水燿通信とは
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63号

一句を書くことは一片の鱗の剥脱である

一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である
四十代に入つて初めてこの事を識つた

五十の坂を登りながら気付いたことは
剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の芽生えによつて補はれてゐる事であつた

だが然し 六十歳のこの期に及んでは
失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の儘である

今ここに その見苦しい傷痕を眺め
わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の數をかぞへながら
独り 呟く……

一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である
一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ

一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に
「生きて 書け――」と心を励ます

(三橋鷹女句集『羊歯地獄』自序)
 俳人三橋鷹女(明治32〜昭和47年)には、次のような句がある。
白露や死んでゆく日も帯締めて
 いつもぴんと背筋を伸ばして生きた、明治生まれの女の気概が感じられる句だが、作者の鷹女はまさしくこの句から連想されるような、凛とした感じの折り目正しい人間だったらしい。同時にその俳句に向かう姿勢も、外見に似て志の高い厳しいものであった。
 鷹女には句集が5冊あるが、これらの序文、跋文は、すべて自分自身でまとめている。自分の師や俳壇の実力者に序文を草してもらうのが慣例化しているような俳壇で、一貫してこの姿勢を取り続けた鷹女の姿勢は、自らの力だけで立とうとする、まことに潔いものだといえる。
 文頭に掲げたものは、その第4句集『羊歯地獄』(昭和36年刊)の序文。老いというものをみつめ続けた鷹女らしい内容で、表現することの厳しさと、この句集に込めた作者の気迫がひしひしと伝わってくる名文である。鷹女句集の序文はいずれも心魅かれるものばかりであるが、これはその中でも、とくに有名になったものである。
 長い間どの結社にも所属しないでやってきた鷹女は、第3句集『白骨』上梓の翌年の昭和28年、富沢赤黄男主宰の『薔薇』に同人として参加する。そして強烈な個性を持つ赤黄男に激しく反発しながらも強い影響を受け、句風を大きく転換させていく。50代半ばに達し、すでに俳人としてかなりの評価を得ていた鷹女にとって、これらの行動は大きな決断を要するものだったに違いない。果たせるかな、『薔薇』参加後約10年間の作品を収めた『羊歯地獄』上梓は、それまでの多くの読者を難解という表情で沈黙させる結果となった。しかし、“反面、一部の読者の側からは怖れを伴った讃嘆の声が洩れ、それが詩壇、歌壇の中へと浸透してゆき、波が寄せるようにしだいに領域を拡げていった”(中村苑子「三橋鷹女」 『わが愛する俳人』所収)のである。
 その『羊歯地獄』の刊行からすでに30年以上経った。現在では、鷹女の句業は『薔薇』参加以後の活動――作品としては『羊歯地獄』、その9年後に刊行された最終句集『■(註)』、および「『■(註)』以後」――によって大きくその価値を増したことは、もはや動かしがたい事実となっている。最後に『羊歯地獄』の中から代表的な作品をいくつか紹介しておこう。
鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ
炎天に繋がれて金の牛となる
踊るなり月に髑髏の影を曳き
落莫ときりぎし蛇をしたたらす
薄氷へわが影ゆきて溺死せり
消炭を夕べまつかな火に戻す
抜手切る 亀よ 落暉は沖で待つ
昼山火事へ一本の羽毛が走る
(註)「■」の部分は原文では木偏に無で「ぶな」と読む漢字である。
(1993年6月10日発行)

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発行人 根本啓子