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中国人「慰安婦」第2次訴訟 最高裁 判決

事件番号 平成17(受)1735
事件名 損害賠償等請求事件
裁判年月日 平成19年04月27日
法廷名 最高裁判所第一小法廷
裁判種別 判決
結果 棄却
判例集巻・号・頁
原審裁判所名 東京高等裁判所
原審事件番号 平成14(ネ)2621
原審裁判年月日 平成17年03月18日
判示事項
 

裁判要旨
  日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,日中共同声明5項によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきである

主文

本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。

理由

第1 事案の概要

1 本件は,中華人民共和国の国民である上告人らが,第二次世界大戦当時,上告人X1及び亡A(本訴提起後に死亡し,上告人X1以外の上告人らが訴訟を承 継した。)の両名は,中国において日本軍の構成員らによって監禁され,繰り返し強姦されるなどの被害を被ったと主張して,被上告人に対し,民法715条1 項,当時の中華民国民法上の使用者責任等に基づき,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求める事案である。

被上告人は,本件にはいわゆる国家無答責の法理が妥当する上,民法724条後段所定の除斥期間が経過しているなどと主張するとともに,本訴請求に係る請求 権については,いわゆる戦後処理の過程での条約等による請求権放棄の結果,日本国及び日本国民がこれに基づく請求に応ずるべき法律上の義務が消滅している 旨主張する。

2 本件の事実経過に関し,原審の適法に確定した事実関係の概要は,次のとおりである。
(1) 日本は,昭和12年7月の廬溝橋事件をきっかけに中国との間で交戦状態に入り(以下これを「日中戦争」という。),華北地方にも戦線を拡大していった。日 本軍は,同年10月初めころから山西省に侵攻し,八路軍との一進一退の攻防を経て,同省北部山地の抗日勢力に対する前戦基地として,昭和16年9月,同省 盂県北部の進圭村に拠点を設けた。

(2) 被害事実
ア 上告人X1
上告人X1は,1927年(昭和2年),山西省盂県で生まれ,同地で育った。
1942年(昭和17年)旧暦7月のある日,同上告人の姉の夫が八路軍に協力しているとの密告に基づき,武装した日本兵と清郷隊(地元の住民により組織さ れ,日本軍に協力した武装組織)が姉夫婦の家を襲い,その際,同上告人は姉の家族とともに進圭村の日本軍の拠点に連行され,監禁された。当時15歳であっ た同上告人には婚約者がいたが,まだ婚姻しておらず,性交渉の経験はなく,初潮も迎えていなかったが,その夜から,隊長を含む複数の日本兵らによって繰り 返し輪姦された。同上告人は,連行されてから約半月後,家族の助けにより,いったんは解放され帰宅できたが,その後更に2回にわたり進圭村に連行され,同 様に監禁,強姦される被害にあった。
同上告人は,同年旧暦9月中旬ころ解放されたが,現在,上記監禁及び強姦に起因すると思われる重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が存在する。

イ 亡A
Aは,1929年(昭和4年),山西省盂県で生まれ,同地で育った。1942年(昭和17年)旧暦3月のある日,多数の日本兵がAの住む村に侵入し,八路 軍に協力していたことを理由に,父らとともに捕えられた。同人は,当時13歳で性交渉の経験はなく,初潮も迎えていなかったが,複数の日本兵によって殴る 蹴るの暴行を加えられた上,強姦された。その後,同人の母が銀700元を日本軍に支払ったことで,解放されたが,その間約40日にわたり,繰り返し強姦, 輪姦の被害を受けた。同人は,1999年(平成11年)5月11日に死亡したが,生前,上記監禁及び強姦に起因すると思われる重度の心的外傷後ストレス障 害(PTSD)の症状が存在した。

