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筑紫倭国伝

倭国筑紫王朝



寧楽の都


 福岡の観光名所と言えば、学問の神様「菅原道真(すがわらのみちざね)」を祭る太宰府天満宮を思い浮かべる人が多い。右大臣であった菅原道真は、901年に政争に敗れ、太宰権帥(だざいのごんのそち)として太宰府に左遷された。床が朽ち屋根も雨漏りするような官舎で2年を過ごし、悲痛のうちにこの地で没したという。道真の埋葬地に建てられたのが太宰府天満宮である。


太宰府天満宮 太宰府天満宮

 「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」道真の愛した「飛梅」が咲く頃になると、境内は、受験生の神頼みの列が後を絶たない。年間700万人の参拝者を集める。
 福岡県太宰府市太宰府


 その天満宮から西南方向2km程の所に太宰都督府(だざいととくふ)跡がある。菅原道真もここの長官として赴任したわけであるが、現在は礎石だけを残し、閑散とした風景が広がる。しかし、かつてはここが筑紫王朝の王宮であり、倭国の都であった。日本の古代史はここを中心に展開した。


太宰都督府 太宰都督府

 府庁正面から真っ直ぐ南に延びる朱雀大路を中心に東西一二坊、南北二二条の条坊制による街区があったと考えられている。後方の北の山が四王寺山(大野城)で、都府楼は風水思想によって、計画的に作られた、日本で最初の都市である。
 福岡県太宰府市観世音寺


 奈良時代に太宰府は、「この府は、人物殷繁(いんぱん)にして、天下の一の都会なり」(『続日本紀』神護景雲三年)と記されている。


「おをによし 寧楽のみやこは 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」

青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」(『万葉集』巻3-328)


 この歌は730年頃に太宰府で、小野老(おののおゆ)によって詠まれたものであるが、なぜか奈良を偲んだ歌だと解釈されている。しかし素直に文面を読む限り、そんな切なさは微塵も感じられない。眼前に広がる美しい風景、すなわち太宰府の春を謳歌したものとしか思えない。「寧楽」は、やすらかに楽しむの意味であり、「安楽」と同じである。地名の「奈良」の語源になったと思われるが、この歌では「京師(みやこ)」の形容詞として使われている。


「沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降り敷けば 平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」

沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞」(『万葉集』巻8-1639)


 同時期に太宰府赴任中の大伴旅人(おおとものたびと)が詠んでいる。これは明らかに奈良を偲んだ歌であり、奈良を「平城」と書き「寧楽」とは書いていない。これを、単に両者の書癖の違いで、京(みやこ)といえば奈良しか在りえない、と考えた後人の解釈の過ちである。


 日本書紀は小野老が、昔からの大和王朝の役人であったように書いているが、事実は疑わしい。小野老は、かつて太宰府が倭国の都であったことを意識し「寧楽」という言葉を使ったに違いない。


 730年は、太宰帥(そち)の大伴旅人が山上憶良(やまのうえのおくら)や小野老らを招いて梅花宴を行っている。


 倭国筑紫王朝滅亡の原因となった「白村江の戦い」(663年)から六十数年が過ぎ、大和(ヤマト)王朝から筑紫警備を担わされていた東国の兵「防人(さきもり)」もこの年に廃止され、それぞれの故国に帰っていった。



開府


 寧楽(ねいらく)の京(みやこ)と詠われた太宰府が、いつ誰によって造られたものであるのか、日本の文献上の記録は何も残っていない。


 日本誕生神話が筑紫に始まり、日本の古代が太宰府を拠点に展開したことは明らかである。太宰府造営が大和(ヤマト)王朝の事業であるとするなら、正史『日本書紀』は当然にそのことを記すはずなのだか、何も語らない。


宝満宮竈門神社 宝満宮竃門神社

 太宰都督府の北東約4kmに位置し、鬼門の守り神として奉られ主祭神は玉依姫命である。玉依姫命は、神武天皇の母で、御子の建国の大業に心をくだき、この宝満山(かまど山)に登り、祈念された。
 福岡県太宰府市内山


 中国の正史『宋書』倭国伝には、「倭の武王」が478年に宋朝の順帝に上表文を送り、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍」に除せられたことが書かれているが、『日本書紀』は、この事にも触れない。


 倭王武は第21代「雄略天皇」のこととするのが現在の定説になっているのだが、武王を含む「倭の五王」は近畿大和王朝の王ではない。朝鮮半島への支配権を執拗に拘り続ける倭国筑紫王朝歴代の王のことである。


 武王はその上表文の中で「王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。(中略)竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以って忠節を勧む」と書いている。「三司」とは中国古代の官名で「三公」のことであり、太宰(だざい)太傅(だいぶ)太保(だいほ)をいう。倭王武は、中国皇帝に「王道が盛んになったので、中国に倣って自ら都を定めて開き三公も設置して、忠節に励む」と述べている。


三府と鴻臚館


 奈良に都(平城京710年)が造られる、およそ240年ほど前の西暦470年頃に、倭王武によって造られた都が、現在の太宰府である。


 太宰府の北東約15kmの所に、飯塚市大分(だいぶ)の地名があって、ここには宇佐八幡宮が本宮とする大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)がある。大分八幡宮には「応神天皇産湯地」の伝承があって、「天子の師傅となる官」の太傅府(だいぶふ)はここにあった。


 太宰府の南約14kmの所には、小郡市大保(おおほ)の地名があって、こちらは「大保」の読みが違うが、ここには延喜式にも記載される御勢大霊石(みせたいれいせき)神社があって、仲哀天皇の「殯葬傅説地」の伝承が残る。「天子の徳を保ち安んずる官」の太保府(だいほふ)の地である。


 もうひとつ、都の機能として欠かせない施設に、外国使節を迎える客館、現在風に言えば迎賓館(げいひんかん)であるが、古代中国風には鴻臚館(こうろかん)と言い、太宰府の北西約16km(福岡市中央区城内)に所在する。


 太宰府(だざいふ)を中心に太傅府・太保府と鴻臚館は、一日で往復が可能な位置にあり、都の機能として計画的に配置されたものである。


 太宰府を都とした「倭国筑紫王朝」は、その勢力範囲を、九州北部を中心にして四国と中国地方の西部および朝鮮半島南部を含む海峡国家を形成していた。