水燿通信とは |
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278号竹下しづの女先駆的女性としての宿命を生きた俳人 |
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現在、世界規模での経済危機の最中にあり、日本も景気回復の兆しは見えず政治状況も低迷したままで2010年が終わろうとしている。そのような中で、少しでも明るい気分で新年を迎えたいと思い、明治生まれの俳人で、意志力、行動力、包容力に富んだ、あたかも元気印の元祖のように喧伝されている竹下しづの女(じょ)という女性について考えてみることにした。 |
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竹下しづの女は明治20年、福岡県京都郡稗田村(現在の行橋市)に生まれた。福岡女子師範を卒業、尋常小学校訓導、小倉師範助教諭を勤め、国語、音楽を教えた。 |
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俳句は大正8年、吉岡禅寺洞について学び、翌年高浜虚子に師事、『ホトトギス』に投句3回目にして巻頭を得た。しづの女34歳の時であった。しかし、この後しづの女は俳句の定型性や季題と、主観の表現との相克に悩み、昭和2年に復帰するまで数年間句作を中断している。昭和8年、夫が急逝、この後しづの女は、働く女性を「職業婦人」と称して特別視するような時代状況の中で、福岡市立図書館司書として母子家庭の生計を支えた(昭和14年、腎臓炎が慢性化し図書館司書を辞職)。昭和12年、高等学校俳句連盟(のち学生俳句連盟と改称)の結成に尽力、その機関紙『成層圏』の指導に当たった。昭和24〜5年、九州大学俳句会の指導をする。 |
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昭和15年に刊行されたしづの女生前唯一の句集『颯(はやて)』からいくつか作品を見てみよう。 |
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短夜や乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか) |
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竹下しづの女はこの句を含む7作品で、大正9年8月号の『ホトトギス』の巻頭を得る。女性として初めての巻頭で、しづの女が俳句を始めてからわずか1年のことであった。この頃、彼女は7歳から1歳まで4人の子どもを抱え、育児にてんてこ舞いの日々であった(後にもう1人生まれた)が、掲句はそんな生活の一齣を詠んだものである。短夜はすぐ明ける。母は度々の授乳で眠い。なのにそんな蒸し暑い短夜に限って児は乳を欲しがって泣く。「いっそ、捨ててしまおうか!」、育児を経験したことのある者なら誰にでもわかる母親の瞬間的な激情を、赤裸々に表現している。今日でも多くの母親の共感を得る作品であろうが、「育児は女の天職、慈愛は母の美徳」といった道徳がまかり通っていた大正時代半ば、このような言葉を使っての表現は、大胆極まりないものに感じられたことだろう。 |
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しづの女が巻頭を取った当時『ホトトギス』では、高浜虚子が女子の趣味教育のために台所に題材を得た投句の試みがなされていたが、才媛のしづの女は台所俳句には最初から興味がなく、いきなりこのような漢籍に通じていることの窺われる言葉を用いた硬質な感じの作品を出した。選にあたった高浜虚子はしづの女俳句の作風を「佶屈贅牙」と評したが、同時にこれらの作品が女子の趣味教育の域を超えていることをすぐに悟り、投句わずか3度目の作品を巻頭に置く英断をした。優れた俳人を育てることに並々ならぬ力量を示した虚子のこの炯眼には驚かされる。〈須可捨焉乎〉の表記は、漢語や漢文調の表現を好んで用いたしづの女の特質が表れているといえるが、詩吟、剣舞が盛んだった当時の世相をも反映しているらしい。 |
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日を追はぬ大向日葵となりにけり |
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『ホトトギス』系の俳人西村和子は、この句に関して次のように述べている。 |
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女性の場合、四十歳を過ぎたころから、自分の人生に他にありようはないことを実感するようになる。若い頃は様々な可能性に満ちていた人生も、経験の方が大きく重くなるにつれ、迷いがなくなってくるのだ。……自分はこの人生をこのように生きるしかないのだと、心が決まる時期とでもいおうか。私はこの句に、しづの女のそうした人生における感慨、ひとつの節目の自覚といったようなものを見る思いがする。或る感慨や実感をもって自然に向きあうと、それまで気づかなかった一木一草のありようが見えてくることがある。(『名句鑑賞読本 茜の巻』角川書刊) |
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この作品を自画像とみる見方が多いが、このような実感に基づいた切実な解説に接すると、この作品の味わいがぐんと深まるのを感じる。それでも、派手な向日葵の中でもとくに大振りの大向日葵に自分を重ねているあたり、やはりしづの女らしさは紛れもない。昭和5年作。 |
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華葦の伏屋ぞつひの吾が棲家 |
