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比内浅利氏

1189年の奥州合戦での戦功により浅利義遠は比内郡を賜り、後に一門や子孫が下向したのが始まりと伝わる。しかし、『吾妻鏡』などの資料には浅利氏が比内郡を賜ったような記述は一切無い。ただ、1227年の白川関事件に浅利太郎が遭遇していることから、これを根拠に浅利氏が奥羽の地に所領を得ていたと類推されている。『奥南落穂集』では比内ではなく鹿角郡の地頭職を賜ったことになっており、義遠の子の知義が下向したことになっている。浅利氏の下向についても謎が多いが、鎌倉時代から戦国時代にかけての歴史も断片的で謎が多く、多くの資料では16世紀に甲斐国から浅利朝頼または子の則頼が下向して比内の主になったような記述となっている。要するに鎌倉時代の浅利氏と戦国時代の浅利氏が資料では繋がらないのである。歴史が比較的明確なのは浅利則頼から頼平の代までで、頼平が亡くなった時点で比内の領主としての浅利氏に終止符が打たれ、その後の子孫は佐竹氏に仕えている。

歴代当主

【浅利義遠】 あさり よしとお
 浅利氏始祖。逸見清光の11子。義成、遠義とも称す。甲斐国浅利郷を領して浅利氏を称した初代で、1189年の奥州合戦での戦功で比内郡の地頭職となったとされているが、これを証明する明確な資料は無い。
【浅利知義】 あさり ともよし
 比内浅利氏初代?浅利義遠の嫡男、又は四男とも。通称は太郎又は四郎を称した。比内郡(又は鹿角郡)の所領に初めて下向した人物とされているが、1221年の承久の乱では甲斐国の本領から出陣してる。また、1227年には白川関で謀反の輩を誅戮しており、これは甲斐国浅利郷と比内郡の間を移動中の出来事であったと考えられている。また、『浅瀬石文書』に出てくる比内庄司浅利遠江守も知義と同一人物ではないかと考えられている。
【浅利清連】 あさり きよつら
 比内浅利氏?血縁関係は不明。通称は六郎四郎。1334年の津軽での北条氏残党掃討戦の捕虜を預かっており、南北朝時代に北朝側として鹿角郡や津軽で南朝勢と戦っているため、詳しくは判らないが比内郡の辺りの領主と考えられている。1339年9月の岩楯合戦に参加して以降歴史に登場しなくなる。
【浅利義貫】 あさり よしつら
 比内浅利氏?浅利秀成の子?朝頼とも称す。通称は與一郎。甲斐国浅利郷に居たが武田信虎に駆逐されて奥州津軽に落ち延びたとされているが、この説には疑問符が多く信じられていない。
【浅利貞義】 あさり さだよし (~1550)
 比内浅利氏。浅利義貫の嫡子。則頼、範頼とも称す。通称は与一。独鈷を拠点に勢力を拡大し、比内浅利氏の全盛期を築いた。湊安東氏の傘下に属しており、『湊文書』によれば1525年の男鹿の社殿修繕の棟札に湊安東氏と共に名を残している。
【浅利則祐】 あさり のりすけ (~1562)
 比内浅利氏。浅利則頼(貞義)の嫡男。則頼の死後に跡を継いだが、安東愛季と不和になって合戦となり、1562年8月18日に比内長岡にて自害して果てた。
【浅利勝頼】 あさり かつより (~1580)
 比内浅利氏。浅利則頼(貞義)の次男。実義とも称す。1559年に中野の領主となる。1562年には安東愛季に加担し、兄の則祐を自害に追い込んで、自らが浅利氏の当主となった。1565~1569年には安東氏のバックアップの元、鹿角郡において南部氏と戦っている。しかし、後に安東氏に反旗を翻し、1574年の『山田合戦』にて激突したが浅利軍は安東軍に敗北したという。1580年には浅利氏重臣の片山駿河が安東氏に内通し、密かに長岡城にて暗殺されてしまう。
【浅利頼平】 あさり よりひら (~1598)
 比内浅利氏。浅利勝頼の嫡男。近義とも称す。1580年の勝頼の暗殺により、津軽為信を頼って津軽に落ち延びた。1590年に為信の仲介により、安東実季の配下に入ることを条件に比内への帰還が叶う。しかし、頼平は安東氏からの独立を画策して暗躍し、朝鮮出兵時の安東氏が命じた軍役金も未納のままだったため、1595年についに痺れを切らした安東氏が比内に攻め込み合戦となった。この紛争は豊臣秀吉の元に裁定が持ち込まれるが、審議中の1598年に頼平が急死したためうやむやのまま打ち切りとなった。これ以後浅利氏は没落し、比内は安東氏の直轄地となった。

