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大館城 おおだてじょう

別名
桂城
時代
戦国時代~江戸時代
分類
平山城(丘城)
規模
面積:東西600m×南北400m、標高:60m、比高:約10m
現状
桂城公園・大館市役所・秋田犬会館
場所
秋田県大館市字中城
最終訪城日
2010年11月8日

戦国時代に浅利勝頼によって築かれた丘城で、近世には佐竹氏一門の佐竹西家(小場氏)の居城となった。現在は本丸が桂城公園となっている。

城史

年代 出来事
880年 大楯の城主の公家が瞋関(碇ヶ関)で橘吉明を討ったという。 『大館旧記』
1550年 浅利則頼が亡くなった後、則頼の次男の勝頼によって大館城と扇田城が築かれ、勝頼は扇田城の方を居城としたという。 『独鈷村旧記』
1582年 浅利勝頼は秋田愛季によって謀殺され、比内は秋田氏によって制圧された。勝頼の子の頼平は津軽に逃れ、大館城には秋田氏家臣の五十目兵庫が置かれた。
1588年 五十目兵庫が南部氏に内通したことで比内は南部氏によって制圧され、大館城には南部氏家臣の北信愛が入った。
1590年 南部信直と九戸政実の不和により南部家中が2つに割れて機能不全を起こしていた隙を突き、秋田実季は比内へと攻め込んで大館城を奪還した。大館城には秋田実泰が入るが、まもなく津軽為信の斡旋によって浅利頼平が秋田氏の家臣となって比内へ戻ることになり、大館城へと入った。
1593年 秋田氏と浅利氏が軍役金の問題などで不和となり、翌年に秋田実季は金品押収のために比内へ攻め込み合戦となった。浅利氏が秋田氏から独立を画策していたことが原因とも言われる。
1598年 1594年から続く秋田氏と浅利氏の紛争は大阪にて審議が行われていたが、上洛中の浅利頼平が急死したことにより審議は打ち切りとなってしまった。結局、頼平には子も居なかったため比内は領主不在となり、以後は秋田氏の直轄地となった。
1602年 「関ヶ原の戦い」の後、秋田氏は常陸国へ転封されることになり、秋田へは変わって佐竹氏が転封されてきた。比内へは佐竹氏家臣の赤坂朝光が派遣されたが、浅利氏旧臣が蜂起したため朝光はこれを制圧できず、小場義成が増援として比内へと入った。比内全域を巻き込んだ一揆は浄応寺の僧の玄性の説得によって鎮静化し、この功によって玄性は大館城下に寺地を与えられたという。
1608年3月3日 小場義成が大館城の城代に任命され、檜山城より移されて比内5千石を納めた。この時、義成は羽生縫殿之丞を奉行に命じて大館城の改築を行わせたという。
1868年8月22日 「戊辰戦争」にて秋田藩は新政府軍へ付いたため、奥羽越列藩同盟軍の南部藩は比内へと攻め込んだ。秋田藩は応戦するが次第に劣勢となり、大館城代の佐竹義遵は城に火を放って撤退した。そして、灰燼と化した城は以後廃城となった。

縄張り

城は大館盆地の中央の米代川と長木川の間に広がる台地の端に築かれており、北側が急斜面となっている。浅利氏時代の縄張りは不明だが、佐竹氏時代の縄張りは北端に本丸があって、台地続きの南と東側に二の丸、同じく台地上の西側に三の丸が築かれていた。本丸の南側が大手でこの場所には馬出も築かれていた。現在は本丸以外は市街地と化し、堀と土塁の一部が残るのみとなっている。

【本丸内堀と土塁】
本丸の南西部には内堀と土塁が良く残っている。他の箇所の遺構はほとんど消滅しているため、この場所がこの城跡の唯一の見所とも言える。

【小中城門跡】
本丸南部には小中城門があったが現在は城門西側の石土居しか残されていない。一応、城門跡東側の木が生えている箇所にもわずかに土居の残骸とも思える箇所がある。

【本丸内堀跡と桂城橋】
本丸と三の丸の間の内堀だった場所には現在車道が通っている。かつて本丸と三の丸を結ぶ箇所には橋が架かっていたとされ、現在はその場所に桂城橋が架けられている。画面右側が本丸跡(桂城公園)で左側が三の丸跡。左奥に見える建物は「秋田犬会館」。

アクセス

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