3 戦後処理における請求権の放棄等に関し,原審の適法に確定した事実関係の概要等(公知の事実を含む。)は,次のとおりである。
(1) 日本国は,第二次世界大戦後,連合国の占領下に置かれたが,昭和26年9月8日,サンフランシスコ市において,連合国48か国との間で,「日本国との平和 条約」(以下「サンフランシスコ平和条約」という。)を締結し,昭和27年4月28日の同条約の発効により独立を回復した。この条約は,第二次世界大戦後 における日本国の戦後処理の骨格を定めることになったものであり,各連合国と日本国との間の戦争状態を終了させ(1条(a)),連合国が日本国民の主権を 承認する(1条(b))とともに,領域(第2章),請求権及び財産(第5章)等の問題を最終的に解決するために締結されたものである。ただし,後述すると おり,中国(日中戦争を戦った国家としての中国をいう。以下同じ。)が講和会議に招請されなかったほか,インド等は招請に応ぜず,ソヴィエト社会主義共和 国連邦等は署名を拒んだため,すべての連合国との間の全面講和には至らなかった。
(2) サンフランシスコ平和条約には,戦争賠償及び請求権の処理等に関し,次のような規定がある。

ア 日本国は,戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して,連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし,また,存立可能な経済を維持すべきものとす れば,日本国の資源は,日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認され る(14条(a)柱書き)。

イ 日本国は,現在の領域が日本国軍隊によって占領され,且つ,日本国によって損害を与えられた連合国が希望するときは,生産,沈船引揚げその他の作業に おける日本人の役務を当該連合国の利用に供することによって,与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償することに資するために,当該連合国とすみやか に交渉を開始するものとする(14条(a)1。以下,この規定による役務の供与を「役務賠償」ということがある。)。

ウ 各連合国は,日本国及び国民等のすべての財産,権利及び利益でこの条約の最初の効力発生の時にその管轄の下にあるもの(戦争中連合国政府の許可を得て 連合国領域に居住した日本人の財産等一定の例外を除く。)を差し押え,留置し,清算し,その他何らかの方法で処分する権利を有する(14条(a)2)。

エ この条約に別段の定がある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する(14条(b))。

オ 日本国は,戦争から生じ,又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄 し,且つ,この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在,職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する (19条(a))。

(3) 中国は,連合国の一員として,本来,講和会議に招請されるべきであったが,昭和24年に成立した中華人民共和国政府と,これに追われる形で台湾に本拠を移 した中華民国政府が,いずれも自らが中国を代表する唯一の正統政府であると主張し,連合国内部でも政府承認の対応が分かれるという状況であったため,結 局,いずれの政府も講和会議には招請しないこととされた。ただし,日本国の中国における権益の放棄(サンフランシスコ平和条約10条),在外資産の処分 (同条約14条(a)2)に関しては,中国はサンフランシスコ平和条約の定める利益を受けるものとされた(同条約21条)。

(4) 日本国政府は,その後,上記(2)イに基づく役務賠償等に関する交渉を連合国各国と進めるとともに,サンフランシスコ平和条約の当事国とならなかった諸国 又は地域についても,戦後処理の枠組みを構築する二国間平和条約等を締結すべく交渉を行うこととなった。この中で,最大の懸案となったのは,講和会議に招 請されなかった中国との関係であるが,日本国政府は,昭和27年4月28日,中華民国政府を中国の正統政府と認め,同政府との間で,「日本国と中華民国と の間の平和条約」(以下「日華平和条約」という。)を締結し,同条約は同年8月5日に発効した。この条約には,日本国と中華民国との間の戦争状態がこの条 約の効力発生の日に終了すること(1条),両国間に戦争状態の存在の結果として生じた問題はサンフランシスコ平和条約の相当規定に従って解決するものとす ること(11条)等の条項があり,また,条約の不可分の一部をなす議定書の条項として,中華民国は,日本国民に対する寛厚と善意の表徴として,サンフラン シスコ平和条約14条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄すること(議定書1(b))が定められている。さらに,この条約の附属 交換公文において,この条約の条項が,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領域に適用があることが確認されてい る。

