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日本の正史『日本書紀』は、西暦720年に完成する。そのおよそ450年前頃に、邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」が、中国皇帝(魏の明帝)によって倭王に認定されたことを『魏志倭人伝』が書き記していた。
『日本書紀』は、この女王「卑弥呼」を第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)神功皇后(じんぐうこうごう)のことと書いている。(『日本書紀』巻第九 神功皇后摂政三九年)

神功(じんぐう)皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の英雄であり、知らない人などいないと言っても過言ではなかった。しかし最近は語られることもほとんどなく、知らない人も多いようなので、まず簡単に説明しておきたい。
神功皇后伝説は、『古事記』・『日本書紀』によって創作された物語である。それによると、熊襲征伐のため筑紫に来た仲哀(ちゅうあい)天皇が、香椎宮(福岡県福岡市東区香椎)で急死すると、皇后は妊娠中でありながら、武内宿称(たけうちのすくね)とともに朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させ、帰国後に宇美(福岡県糟屋郡宇美町)で応神天皇を産んだ。その後、大和に帰り、応神天皇が即位する西暦270年まで摂政を行い、百歳で死亡する。これが『記紀』の記す神功皇后のあらましである。
『記紀』が神功皇后物語を創作しなければならなかった最大の理由は、邪馬台国の女王「卑弥呼」が、中国皇帝によって倭王に認定されたことを『魏志倭人伝』が書き記すために、大和王朝の列島支配の正統性を書き綴ろうとする『記紀』の編纂意図からして、女王「卑弥呼」は、大和の女王とする必要があった。
北部九州の各地には、「卑弥呼」の没後およそ500年が経った八世紀になってもなお数多くの「卑弥呼」伝説が語り継がれていた。これを糊塗す手段としても、神功皇后物語は創作しなければならなかった。しかし『記紀』が民衆に読まれることなどない当時にあって、神功皇后伝説としての塗り変えに成功する背景には、宇佐神宮の720年以降の動向を見落とす訳にはいかない。
宇佐八幡宮
祭神 応神天皇、比売大神、神功皇后。全国の神社約11万社のうち4万6百余社が八幡宮で、その総本宮である。神宮創建年は小山田社から現在地の亀山に遷座した725年、朝廷の寄進により社殿が造営された。
大分県宇佐市南宇佐亀山
豊国(とよのくに)は物部・大伴氏の本貫地であって、ここに鎮座する宇佐神宮は皇祖神をまつる宗廟であった。『延喜式』に「八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」と記され、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)事件(769年)では和気清麻呂(わけのきよまろ)が、宇佐神宮を参拝して「道鏡を天皇に」の野望を阻んでいる。
養老四年(720年)大伴旅人は、八幡神の託宣と守護のもと大隅国の隼人の乱を鎮圧する。天平十二年(740年)の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱では、平定祈願の御礼として朝廷から冠や経典・三重塔などの寄進を受けている。
そして天平勝宝元年(749年)に大仏鋳造が完成すると八幡大神は託宣して京に向かった。八幡大神の禰宜尼(ねぎに)、大神杜女(おおがみのもりめ)は紫色の神輿(みこし)に乗って、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后と百官および僧五千人が参会するなか、大仏を礼拝した。
そうして八幡大神は、東大寺の鎮守として勧請され手向山八幡宮が建立された。やがて全国四万社以上といわれる八幡宮を従え、まさに国家宗教の様相を帯びることになった。
ここに北部九州の各地に伝わる神功皇后伝説を集めてみた。神功皇后伝説地を追うことで邪馬台国の姿と、女王国への道が、見えてくるに違いない。