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昭和8年、夫の急逝に遭い、しづの女は図書館の司書として働き、すでに結婚していた長女を除く4人の子供との母子家庭の生計を支えることになった。 |
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この句は『ホトトギス』雑詠句評会でとりあげられている。出席した中村草田男はこの句について、夫を亡くして「蘆の花だけの淋しく咲き乱れて居る辺りのささやかな住居に移る可く余儀なくされた場合の述懐…失意の中にも尚一種の驕慢さが潜み、驕慢さが潜んで居る故却つて哀れが深まつて居る」と発言、それを受けて高浜虚子が「草田男君の驕慢といつたのは敢えて作者を誹謗したのではない。其驕慢は女の皆持つ驕慢である」と述べている。草田男といえば、その妻や子に対する愛情を真摯に(時には手放しで)句に詠った俳人である。その草田男にして「驕慢さ」などという語でこの作品を評するのだろうか。虚子が「作者を誹謗したのではない」と今風の言葉で言えばフォローしているが、それでもこの評を読む者はしづの女に対する草田男の一種の悪意を感じるのではないだろうか(後年、しづの女は高等学校俳句連盟の機関紙『成層圏』を創刊した際、指導協力者として草田男を推薦したりして、両者は深い協力関係になるのだが)。また、やはりこの句評会に出席していた赤星水竹居は「なんだかお能の何とか小町、というような老女物の作品を観るよう」とこの句の美を評しているが、ここにも自立心の強い女性に対する男の悪意が感じられるように思う。女性をいわゆる女らしさといった側面からばかりでなく、その力量、生きる姿勢、生き様といった面から見る、つまり一人の人間としてみることは、大半の男性には出来なかったことなのだろうか。しづの女に対してはこのほかにも「後家の頑張り」「男を見下している」といった評もみられる。私は、甘える女には滅法やさしいのに、自立して生きようとする女性には冷淡な多くの世の男性をこれらの評にみる思いがする。 |
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そんななかで、しづの女から指導を受けた『成層圏』の同人香西照雄は『定本竹下しづの女句文集』(以下『定本』と表示)に収録されている「竹下しづの女」という文(初出は『俳句研究』昭和28年7月号)の中で、女性らしい繊細な感覚で叙情的な句を作った杉田久女の作品や、母親らしい柔らかな感性を大らかに謳いあげた中村汀女のそれに比べて、しづの女の俳句が漢字漢語を多用した難解感や観念的な説明傾向があったことを認め、また一時代前の女権論者達が冷徹な知性と男勝りの意志を嫌われつつもまず理論を武器として戦ったことなどに触れた上で、次のように述べている。 |
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女の学問や理屈を、また男勝りを異端とした彼女をかこむ社会の古さへの抵抗が、彼女に女らしい繊細な感性や、やわらかさを踏みにじまつで(根本註「踏みにじってまで」か)、知性や男勝りを追求させたのである。そうであれば、その創作方法の誤謬も、強顔も、衒気も、皆彼女の先駆者としての歴史的位置が、不可避的に彼女を追いこんだ「偏向」であり「ひずみ」ではなかったろうか。その上に後半生において、未亡人としてのいわゆる「後家の頑張り」までがプラスされたことを思えば、私は彼女の生涯に、また彼女の俳句に、後進国の先駆的女性としての宿命的悲劇をまざと見る思いがする。 |
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本来、自立心が強く仕事も出来るということは決して女らしいことと対立する概念ではない筈だ。なのに竹下しづの女が生きた当時の状況は、自立心のある有能な女性をあたかも魅力のない女性であるかのごとくに男勝りなどと否定的に呼んだのだ。そのようなことを思うと、女性の置かれた立場に深い理解を示したこのような文が、たとえ戦後とは言え、男性によって書かれたことは何ともうれしい。掲句は昭和9年作。 |
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汗臭き鈍(のろ)の男の群れに伍す |
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福岡市立図書館の司書として働いていたころの作品。昭和初期、働く女性が特別視されていた時代、しかも男尊女卑の風潮が特に強かったとされる九州でのこと、誇り高く仕事も出来たであろうしづの女の中には、男というだけで評価される風潮に対して男を見下しているなどという単純な評では到底収まりきらない鬱勃とした思いがあったに違いない。〈鈍の男〉などと言い放ったあたり、負けず嫌いで烈しい気性のしづの女の面目躍如たるものがあるという評はうなずける。しかし同時に、この時代、このような表現をすることがどれほど勇気の要るものであったかにも思いを致すべきであろう。昭和11年作。 |
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埋火の上落魄の指五本 |
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埋火(うずみび)とは熾(おこ)っている炭火に灰をかけたもの。用のないときや夜寝る前にこれをすると炭火が長く持つ。その埋火の上にかざした片手にふと眼が行ったしづの女、荒れてやつれた指に苦労の多かったこれまでの人生を憶い起こしたりしたのだろうか。そこはかとない自愛の念も感じさせるいい句だと思う。齢50も過ぎ、さしものしづの女にもこのように自分の人生をふと振り返るような時があるようになったのだろうか。 |
