまった。巻き戻されないフィルムがカメラの中に残ってしまい、撮影を続けたければこのフイルムを捨てる覚悟で裏蓋を開けなくてはならなくなった。残っているフィルムを救うべく、今後の撮影は浄土平でdisposalカメラを買うまで諦めることに決めた。
がっかりしながら吾妻連峰稜線の先にある家形山の方を見ていると、ふと、一切経から五色沼という池が見えるはずだと思い当たる。どこにあるのか?再び稜線の方を見ると、少し先の高まりの上に一本の柱が立っている。あれが本当の一切経山の山頂ではないか?さらに気落ちして歩き出す。やはりそこが山頂だった。そのまま直進すると、強風が吹き上げてくる下方に、色彩のコントラストに凄みのある美しい池が見えた。秋の空を映す水面の青は呑み込まれるような深い色だ。だがよく見ると、そのへりは火山性土壌のものらしいくすんだオレンジ色に縁取られている。周囲は柔らかい色の草紅葉が広がるのだが、その上に落とされる針葉樹の黒い影は情け容赦のないものだった。目を離せないのだが、見ていると落ち着かなくもなる悽愴な美しさ。「吾妻の瞳」は、おそらく秋になると魔力を増すものらしい。
例によって魅了されるがままに時を過ごしたあと、写真に撮りたかったな、という未練を抱えたまま、下山にかかった。最初に山頂だと思いこんだ場所までの一切経山頂部は、月世界というのはこうではないか、と思える眺めだった。その彼方、正面に見える東吾妻の左奧に安達太良山、右奧の端正な三角形は磐梯山(ばんだいさん)だ。いずれまた、この眺望を見に来ることだろう。一度だけでは惜しいから。
浄土平の夕照 浄土平の夕照
吾妻小屋の管理人である遠藤さんには食事の面でお世話になった。好き嫌いのあるわがままな登山者にいやな顔をされることもなく、食べることのできないいくつかの食材を私の皿だけ抜いていただいた。ご配慮に感謝しつつ、夕食のデザートであるリンゴをおいしく食べたのだった。翌日、谷地平(やちだいら)を経由して吾妻山の稜線に上がり、避難小屋の明月荘に泊まったのちに山稜を西進して白布温泉に下った。
1994/10/7 (浄土平と一切経山のみ)

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