(5) 中国においては,その後も,中華人民共和国政府と中華民国政府が,ともに正統政府としての地位を主張するという事態が続いたが,日本国政府は,田中角栄内 閣の下で,中華民国政府から中華人民共和国政府への政府承認の変更を行う方針を固め,いわゆる日中国交正常化交渉を経て,昭和47年9月29日,「日本国 政府と中華人民共和国政府の共同声明」(以下「日中共同声明」という。)が発出されるに至った。この声明中には,「日本国と中華人民共和国との間のこれま での不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する。」(1項),「日本国政府は,中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認す る。」(2項),「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」(5項)等の条項があ る。

両国政府は,昭和53年8月12日,「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」(以下「日中平和友好条約」という。)を締結し,この条約は同年10 月23日に発効したが,この条約の前文においては,日中共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認する旨が規定されている。

4 原審は,次のとおり判断して,上告人らの請求をいずれも棄却すべきものとした。
(1) 中華民国の当時の民法によれば,被上告人は,前記認定に係る加害行為につき,使用者責任としての慰謝料の支払義務を負ったと認められる。また,日本法上の 不法行為責任についてみるに,国の公権力の行使に関してはいわゆる国家無答責の原則が妥当するが,上記加害行為は,戦争行為,作戦活動自体又はこれに付随 する行為とはいえず,国の公権力の行使に当たるとは認められないから,国家無答責の原則は妥当せず,被上告人は,民法715条1項に基づく損害賠償責任を 負う。

(2) 日華平和条約11条は,連合国による賠償請求権等の放棄を規定したサンフランシスコ平和条約14条(b)に従うことを定めるところ,ここでいう請求権放棄 とは,外交保護権の放棄にとどまらず,請求権自体を包括的に放棄する趣旨であったと解すべきである。よって,第二次世界大戦の遂行中に日本軍兵士らによる 上記加害行為から生じた中国国民である上告人X1及び亡Aの損害賠償請求権は,日華平和条約によって放棄されたと解すべきである。

なお,日華平和条約を締結したのは,既に中国大陸の実効支配を失っていた中華民国政府であるが,当時,国際社会において中国を代表する正統政府であると承 認されていたのは中華民国政府であると認められるのであり,日華平和条約は,同政府が中国を代表し,国家としての中国と日本国との間で結ばれたものとして の効力を有し,大陸を含む中国全体に適用されると解するのが相当である。その後に中華人民共和国政府が発出した日中共同声明においても戦争賠償の放棄条項 があるが,これは,既に生じている権利関係を改めて確認したものにすぎず,新たに法的効果を生じさせるものではない。

 

第2 上告代理人尾山宏ほかの上告受理申立て理由第1点について

1 論旨は,原審の上記第1の4(2)の判断の法令違反をいうものであるが,請求権放棄の抗弁を認めた原審の判断は,以下に述べるとおり,結論において是認することができる。

 

2 戦後処理の基本原則としての請求権放棄について
(1) 第二次世界大戦後における日本国の戦後処理の骨格を定めることとなったサンフランシスコ平和条約は,いわゆる戦争賠償(講和に際し戦敗国が戦勝国に対して 提供する金銭その他の給付をいう。)に係る日本国の連合国に対する賠償義務を肯認し,実質的に戦争賠償の一部に充当する趣旨で,連合国の管轄下にある在外 資産の処分を連合国にゆだねる(14条(a)2)などの処理を定める一方,日本国の資源は完全な戦争賠償を行うのに充分でないことも承認されるとして (14条(a)柱書き),その負担能力への配慮を示し,役務賠償を含めて戦争賠償の具体的な取決めについては,日本国と各連合国との間の個別の交渉にゆだ ねることとした(14条(a)1)。そして,このような戦争賠償の処理の前提となったのが,いわゆる「請求権の処理」である。ここでいう「請求権の処理」 とは,戦争の遂行中に生じた交戦国相互間又はその国民相互間の請求権であって戦争賠償とは別個に交渉主題となる可能性のあるものの処理をいうが,これにつ いては,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じた相手国及びその国民(法人も含むものと解される。)に対するすべての請求権は相互に放棄するものとされ た(14条(b),19条(a))。