居城

城名 概略
湯山城 『鹿角古事記』によれば浅利氏の最初の居城で、後に比内へと進出したとされている。
松館 菅江真澄が聞いた伝承の中で、浅利氏の鹿角時代における居城として登場する。
赤利又城 『独鈷村旧記』では浅利則頼が一時的に居城とした場所と伝わっており、この後に十狐城を築いて移り住んだとしている。
十狐城 16世紀に浅利則頼が築いた城と伝わるが、文献によってはそれ以前から存在したような記述がある。一方、元々は十狐次郎の居城で、浅利則頼が攻め落として居城としたという説もある。
長岡城 別名・扇田城。浅利則頼が支城として築き、嫡子の則祐が居城としたとされる。則祐の死後家督を継いだ弟の勝頼も後に長岡に居城を移している。
大館城 浅利勝頼が支城として築いた城だが、浅利頼平が津軽から比内へ帰還した後に居城とした。

一門衆・家臣団

居城 概略
笹館氏 笹館 一門衆。浅利則頼の弟の頼重が笹館に移り住んだのが始まり。頼重は子が出来なかったのか、甥の勝頼の次男の頼広を養子に迎えている。1598年に浅利頼平が大阪に急死した後、秋田実季は浅利氏の旧領を制圧するために攻め込み、この戦いで頼広は討死している。
十二所氏 十二所城 一門衆。浅利則頼の弟の正頼が十二所に移り住んだのが始まり。『浅利與市侍分限』には十二所信濃の名前が記載されているが、浅利正頼との血縁関係は不明。
花岡氏 花岡城 一門衆。浅利則頼の弟の定頼が花岡に移り住んだのが始まり。定頼は1574年の『山田合戦』に参戦して討死し、その跡を嫡男の定友が継いだという。
斎藤氏
(館氏)
大館城 一門衆。浅利則頼の庶子の頼清が1598年の浅利氏の没落の際に乳母の実家の斎藤家に身を寄せて斎藤姓を称したという。後に子孫は館氏に改姓する。
門脇氏 八木橋城 一門衆。門脇政吉(及蘭、または牛蘭)が浅利則祐の妹を娶って一門となり、以後浅利の姓を許される。政吉はどういうわけか上洛して織田信長、織田信高、蒲生氏郷に仕え、最後は出羽国横手に流れて佐竹義宣に仕えた。
川口氏 新田館 一門衆?仁井田の領主。川口安芸の名が伝わる。『秋田風土記』によると大永の頃に浅利信頼の六男が川口右京之助を称したという。
片山氏 中野城 浅利氏家臣。中野の領主。『浅利與市侍分限』に片山大膳、弥伝の名が見え、大膳は家老であったという。『聞老遺事』によれば1566年に浅利氏は秋田氏に従って南部領の鹿角へ攻め込み、この戦いで片山某が討死している。1580年には片山駿河が安東実季に内通し、浅利勝頼を長岡城にて暗殺するように手配したという。
佐藤氏 川口館 浅利氏家臣。川口の領主。『大館戊辰戦史』の中の佐藤源助氏の記録では佐藤忠信の三男の文行を祖先とし、信州の戸沢村に居たが応仁の頃に浅利氏に仕えたことになっている。『長崎氏旧記』によれば1550年に浅利則頼が亡くなった時に佐藤右門が秋田氏へ寝返っている。また、1580年に長岡城にて池内権助が浅利勝頼に切りかかった際に、刀番の佐藤大学が勝頼の刀に塩を塗りこんでいたため鞘から抜けず、勝頼は応戦できずに斬られたという。『浅利與市侍分限』に佐藤兵助、平治、与三郎の名が見え、佐藤氏は帰農して川口の城跡に八幡神社を勧請したという。
