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終戦の日(戦後78年)
18年後の広島
御巣鷹事故から38年
四季の新潟
あだな西堀・東堀
夏のバカンス
 


 あだな西堀・東堀       
   
   リタイヤ後、しばらく同じような夢をみることが多かった、その1つ「小さな川のような辺で酒を飲んでいる」というもの。
「どこだろうなあ?」「何時頃なのかなあ」と気になったものである。

疑問の解消!!
「そうか学生時代!、新潟の堀!」

 新潟大学学生寮「六華寮」、寮歌の番外編に「四季の新潟」がある。その一番の歌詞に、西堀・東堀が出てくる・
1934年、作詞 西條八十、作曲中山 晋平という当時のゴールデンコンビによる作品である。
、  1 春はうらうら 日和山
  雪の弥彦も 霞に溶けて
  枝垂れ青柳 風吹きゃなーびく 
  あだな
西堀東堀  
 
 
 
   
   新潟の堀の歴史
   記憶に薄い「堀
「四季の新潟」新潟大学「六華寮生」にとっては必須の寮歌であるが、4年間の新潟生活でその堀を身近に感じたことがあまりないのである。
その歴史を調べて見ると、なるほどと感じる。
 ・昭和30年の新潟大火後に東堀が埋立られている。
  (新潟大学生活は昭和35年である、そもそも東堀は無い時代)
 ・西堀はまだ存在、堀沿いには屋台も有ったのである。

 
   江戸時代前期にスタート、上は白山神社境内地、下は洲崎町(古町13番町)まで、幅は現在の上大川前通から西堀通まで、信濃川と平行して、寺町堀(西堀)と片原堀(東堀)が町を貫き、この二本堀と信濃川を結ぶ御采堀・広小路堀・新津屋小路堀・白山堀(一番堀が掘られ、後に、新堀が掘られ、信濃川に入る堀は5本になる。
明治5(1872)年、地名や町名を分かりやすいようにと、寺町堀を西堀、片原堀を東堀に改め、
(白山堀、新津屋小路堀、新堀、広小路堀、御菜堀は、それぞれ一から五番堀と改められる。)
大河津分水ができた大正末ころから、堀の水の量が減少、夏場には渇水して衛生上問題があると、荷持が舟でなく車で運ばれるようなり、道路の拡張が求められるように
昭和18年、他門川の半分が埋められ、昭和27・28年に全面的に埋立られ
る。
 昭和30年の新潟大火以後に
東堀が埋立られ、昭和39年までに西堀も埋めたてられた。  
  「四季の新潟」は、新潟大学学生寮「六華寮生」に引き継がれた。

そして、新潟市民には意外と知られていないようだ。
新潟には、母親の兄家族が西大畑町に住んでおり、その長男の家庭教師を4年間付き合うことになった。どうも事情は判らないが卒業後にはその家族も新潟を離れ、横須賀に住む。
写真は、その長男の結婚式の様子。・何故か祝辞を指名され・何故か歌を指名され
四季の新潟を歌っている。