(2) このように,サンフランシスコ平和条約は,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを前提として,日本国は連合国に 対する戦争賠償の義務を認めて連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね,役務賠償を含めて具体的な戦争賠償の取決めは各連合国との間で個別に 行うという日本国の戦後処理の枠組みを定めるものであった。この枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復したというサン フランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサンフランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をするに当たっ ても,その枠組みとなるべきものであった(以下,この枠組みを「サンフランシスコ平和条約の枠組み」という。)。サンフランシスコ平和条約の枠組みは,日 本国と連合国48か国との間の戦争状態を最終的に終了させ,将来に向けて揺るぎない友好関係を築くという平和条約の目的を達成するために定められたもので あり,この枠組みが定められたのは,平和条約を締結しておきながら戦争の遂行中に生じた種々の請求権に関する問題を,事後的個別的な民事裁判上の権利行使 をもって解決するという処理にゆだねたならば,将来,どちらの国家又は国民に対しても,平和条約締結

時には予測困難な過大な負担を負わせ,混乱を生じさせることとなるおそれがあり,平和条約の目的達成の妨げとなるとの考えによるものと解される。

(3) そして,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨が,上記のように請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだ ねるのを避けるという点にあることにかんがみると,ここでいう請求権の「放棄」とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請 求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。

上告人らは,国家がその有する外交保護権を放棄するのであれば格別,国民の固有の権利である私権を国家間の合意によって制限することはできない旨主張する が,国家は,戦争の終結に伴う講和条約の締結に際し,対人主権に基づき,個人の請求権を含む請求権の処理を行い得るのであって,上記主張は採用し得ない。

(4) サンフランシスコ平和条約の締結後,日本国政府と同条約の当事国政府との間では,同条約に従って,役務賠償を含む戦争賠償の在り方について交渉が行われ, その結果,二国間賠償協定が締結され(フィリピン共和国等),あるいは,賠償請求権が放棄された(ラオス人民民主共和国等)が,そこでは,当然ながら,個 人の請求権を含めた請求権の相互の放棄が前提とされた。日本国政府は,サンフランシスコ平和条約の当事国とならなかった諸国又は地域についても,個別に二 国間平和条約又は賠償協定を締結するなどして,戦争賠償及び請求権の処理を進めていったが,これらの条約等においても,請求権の処理に関し,個人の請求権 を含め戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄する旨が明示的に定められている(「日本国とインドとの間の平和条約」6条,「日本国とビルマ連邦 との間の平和条約」5条,「特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定」3条,「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する日 本国政府とオランダ王国政府との間の議定書」3条,「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」6項,「日本国とポーランド人民共和国との間の 国交回復に関する協定」4条,「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」4条,「日本国とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定」 2条,「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」3条等)。なお,「日本国とマレイシアとの間の1967年9月21日の協 定」2条は,「マレイシア政府は,両国間に存在する良好な関係に影響を及ぼす第二次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべての問題がここに完全かつ最終 的に解決されたことに同意する。」というやや抽象的な表現となっており,表現としては唯一の例外といえるが,同協定がサンフランシスコ平和条約やそれ以後 の前記二国間平和条約における請求権の処理と異なった請求権の処理を定めたものと解することはできず,この条項も,個人の請求権を含めて戦争の遂行中に生 じたすべての請求権を相互に放棄するサンフランシスコ平和条約の枠組みに従う趣旨のものと解される。

 

3 日華平和条約による請求権放棄について
(1) 中国との関係での戦後処理に係る条約としては,上記のとおり,中華民国政府との間で締結された日華平和条約が存在する。同条約11条は,「日本国と中華民 国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題」はサンフランシスコ平和条約の相当規定に従うものと規定するところ,その中には,個人の請求権を含む請 求権の処理の問題も当然含まれていると解されるから,これによれば,日中戦争の遂行中に生じた中国及び中国国民のすべての請求権は,サンフランシスコ平和 条約14条(b)の規定に準じて,放棄されたと解すべきこととなる。また,前記のとおり,議定書1(b)には,「日本国民に対する寛厚と善意の表徴」とし て,役務賠償も放棄する旨定められている。