前田氏 前田館 浅利氏家臣。前田の領主。『浅利與市侍分限』に前田清左衛門の名が見え、清左衛門は御台所役だったという。
本宮氏 本宮館 浅利氏家臣。本宮の領主。『浅利與市侍分限』に本宮弥九郎の名が見え、弥九郎は大番頭だったという。他にも本宮弥與九郎、本宮弥蔵の名が確認できる。
真館氏 真館 浅利氏家臣。新館の領主。『浅利與市侍分限』に新館九蔵の名が見え、九蔵は御小姓だったという。
大子内氏 大子内館 浅利氏家臣。大子内の領主。『浅利與市侍分限』に大子内三十郎の名が見える。
小立塙氏 小館花館 浅利氏家臣。小館花の領主。『浅利與市侍分限』に小立塙兵部の名が見える。
池内氏 餌釣館 浅利氏家臣。市里の領主。『長崎氏旧記』によれば1580年に浅利勝頼を長岡城にて暗殺した実行犯が池内権助で、その後に勝頼の子の頼平と頼広に討ち取られたという。
杉沢氏 杉沢館 浅利氏家臣。杉沢の領主。『浅利與市侍分限』に杉沢喜助、数馬、善之進の名が見える。『聞老遺事』によれば1566年に浅利氏は秋田氏に従って南部領の鹿角へ攻め込み、この戦いで杉沢某が討死している。『浅利軍記』では1580年に浅利勝頼を長岡城にて殺害した家臣達の中に杉沢喜助の名が見える。
赤石氏 赤石古舘 浅利氏家臣。赤石の領主。『浅利與市侍分限』に赤石美作の名が確認できる。
岩脇氏 岩脇館 浅利氏家臣。岩脇の領主。岩脇小左衛門の名が確認できる。
小勝田氏 小ヶ田館 浅利氏家臣。館野の領主。小勝田伝兵衛の名が確認できる。
妹尾氏 妹尾館 浅利氏家臣。長根沢の領主。妹尾喜左衛門の名が確認できる。
太田氏 糠沢館 浅利氏家臣。糠沢の領主。『浅利與市侍分限』に太田四郎左衛門の名が確認できる。
長崎氏 坊沢館 浅利氏家臣。坊沢の領主。長崎忠光は土岐源氏の源頼忠の孫で、落人となった後に浅利則頼に仕えたという。忠光の子の忠吉も則頼に使えたが、1550年に則頼が亡くなると帰農した。忠吉の子の長崎兵庫助忠綱は浅利則祐、則治に仕えていたとされる。『長崎氏旧記』の古文書の原典は忠吉、忠綱の頃に記録されたと考えられている。
前山氏 前山館 浅利氏家臣。前山の領主。前山善助の名が確認できる。
野呂氏 摩当館 浅利氏家臣。栄の領主。『浅利與市侍分限』に野呂七蔵、六兵衛、八十郎、喜八、弥左衛門の名が確認できる。
横淵氏 横淵館 浅利氏家臣。横淵の領主。『浅利與市侍分限』に横淵甚兵衛の名が確認できる。
奈良氏 綴子館 浅利氏家臣。綴子の領主。奈良喜左衛門の名が確認できる。鹿角四天王奈良氏の一族で、戦乱により鹿角より追い落とされて比内へ赴き浅利氏の家臣となった。
花田氏
(大葛氏)
土井館 浅利氏家臣。沢尻の領主。甲斐武田氏縁の一族で、浅利則頼に従い比内に下向して沢尻を治めたという。