水燿通信とは
目次

280号

竹下しづの女再び

行橋市図書館からの資料と読者の感想

 「水燿通信」278号「竹下しづの女 先駆的女性としての宿命を生きた俳人」は、しづの女の出身地である福岡県行橋市の市立図書館にも送付した(他に福岡県立図書館、北九州市立中央図書館などにも)。送付後ほどなくして、同市在住の光畑浩治氏からメールが届いた。氏は昭和54(1979)年のしづの女句碑建立に深く関わった人で、行橋図書館館長と知り合いのためいち早く「水燿通信」278号のことを知らされたとのことで、「しづの女についての論評、評価を戴くことは、郷土人にとっては励みになります。資料については大事に保管するとのことでした。ありがとうございました」とあった。それから日を追わずして、行橋図書館から130ページ近い郷土史ガイド『行橋いいとこ、見〜つけた!!』(図書館開館 10周年記念として2001年に発行された) と、メールの送り主である光畑氏著『ふるさと私記』の寄贈を受けた。前者には「この町にこの人あり」の項目で竹下しづの女に触れてあり、また光畑氏の著書には「私と竹下しづの女」「女流俳句の黎明期に輝いた久女としづの女」「久女としづの女」などのしづの女に関する文が収録されている。この2資料によってしづの女に関する地元ならではの情報が得られたので、以下に紹介したいと思う。
忘れられた存在だったしづの女 竹下しづの女は行橋市中川の豪農の長女として生まれた。福岡女子師範学校を卒業、小倉師範などで教鞭を執るなど当時としては非常に高い教育を受けた人であり、故郷の村人にとっては特異な存在であった。彼女は農学校教諭の水口伴蔵を婿養子として迎え、結婚後、夫の赴任地に住み中川を離れていた。ところが昭和8(11933)年、県立糟屋農学校校長をしていた夫の急逝に遭い、住み馴れた官舎を出、路地裏の家に越すことになった。母と子供4人(長女はすでに結婚していた)の家庭の生計を支えるため、しづの女は福岡県立(「市立」とする資料もある 根本註)図書館の司書として働くことになり、郷里の家を手放し土地の大半も処分した。終戦から数年間は、不在地主にならないため故郷の村に帰り、小さな田小屋に住んでわずかに残った農地をひとりで耕し、時折、博多に住む家族に食糧を運んだりした。土地の人との関わりは殆どなかったらしい。
 そのようなわけで、竹下しづの女は郷里の行橋市中川では長い間全くと言っていいほど忘れられた存在だった。しづの女の句碑建立の計画が出たときも土地の人たちは「しづのさんちや、あの“さきのおばさん”のことかね」(光畑氏の説明では「中川という集落には「竹下」姓が多いので、どの竹下かを確認する呼び方をしており、さきのおばさんは「先の竹下」と言う意味」とのこと)「そんなたいした人やったんか」などと言うばかりで、話は一向にすすまなかったらしい。それでも句碑建立期成会が結成されて光畑氏らが尽力し、全国の俳人の大きな協賛も得られて、昭和54年同地に〈緑陰や矢を獲ては鳴る白き的〉の句碑が建立された。この句は『ホトトギス』の巻頭を得た作品で、自宅の襖紙に残っていたしづの女の直筆をそのまま句碑に刻み込んだものである。しづの女が戦後数年間住んだ田小屋は親しくしていた中村家に譲られたようで、今も同家の屋敷の一角に現存している由。なお光畑氏は昭和21年生まれで、しづの女がこの田小屋にいた時代、赤ん坊の彼を含む彼の家族は偶然その隣に住んでいたという。
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 今回、女性読者からは体験に基づいた切実な感想がいくつも寄せられた。それに対して、男性の読者からは女性の置かれた立場について触れたものは、残念ながら全くなかった。そこで今回は、女性の感想の中からいくつか選んで紹介することにした。掲載は当方への到着順で、文末にはわかる範囲で年代を示した。
*今回の竹下しづの女の句には度肝を抜かれました。現代よりもっと性差別が激しかった時代に、しかも九州で、男たちの嫉妬のなか、夫や長男に先立たれ、病身で…と、逆境にありながら思ったことを率直に言い放つ勇気に打たれました。読んでいるうちに、しづの女より十年ほどのちに生まれた三橋鷹女のことを思い出し、鷹女について書かれた通信をいくつか再読してみました。
