HOME -> 城跡データ -> 秋田県の城跡一覧 -> 十狐城
築城時期は諸説あって定かではないが、戦国時代には浅利氏の居城となった平山城。現在は山林で本丸と二の丸が畑になっている。
年代 | 出来事 |
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1336年 | 曽我貞光が乱を起こした時の比内独鈷城(十狐城)の城主として浅利清連の名が見える。 『浅瀬石文書』 |
1518年3月 | 浅利範頼が津軽から比内へと移り住み、十狐城を築いて居城とした。 『長崎氏旧記』 |
1522年 | 南部氏が比内へと攻め込み、浅利氏と戦いとなった。この時、大日堂が南部氏によって破壊されたという。 『独鈷村旧記』 |
1523年春 | 浅利義遠の末裔が十狐城を築き、鹿角郡の松館より移り住んで居城とした。 『菅江真澄さくらがり』 |
1532~1554年 | 浅利則頼が赤利又から十狐へと移り住み、十狐城を築いて居城とした。 『独鈷村旧記』 |
1532~1554年 | 浅利則頼は津軽から比内仁井田村(比内城)へ移り住み、その後十狐へ移って十狐城を築いて居城とした。 『浅利軍記』 |
1532~1554年 | 浅利則頼は津軽から比内へ移り住んで十狐城を居城とした。 『浅利系図』 |
1550年 | 浅利則頼が十狐城にて亡くなり、長男の則祐がその跡を継いだ。 |
1562年8月18日 | 浅利則祐は秋田愛季と不和になって合戦となり、戦いに敗れて長岡城にて自害して果てたという。則祐の跡は秋田氏に味方した弟の勝頼が継ぎ、十狐城へと移ったという。 『長崎氏旧記』 |
1563~1570年 | 浅利勝頼は長岡城へと居城を移し、十狐城は支城扱いとなる。 |
1598年 | 浅利頼平が大阪で急死したことにより秋田氏と浅利氏の紛争の審議は打ち切りとなり、秋田実季によって浅利氏残党が掃討され、この時に十狐城は廃城になったという。 『大館旧記』 |
城は犀川と炭谷川の合流地点の右岸の台地西端に築かれており、台地を空堀で分けた群郭式の縄張りとなっている。中心付近に本丸があり、西端に二の丸(米蔵跡)、北側に三の丸がある。さらに北に四の丸があったとされるがこれは土砂採取で消滅したという。現在は大部分が山林で、本丸の一部と二の丸は畑となっている。