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この句は昭和13年の作であるが、14年までの作品を収めた自選句集『颯』には収録されていない。昭和39年に出された『定本』には『颯』の収録句に加えて、遺された句帖メモの中から選ばれた句、および昭和15年以降の『ホトトギス』『俳句研究』『成層圏』などに発表されたものが収録されているが、掲句は『颯』に漏れた作品で『定本』によってはじめてみることが出来るものである。実際のところ、今日この『定本』を目にすることはなかなか容易ではなく、私自身、長く『颯』しか見ていなかったため、ある本で初めてこの句を知ったとき、しづの女の俳句にこのようなものがあるのかと意外な思いを抱いた。『定本』ではこの〈埋火〉の句は昭和13年の最後の部分に置かれている。 |
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かくして、昭和15年以降の作品については『定本』で見ることになる。昭和15年の作品は〈我が子病む梅のおくるるの所以なり〉〈梅遅し先考・亡夫・病む嗣子に〉〈梅おそし子を病ましむる責ふかく〉〈梅白しかつしかつしと誰か咳く〉といった病む子を詠んだ句で始まっている。『定本』にある「竹下しづの女年譜」によると、「昭一五年三月、吉信九大農学部卒業、大学院に残る」とあり病気に関する記述はないが、大学院にすすむ頃はまだ病名がはっきりしていなかったのだろうか。19年には「秋、吉信結核のため入院、二〇年夏へかけて、その看病に心労する」とあり、結局彼は敗戦直前の昭和20年8月5日、死去する。この吉信は農業学校の校長だった父と同じ分野の研究者になり、竜骨の俳号で句作もしており、しづの女にとって亡夫と語り合っているような充足感をも抱かせてくれる頼もしい存在であった。しかしこの悲嘆に暮れる暇もなく、しづの女は同年の末から、戦後の農地改革による田の確保のため、生地である京都郡稗田村に小屋を建てて独り住み、5反の田を独力で耕作、福岡の子どもたちに食糧を運ぶ生活をするようになった。この時期、しづの女は句作をする心的余裕がなかったのか、『定本』には昭和19年から22年までの作品は収録されておらず、昭和23年になって再び作品が出てくる。同年作の句をいくつか引用してみよう。 |
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竜骨忌に |
弧り棲む埋火の美のきはまれり |
あめつちに在るは吾のみ稲妻のみ |
木々に芽を吾に忘却を神は強ゆ |
欲りて世になきもの欲れと青葉木兎 |
夜半の吾が胸を吾が抱く青葉木兎 |
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〈弧り棲む〉の句は昭和23年の最初に出てくる作品。同じ〈埋火〉を用いた〈埋火の上落魄の指五本〉を作ってから10年、この2句の間には長男の死と、敗戦直後の食べるため生きるために必死だった厳しい現実が横たわっている。また他の作品をみても、老いてひとり住む孤独の中で「過去のことはみんな忘れろと神は強いる」「〈世になきもの〉を求めるしかなくなった」といった感慨の句などがみられるようになり、しづの女の喪失感の深さが窺われる。 |
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しづの女は昭和24年末に病いに倒れたが、それでも高齢の母親の看病を気力でこなし、26年1月に母が死去すると翌日から起き上がれなくなり、半年余後の8月3日、腎臓炎のため死去した。65歳であった。 |
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竹下しづの女の代表句数句を知っているだけのときには、いかにも誇り高く旺盛な行動力、意志力を持って元気いっぱいに生きたように感じられたしづの女の一生は、このようにして彼女の生涯をたどっていく段階で、決してそのようなものではなく様々な困難、口惜しさ、悲しさ、労苦に出遭い、それに耐えつつ懸命に生きた一生であったことを知った。おそらくこれが人生というものの実相なのだろうし、現実なのだろう。しかしこのように生きたひとりの先達を知ったことで、私はやはり何がしかの力を与えられたような気がする。 |
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※ | 竹下しづの女の句集の表記は、資料によって「颯」と風偏に「立」を書いたものの2種類がみられる。本稿では『定本』に従って「颯」にした。 |
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※ | 『定本竹下しづの女句文集』は、東京都内では国立国会図書館と新宿区にある俳句文学館にしか所蔵されていない貴重な資料である(しづの女の地元である福岡県では北九州市立図書館、苅田図書館で所蔵している)。現在、東京都の公立図書館では所蔵図書をお互いに融通しあうシステムが整っており、私もこのシステムを利用して、国会図書館蔵の『定本』を地元の区立図書館で見ることが出来た。館内のみでの閲覧でコピーは不可といった制約はあるが、一般の読者にとっては大変ありがたいシステムだと深く感謝している。 |
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すこやかに新年をお迎えくださいますように。 |
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(2010年12月15日発行) |
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※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |