奥羽古城散策
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管理人:貞庵

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戸沢氏

平衡盛が流浪の末に陸奥国滴石庄に移り住んで滴石氏を称したが、後に戸沢村に住んで戸沢氏を称したのが始まりという。しかし、一方で平衡盛は奥州藤原氏の家臣という説や、鎌倉の御家人という説もあり、どちらも1189年の奥州合戦で源頼朝に味方したことから滴石庄の地頭となったとしている。

歴代当主

【平衡盛】 たいらの ひらもり
 戸沢氏初代。滴石氏初代。平通正の嫡男。父を保元の乱で亡くし、大和国で母に匿われて暮らしていたが、元服後は木曽義仲に仕えたという。その後、木曽義仲とは馬が合わなかったため離反し、陸奥国滴石庄へと流れて滴石氏を称し土着したという。その後、衡盛は源頼朝に従い、1185年の屋島合戦などで戦功を立てて陸奥国滴石庄を安堵されたと伝わるが、これは資料からは疑問視されており、1189年の奥州合戦以前から奥州に住んでいることと、名前の頭に「衡」が付いていることから、藤原秀衡の家臣の一人であると考えられている。奥州合戦後は藤原氏の家臣でありながら、所領を安堵された者も多いので、その中の一人が滴石衡盛だったと考えられている。
【戸沢兼盛】 とざわ かねもり (1191~1263)
 戸沢氏2代目。平衡盛(滴石衡盛)の嫡男。滴石庄の戸沢村に居館を構えて戸沢氏を称したと言われ、兼盛を戸沢氏の祖とする文献も多い。後に1206年又は1218年に南部氏に圧迫されて陸奥国から出羽国鳳仙台に移り住んだという。鳳仙台にも長く定住はしなかったらしく、檜木内川沿いに居所を変え、最終的に1220年に北浦の門屋に落ち着いたという。
【戸沢玄盛】 とざわ はるもり
 戸沢氏6代目。戸沢勝盛の嫡男。1331年頃から北畠顕家に従い南朝方として活躍し、この時は滴石も拠点にしていたとされる。後に南朝方が劣勢になると滴石も危うくなり、出羽へと退去したという。一説には出羽の北浦(門屋)に移り住んだのはこの時からだとも言われている。
【戸沢英盛】 とざわ ひでもり
 戸沢氏7代目。戸沢玄盛の嫡男。1348年に英盛は北浦を出て各地で転戦し、1356年には足利尊氏に従って鎌倉入りを果たしているので、英盛の代に戸沢氏は南朝から北朝に鞍替えしたとされる。
【戸沢家盛】 とざわ いえもり
 戸沢氏13代目。戸沢泰盛の嫡男。1423年に小松山城の菅能登守が小野寺氏と通じて謀叛を起こしたため、家盛は門屋より兵を率いて小松山城を落とした。そして、1425年に小松山城を新たな居城とし、門屋城より移り住んだ。15世紀初頭は南部氏が出羽に進出し、1465 年に小野寺氏に敗れるまで仙北周辺を支配したため、この頃の戸沢氏は南部氏に従属していたと考えられる。
【戸沢秀盛】 とざわ ひでもり
 戸沢氏17代目。戸沢征盛の嫡男。大曲まで勢力下に置いた秀盛の頃には安東氏との間で衝突するようになり、1496年に弟の忠盛を淀川城に置いて安東氏と小競り合いを繰り広げた。秀盛は長年子に恵まれなかったため、弟に家督を譲るつもりでいたというが、かなり高齢になってから子(道盛)が生まれたため、その子に家督を継がせると変心したという。しかし、その6年後に秀盛が他界してしまったため、後の忠盛の謀反を誘発する原因となった。
【戸沢道盛】 とざわ みちもり (1524~)
 戸沢氏18代目。戸沢秀盛の嫡男。1529年に秀盛が他界したため、わずか6歳でその跡を継ぐこととなる。このため、後見人は秀盛の弟の忠盛が勤めたが、忠盛は安東家の後ろ盾を得て自分が当主になろうと画策したため、戸沢氏一門や重臣によって角館から追放された。
【戸沢盛安】 とざわ もりやす (1566~1590)
 戸沢氏20代目。戸沢道盛の次男。兄の盛重が病弱だったため代わって家督を継いだ。盛安は武勇に優れ、1587年の唐松野の戦いで安東氏を破り、同年の阿気野の戦いで小野寺氏を破って戸沢氏最大の版図を築き上げた。1590年の豊臣秀吉からの小田原の陣への参加へもいち早く反応し、始め京へと向ったが、小田原へ向う秀吉と入れ違いになったため途中で折り返して東海道を下った。この時、雨で増水した大井川を騎馬で渡って小田原へと駆けつけたため、諸将を驚かせたという。しかし、長旅と無茶が祟ったのか盛安は小田原の陣中で病死してしまった。
【戸沢光盛】 とざわ みつもり (1576~1592)
 戸沢氏21代目。戸沢道盛の三男。1590年の小田原の陣で兄の盛安が病死してしまい、盛安の子の政盛も5歳に満たない幼子だったため、急遽家督を継ぐことになった。しかし、光盛もまた病を患い、1592 年の文禄の役に参加するため、手勢を率いて名護屋に向う途中で病死してしまった。
【戸沢政盛】 とざわ まさもり (1585~1648)
 戸沢氏22代目。新庄藩初代藩主。戸沢盛安の嫡男。父と叔父を相次いで病気で失ったため、わずか7歳で家督を継いだ。1600年の関ヶ原の合戦の時は東軍に参加し、西軍側の小野寺氏や上杉氏と戦って軍功を上げ、戦後は4万石に加増されて常陸国の松岡に移された。1622年に最上氏が御家騒動で改易されると、最上氏旧領のうちの新庄6万石を与えられて移り住み、新庄藩の初代藩主となった。
【戸沢正実】 とざわ まさざね (1833~1896)
 戸沢氏31代目。新庄藩11代目藩主。戸沢政令の嫡男。1868年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加していたが、新政府軍の島津家と姻戚関係にあったことから途中から新政府軍へと参加している。これにより新政府軍に前後を挟まれる形になった庄内藩は激怒し、新庄藩へ攻め込んで城も町も焼き払ってしまった。居城を攻め落とされた正実は隣の久保田藩へと逃れ、戦後に新庄へ戻って藩知事となったが、1869年の版籍奉還により免職となった。

