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十狐城 とっこじょう

別名
独鈷城
時代
戦国時代
分類
平山城
規模
面積:東西300m×南北450m、標高:110m、比高:約20m
現状
山林・畑
場所
秋田県大館市比内町独鈷字大日堂前
最終訪城日
2010年11月8日

築城時期は諸説あって定かではないが、戦国時代には浅利氏の居城となった平山城。現在は山林で本丸と二の丸が畑になっている。

城史

年代 出来事
1336年 曽我貞光が乱を起こした時の比内独鈷城(十狐城)の城主として浅利清連の名が見える。 『浅瀬石文書』
1518年3月 浅利範頼が津軽から比内へと移り住み、十狐城を築いて居城とした。 『長崎氏旧記』
1522年 南部氏が比内へと攻め込み、浅利氏と戦いとなった。この時、大日堂が南部氏によって破壊されたという。 『独鈷村旧記』
1523年春 浅利義遠の末裔が十狐城を築き、鹿角郡の松館より移り住んで居城とした。 『菅江真澄さくらがり』
1532~1554年 浅利則頼が赤利又から十狐へと移り住み、十狐城を築いて居城とした。 『独鈷村旧記』
1532~1554年 浅利則頼は津軽から比内仁井田村(比内城)へ移り住み、その後十狐へ移って十狐城を築いて居城とした。 『浅利軍記』
1532~1554年 浅利則頼は津軽から比内へ移り住んで十狐城を居城とした。 『浅利系図』
1550年 浅利則頼が十狐城にて亡くなり、長男の則祐がその跡を継いだ。
1562年8月18日 浅利則祐は秋田愛季と不和になって合戦となり、戦いに敗れて長岡城にて自害して果てたという。則祐の跡は秋田氏に味方した弟の勝頼が継ぎ、十狐城へと移ったという。 『長崎氏旧記』
1563~1570年 浅利勝頼は長岡城へと居城を移し、十狐城は支城扱いとなる。
1598年 浅利頼平が大阪で急死したことにより秋田氏と浅利氏の紛争の審議は打ち切りとなり、秋田実季によって浅利氏残党が掃討され、この時に十狐城は廃城になったという。 『大館旧記』

縄張り

城は犀川と炭谷川の合流地点の右岸の台地西端に築かれており、台地を空堀で分けた群郭式の縄張りとなっている。中心付近に本丸があり、西端に二の丸(米蔵跡)、北側に三の丸がある。さらに北に四の丸があったとされるがこれは土砂採取で消滅したという。現在は大部分が山林で、本丸の一部と二の丸は畑となっている。

【本丸】
城跡の中心部付近に本丸があり、内部は畑になっているが半分ほどが藪化しつつある。藪のせいで全体が確認できないが、特にこれといった遺構は見当たらなかった。

【米蔵跡(二の丸)】
城跡西端部に二の丸があり、大量の焼き米が発掘されたことから米蔵跡とされている。現在は全体が畑となっている。

【浮島の沼】
本丸より東側の沢の奥にある湧水の沼で、浮島神社が祀られている。かつては沼に浮島があり、島に向かって賽銭を投げる風習があった。この場所は十狐城の水の手であったとされている。

【大日神社(大日堂)】(大日如来像:市指定文化財)
十狐城と同じ台地東側の縄張りの外にある大日如来を祭った御堂で、725年に建立されたという。その後、戦乱など影響で3度再建されている。仏像は1本の桂から3体作られ、独鈷の他に小豆沢や長牛にも祭られている。

アクセス

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