(2) ところで,日華平和条約が締結された1952年(昭和27年)当時,中華民国政府は中国大陸を追われ台湾及びその周辺の諸島を支配するにとどまっていたこ とから,同政府が,日中戦争の講和に係る平和条約を締結する権限を有していたかどうか,疑問の余地もないではない。しかし,当時,中国の政府承認をめぐっ ては,中華民国政府を承認するアメリカ合衆国を始めとする諸国と中華人民共和国政府を承認するイギリスを始めとする諸国に二分されていたとはいえ,数の上 では前者が後者を上回っており,また,国際連合における中国の代表権を有していたのも中華民国政府であったことは公知の事実であって,このような状況下 で,日本国政府において中華民国政府を中国の正統政府として承認したのであり,そうすると,中華民国政府が日中戦争の講和に係る平和条約を締結すること自 体に妨げはなかったというべきである。

(3) もっとも,前記のとおり,日華平和条約が締結された当時,中華民国政府は台湾及びその周辺の諸島を支配するにとどまっており,附属交換公文には,これを前 提として,「この条約の条項が,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領域に適用がある」旨の記載がある。この記載 によると,戦争賠償及び請求権の処理に関する条項は,中華人民共和国政府が支配していた中国大陸については,将来の適用の可能性が示されたにすぎないとの 解釈も十分に成り立つものというべきである。

したがって,戦争賠償及び個人の請求権を含む請求権の放棄を定める日華平和条約11条及び議定書1(b)の条項については,同条約の締結後中華民国政府の 支配下に入ることがなかった中国大陸に適用されるものと断定することはできず,中国大陸に居住する中国国民に対して当然にその効力が及ぶものとすることも できない。そして,上告人らは,中国大陸に居住する中国国民であることが明らかであるから,同人らに対して当然に同条約による請求権放棄の効力が及ぶとす ることはできない。

 

4 日中共同声明5項による請求権放棄について
(1) 日中共同声明5項は,「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と述べるものであ り,その文言を見る限りにおいては,放棄の対象となる「請求」の主体が明示されておらず,国家間のいわゆる戦争賠償のほかに請求権の処理を含む趣旨かどう か,また,請求権の処理を含むとしても,中華人民共和国の国民が個人として有する請求権の放棄を含む趣旨かどうかが,必ずしも明らかとはいえない。

(2) しかしながら,公表されている日中国交正常化交渉の公式記録や関係者の回顧録等に基づく考証を経て今日では公知の事実となっている交渉経緯等を踏まえて考 えた場合,以下のとおり,日中共同声明は,平和条約の実質を有するものと解すべきであり,日中共同声明において,戦争賠償及び請求権の処理について,サン フランシスコ平和条約の枠組みと異なる取決めがされたものと解することはできないというべきである。

ア 中華人民共和国政府は,日中国交正常化交渉に当たり,「復交三原則」に基づく処理を主張した。この復交三原則とは,@中華人民共和国政府が中国を代表 する唯一の合法政府であること,A台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること,B日華平和条約は不法,無効であり,廃棄されなければならないこ とをいうものである。中華人民共和国政府としては,このような考え方に立脚した場合,日中戦争の講和はいまだ成立していないことになるため,日中共同声明 には平和条約としての意味を持たせる必要があり,戦争の終結宣言や戦争賠償及び請求権の処理が不可欠であった。

これに対し,日本国政府は,中華民国政府を中国の正統政府として承認して日華平和条約を締結したという経緯から,同条約を将来に向かって終了させることは ともかく,日中戦争の終結,戦争賠償及び請求権の処理といった事項に関しては,形式的には日華平和条約によって解決済みという前提に立たざるを得なかった (日華平和条約による戦争賠償及び請求権の処理の条項が中国大陸に適用されると断定することができないことは上記のとおりであるが,当時日本国政府はその ような見解を採用していなかった。)。