 地方で教師や司書として働き戦後は農業までしていたしづの女と、東京で良家の奥さまとして暮らした鷹女とでは、生活のありかたは違い、しづの女の句は生活者としての汗や悔しさが滲み身体性が濃く感じられ、鷹女の作品は「一句を書くことは一片の鱗の剥脱である」と句集『羊歯地獄』の自序で書いたように(通信63号)うたを詠むことに全身をささげた表現者としての苦しみが強く感じられますが、女性が反骨の意思表示をすることの難しさは同じだったような気がします。二人の凛とした生き方を感じる句〈日を追はぬ大向日葵となりにけり しづの女〉〈白露や死んでゆく日も帯締めて 鷹女〉と対比しても面白く、また向日葵を詠んでも鷹女は〈ひまわりかわれかひまわりかわれか灼く〉という具合、老いや悲しみをうたってもしづの女は〈あめつちに在るは吾のみ稲妻のみ〉〈埋火の上落魄の指五本〉であり、鷹女は〈悔恨の羽毛となりて浮寝せり〉〈消炭を夕べまつかな火に戻す〉など興味深いです。しかし二人とも、女らしさや母親らしさを強いられることについての怒りや苦しみ、日常生活のもろもろについての憤りについては〈短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎 しづの女〉〈この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 鷹女〉と激しい調子で言い放っています。
現代でも、基本的には男社会であり、女が自己を貫いて生きることは難しいのですが、それでも「…鬼女変貌が成らずとも、女はその苦患を糧にこれからもしたたかに生きていくことだろう」(通信71号)、「…しかしこのように生きた一人の先達を知ったことで、私はやはり何がしかの力を与えられたような気がする」(今回の通信の結び)などには、共感を覚えました。(60代)
*通信を読んで、女性の地位について久しぶりに考えました。私の若い頃はまだまだ女性は苦労が多かった。その前の世代よりはラクなんでしょうけど。私は自立派なのでずいぶん男の人からいじめられましたよ。言葉では言えないくらい屈辱を味わいました。今の若い女性はラクになりましたよねぇ 羨ましいです。私は女であることで男の人の何倍もエネルギーを使って生きてきた、と思う。(60代)
*かつては、女性が社会で自立してそれなりにやっていくためには、女を捨てないとやっていけないほどのエネルギーが必要だったのでしょうし、実際に成功した女性にも「女捨ててます感」の漂う人が多かったように思うのです。ところが最近は、社会的に成功しながら、外見も人並み以上で、恋愛も結婚もしっかりやっていて、何一つ捨てていないような人が珍しくなくなってきています。逆に、いくら力があっても、女を捨てている人は成功したとは認められにくくなったような……。「男勝り」という表現を最近あまり聞かなくなったのも、そのあたりが関係しているのかなと思うのです。だから、今の世の中を主に体験している私は、自立して生きていくことと女性として魅力的と認められることを二者択一のように位置づけてしまうことには違和感を覚えるのです。
 もっとも、一般の女性にとってどちらの世の中が幸せなのかは、微妙な気もします。昔なら、成功した女性に対しては、「すごいと思うけど正直うらやましくはないよね……」というのが大方の本音であり、だからこそ男性も冷淡なことが言えた。でも今は何を言っても負け惜しみにしかならないし、女性の生き方の自由度が上がった分、「あの人ができているのに自分はできていない」ことへの言い訳がきかなくなって、女性の人生がよしとされるためのハードルはむしろ高くなっているように思うのです。できないのは己の努力と能力の不足だという圧力が強くなっているといった感じでしょうか。(30代)
*強烈な生活感のある俳句に今迄のコンセプトをくつがえされショックをうけました。あなたの解説なしには理解できません。なぜ男性評論家が驕慢と評するのか、不可解です。個人的には終りの五句、とくに「あめつちに」はすごいと思いました。スペイン語に訳しても評価されると思います。私にとって未知の世界を紹介して下さり、ありがとうございます。