居城

城名 概略
滴石城 平安時代に平衡盛が築いた平山城で、戸沢兼盛が出羽に退去した後も戸沢氏一族が残り、後に斯波氏や南部氏によって攻め落とされた。
宝仙台城 1206~1218年頃に出羽の鳳仙台へと退去した戸沢兼盛の城跡とされる。後に長者屋敷と呼ばれた。
門屋小館 鳳仙台から峠を越えて檜木内川沿いへと進出した戸沢兼盛が門屋に築いた館で、2年後に門屋城を築くまでの間の居城となった。
門屋城 戸沢兼盛が門屋に築いた平山城で、家盛の代まで戸沢氏代々の居城となった。角館城に本城を移してからは一門の門屋氏の居城となった。
角館城
(小松山城)
小松山城は菅氏の居城だったが、1423年に謀反を企てた管氏を戸沢家盛が討ち滅ぼして居城をここに移した。この城が角館と呼称され、後に地名となった。
松岡城 1600年に出羽国角館より常陸国松岡へ4万石で転封された戸沢政盛は、山城の竜子山城を改築して平山城を構築し、常陸松岡藩の藩庁とした。1622年に政盛が新庄へ転封となると、松岡城は水戸藩に預けられた。
鮭延城 新庄6万石を与えられた戸沢政盛が常陸国より出羽国に移り、最初に居城とした山城。しかし、鮭延の地は統治に不便なため、沼田の地に新庄城を築き移り住んだ。
新庄城 新庄藩初代藩主の戸沢政盛が築いて以来、幕末まで新庄藩の藩庁となった平城。幕末には官軍に付いた新庄藩を幕軍の庄内藩が攻め、城は陥落して灰燼と帰した。