イ 日中国交正常化交渉において,中華人民共和国政府と日本国政府は,いずれも以上のような異なる前提で交渉に臨まざるを得ない立場にあることを十分認識 しつつ,結果として,いずれの立場からも矛盾なく日中戦争の戦後処理が行われることを意図して,共同声明の表現が模索され,その結果,日中共同声明前文に おいて,日本国側が中華人民共和国政府の提起した復交三原則を「十分理解する立場」に立つ旨が述べられた。そして,日中共同声明1項の「日本国と中華人民 共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する。」という表現は,中国側からすれば日中戦争の終了宣言と解釈できるもの であり,他方,日本国側からは,中華人民共和国政府と国交がなかった状態がこれにより解消されたという意味に解釈し得るものとして採用されたものであっ た。

ウ 以上のような日中国交正常化交渉の経緯に照らすと,中華人民共和国政府は,日中共同声明5項を,戦争賠償のみならず請求権の処理も含めてすべての戦後 処理を行った創設的な規定ととらえていることは明らかであり,また,日本国政府としても,戦争賠償及び請求権の処理は日華平和条約によって解決済みである との考えは維持しつつも,中華人民共和国政府との間でも実質的に同条約と同じ帰結となる処理がされたことを確認する意味を持つものとの理解に立って,その 表現について合意したものと解される。以上のような経緯を経て発出された日中共同声明は,中華人民共和国政府はもちろん,日本国政府にとっても平和条約の 実質を有するものにほかならないというべきである。

そして,前記のとおり,サンフランシスコ平和条約の枠組みは平和条約の目的を達成するために重要な意義を有していたのであり,サンフランシスコ平和条約の 枠組みを外れて,請求権の処理を未定のままにして戦争賠償のみを決着させ,あるいは請求権放棄の対象から個人の請求権を除外した場合,平和条約の目的達成 の妨げとなるおそれがあることが明らかであるが,日中共同声明の発出に当たり,あえて

そのような処理をせざるを得なかったような事情は何らうかがわれず,日中国交正常化交渉において,そのような観点からの問題提起がされたり,交渉が行われ た形跡もない。したがって,日中共同声明5項の文言上,「請求」の主体として個人を明示していないからといって,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異な る処理が行われたものと解することはできない。

エ 以上によれば,日中共同声明は,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,請求権の処理については,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを明らかにしたものというべきである。

(3) 上記のような日中共同声明5項の解釈を前提に,その法規範性及び法的効力について検討する。
まず,日中共同声明は,我が国において条約としての取扱いはされておらず,国会の批准も経ていないものであることから,その国際法上の法規範性が問題とな り得る。しかし,中華人民共和国が,これを創設的な国際法規範として認識していたことは明らかであり,少なくとも同国側の一方的な宣言としての法規範性を 肯定し得るものである。さらに,国際法上条約としての性格を有することが明らかな日中

平和友好条約において,日中共同声明に示された諸原則を厳格に遵守する旨が確認されたことにより,日中共同声明5項の内容が日本国においても条約としての法規範性を獲得したというべきであり,いずれにせよ,その国際法上の法規範性が認められることは明らかである。
そして,前記のとおり,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいては,請求権の放棄とは,請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせることを意味するの であるから,その内容を具体化するための国内法上の措置は必要とせず,日中共同声明5項が定める請求権の放棄も,同様に国内法的な効力が認められるという べきである。

(4) 以上のとおりであるから,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,日中共同声明5項によって, 裁判上訴求する権能を失ったというべきであり,そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し,同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたときは,当該請求 は棄却を免れないこととなる。

 

5 まとめ
  本訴請求は,日中戦争の遂行中に生じた日本軍兵士らによる違法行為を理由とする損害賠償請求であり,前記事実関係にかんがみて本件被害者らの被った精神 的・肉体的な苦痛は極めて大きなものであったと認められるが,日中共同声明5項に基づく請求権放棄の対象となるといわざるを得ず,裁判上訴求することは認 められないというべきである。所論の点に関する原審の判断は,以上のとおり,結論において是認することができる。論旨は,採用することができない。
  よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。


(裁判長裁判官 才口千晴  裁判官 横尾和子  裁判官 甲斐中辰夫  裁判官 泉徳治  裁判官 涌井

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