*278号を読んで、若い時分の職場でのことをいろいろ思い出しました。同じ4年制大学卒の資格で入社し同じ仕事をしているのに、女性ばかりがお茶汲みをさせられました。これを止めさせてもらおうという運動が起こったことがあります。その動きに対して上司は「女性はお茶汲みをやって男以上に仕事をしなければ評価されないのだ」と平気な顔で言いました。また女性の中にも「お茶汲みなんてさして大変な仕事でもないのに、そんなことで職場の雰囲気を悪くする必要ないじゃない」などと言って、運動の足並みを乱し一人せっせと点数稼ぎをするような人がいたりしました。1970年代の東京でもこのような状態だったのです。それを考えると、明治20年生まれの女性が通信にあったような生き方をしあのような句を生み出した背景には、どれほどの屈辱感、口惜しさ、忍耐、辛さなどがあったことか、また非常な勇気も必要だっただろうと思い、つくづくすごいなあと感じました。(60代)
*彼女の句は、静電気のようですね。触れようとするとバチンと拒絶する。ほんのりと残る痺れにも似た読後感。それが激情なのでしょうか。母として女として生き難い時代を生き抜かねばならない故の肩肘を張ったような物言い、なんとなく私は悲しさというか空しさのようなものを感じます。特に3句目などは庭に葦の生い茂った東屋のぬれ縁にぽつんと座る小さな背中の情景が浮かび、せつなくなります。ところで草田男の評も悪意ととらえていますが、私はそれだけには思えません。女性だけではありませんが、女性に多く見られる意地と遠慮を綯い交ぜにした「大丈夫」という感情、それがとても色濃く見えるからです。私から見ると、泣きたいときは素直に泣けばいい、つらく苦しいときは吐き出せばいい、意地を張るなと諭す意見のように思います。どちらにせよ、そう生きざるを得なかった女性には酷な意見なのかもしれませんが。(30代)
*自分の父や母の時代の少し前の頃を五人の子供を抱えて育て、介護もし、働きながら句も発表しつづけたことを思うと、その困難さがまず思われました。…「心が決まる時期」についてはうなづくことが出来ます。まだ他の生き方があったかもしれないといった未練のようなものを越えて〈日を追はぬ大向日葵〉となったことを見つめられる、それは今は四十よりももっと後のような気がしますが、そうだ、そうだと思います。女性、母親は日々の暮らしの瑣末なことにまで手を取られ足を取られ心を取られながらの暮らしですから、そのことが男の人達のようには生きられない切ないところだろうなあと思います。今、私は歯科に通っていますが、そこに若く美しい研修医がいてその人を見ると「何も医者にならなくても家庭人としても幸せに生きられると思うのになあ」と一瞬思うことがあります。男の先生に伍してやろうとする姿をみると、生き方というのを考えさせられるのですね。自立することを願い仕事を持って生きてきた私なのに、今の時代に生きる女性にこんな思いを抱いたりもするのです。「母親の看病を気力でこなし…死去の翌日から起き上がれなくなり」は私もまた同じような体験をしてきましたので「気力でこなす」ということ、かなしいけれどよく分かります。酒に逃げることも出来ず現実をそのまままるごと受け止めてしか生きられない生を切なく思います。日々の暮らしに追われて過ごしている私にしづの女を会わせてくれてありがとう。(60代)
*いつも興味ある俳人を紹介していただいて、ありがとうございます。竹下しづの女、名前も知りませんでした。かなり時代を先取りした女性だったようですね。近代的な自我を備えていた、現代を生きる女性のようだと感じました。根本さんの解説がなければ、草田男の評”驕慢”の意味が分かりませんでした。彼女の句は、そのくらい現代ならば全く抵抗なく受け入れられたものでしょう。
  木々に芽を吾には忘却を神は強ゆ
この句は新鮮ですね。大きな世界観を詠んでいるように思われます。
学生時代に授業で読んだ、ハーディの「テス」の一節
  Justice was done
を思い出しました。女主人公が一度狂ってしまった人生から悲劇的な結末に至って死ぬのですが、その死んだ場面で、この一節が書かれています。人間の一生なんて神にもてあそばれているようなもので、死ぬことは、神のsport(ゲーム??)が終わったというような意味だったと思います。 多少、意味合いが違うかもしれませんが、このことを連想したところです。(60代)
(2011年1月15日発行)

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発行人 根本啓子