一門衆・家臣団

居城 概略
小館氏 門屋小館
岩瀬小館
一門衆。戸沢兼盛が門屋城に移り住んだ時、門屋小館に次男の盛正が入って小館氏を称したのが始まりとされる。玄盛の次男の長盛や征盛の三男の政重も小館氏を称している。1590年に戸沢盛安が小田原の陣へ参陣している隙を突いて小館盛重が謀反を起こしたが、留守を守る家臣達が団結してこれを鎮圧し、盛重は小野寺領へ逃げたという。
中館氏 中館 一門衆。戸沢兼盛が門屋城に移り住んだ時、中館に三男の兼任が入って中館氏を称したのが始まりとされる。1587年の唐松野合戦には中館安房守が参加している。
門屋氏 門屋城 一門衆。門屋の領主。1425年に戸沢家盛が門屋から小松山へ居城を移した時に、門屋に残った戸沢氏一族が門屋氏を称した説と、戸沢寿盛の次男の頼盛が門屋に移って門屋氏を称した説がある。1590年に門屋宗盛は角館にて戸沢盛安の留守を守っていたが、謀反を起こした小館盛重の急襲を受けて討ち取られた。
大関氏 大野関館 一門衆。大野関の領主。門屋頼盛の二男の盛定が大野関に館を建てて移り住み、大関周防を称したのが始まり。周防は1587年の唐松野合戦に参加している。
楢岡氏
(楢岡小笠原氏)
土肥城
揚土城
楢岡城
一門衆。信濃国より出羽国の由利郡へ渡った小笠原氏の末裔が楢岡氏を称したのが始まりという。1458年に小野寺氏によって所領を奪われたため、婚姻関係にあった戸沢氏を頼って落ち延び家臣となった。その後、戸沢寿盛の三男の光遠を養子に迎えるなどし、戸沢氏一門の重臣となった。
淀川氏
(淀川戸沢氏)
淀川城 一門衆。淀川の領主。1496年に戸沢忠盛が兄の秀盛の命で安東氏との国境を守るため淀川城へ入ったのが始まり。忠盛は後に道盛の後見人として小松山城に入るが、謀反を企てたため家臣達によって小松山城から排除され、淀川城へ戻った。
宮田氏 宮田城 一門衆。宮田の領主。戸沢一門として宮田嘉兵衛尉の名が伝わる。
前田氏 大曲城
西荒井小館
戸沢氏家臣。小野寺氏一門。小野寺道綱の一族だったが、後に戸沢氏が大曲まで勢力を伸ばしてきた過程で傘下に降った。1579年、前田利信は戸沢盛安の代理として織田信長への使者を務めたが、自分が仙北の領主であると偽ったため、後にこれが露見し子孫は断絶となった。なお、利信の兄の又太郎は家督を継いですぐに上洛し、そのまま行方不明となっている。
神宮寺氏 神宮寺館 戸沢氏家臣。小野寺氏一門。小野寺信道の子の道珍が神宮寺に住んで神宮寺藤七を称したのが始まり。戸沢氏が大曲まで勢力を伸ばしてきた過程で傘下に降った。前田道信の三男は神宮寺氏に養子に入り、後に神宮寺掃部を称した。
戸蒔氏 戸蒔館
荒川館
戸沢氏家臣。甲斐源氏一門。後三年の役に源義家に従軍して土着した説と鎌倉~室町時代に出羽に流れてきた説がある。六郷氏や小野寺氏に従いながらも、庄内の武藤氏と外交関係を築くなど、小規模ながら独立した国人領主だったが、戸沢氏が大曲まで勢力を伸ばしてきた過程で傘下に降った。
白岩氏
(白岩下田氏)
白岩城 戸沢氏家臣。白岩の領主。下田氏が白岩郷に移り住んで白岩氏を称したのが始まり。1232年に近隣の十六沢城を落として宮藤氏を降すなど山本郡東部で地盤を固め、後に戸沢氏と婚姻を結んでその傘下に入った。1529年に戸沢道盛の後見人の戸沢忠盛が主家を乗っ取ろうとした時は、白岩盛任を始めとする重臣たちが一丸となってこれを阻止している。1587年の唐松野の合戦には白岩弥十郎が参加した。
富樫氏 富樫館
土屋館
孔雀館
内館
戸沢氏家臣。本郷野の領主。南北朝時代に加賀国を追われて出羽国に流れ、本郷野に土着したのが始まりという。後に戸沢氏が大曲まで勢力を伸ばしてきた過程で傘下に降った。
小白川氏 古堀田館 戸沢氏家臣。平衡盛が奥州へ来る時に付き従った戸沢十八騎のうちのひとりから始まる古くからの家臣。古堀田の領主に小白川大膳の名が伝わる。
新藤氏 荒川城 戸沢氏家臣。1587年の唐松野合戦では、戸沢盛安の本隊が到着するまで新藤筑後守が荒川城を守り抜いた。
太田氏 太田城 戸沢氏家臣。太田の領主。太田四郎や太田小治郎の名が伝わる。1587年の唐松野合戦では太田源七郎が戸沢盛安に付き従っている。
角館氏
(菅氏)
角館城 戸沢氏家臣。小松山の領主。管利邦は小野寺氏に内通していたため、1423年に戸沢家盛によって城を攻め落とされた。これ以降、小松山は戸沢氏の本拠地となる。
刈和野氏 茶臼館
寄騎館
戸沢氏家臣。刈和野の領主。1587年の唐松野の合戦には刈和野兵部が参加した。
八乙女氏 八乙女城 戸沢氏家臣。八乙女の領主。八乙女河内は1593年の戦いで討死している。
鶯野氏 鶯野城 戸沢氏家臣。鶯野の領主。1587年の唐松野の合戦には鶯野佐渡守が参加した。
梅沢氏 梅沢城 戸沢氏家臣。梅沢の領主。1587年の唐松野の合戦には梅沢民部が参加した。
西明寺氏
(最明寺氏)
見附田城 戸沢氏家臣。西明寺(※)の坊官。西明寺入道の名が伝わる。
(※明治の廃仏毀釈で廃寺となる。今は大国主神社。)
隠明寺氏 戸沢氏家臣。滴石庄隠明寺の領主。1587年の唐松野の合戦には隠明寺日向が参加した。「隠明寺凧」は新庄藩士の隠明寺勇象によって生み出された。