奥羽古城散策
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安積伊東氏 (安積氏)

1189年の奥州合戦での戦功により工藤祐経は安積郡と田村郡の一部を賜り、後に祐経の次男の祐長が安積郡と田村郡の所領を受け継いで下向したのが始まりと伝わる。しかし、『伊東氏家譜』では安積郡は1213年の「泉親平の乱」での功により祐長が賜ったとも伝わり、『伊達世臣家譜』ではさらに後(1226年以降?)に将軍頼経より安積郡四十五邑を賜ったとしている。諸説あるものの、少なくとも1189~1244年の間に安積郡を賜って下向したのは確かなようである。安積伊東氏は惣領制のまま分領を繰り返したためか一族の結びつきが弱く、一族は周辺勢力の台頭と共にその傘下に降ってバラバラになっている。

歴代当主

【伊東祐長】 いとう すけなが
 安積伊東氏初代。工藤祐経の次男。通称は六郎、官名は薩摩守を称した。1190年に安積郡の所領に下向したとされているが、『吾妻鏡』の記録を見る限りでは1213年頃以降は鎌倉近辺で暮らしていたように見える。なお、祐長が安積郡の所領を有していたのは確かだが、下向はしていないとする説もある。
【伊東祐時】 いとう すけとき
 安積伊東氏9代目。伊東祐信の嫡男。通称は七郎、官名は下野守を称した。1404年の伊東氏中心の国人一揆の連判状に名前があり、祐時だけ地名ではなく官名を称しているため事実上の盟主だったと思われる。しかし、同時期に片平伊東氏等の有力一門が石川氏の国人一揆に加担しており、安積伊東氏が一枚岩ではないことが良く判る。1437年の「永享の乱」では鎌倉公方・足利持氏に味方するが、結局敗れて安積郡へと引き上げた。1439年には幕府側の伊達持宗が鎌倉公方側の安積伊東氏を攻撃し、祐時は敗れて伊達氏に臣従したという。
【伊東祐重】 いとう すけしげ
 安積伊東氏13代目。伊東祐里の嫡男。1542年に始まった「天文の乱」では伊達晴宗側に味方したため、伊達稙宗側の田村氏に安積郡を攻略され、祐重は伊達郡小手郷へと落ち延びたという。
【伊東重信】 いとう しげのぶ
 安積伊東氏14代目。伊東祐重の嫡男。この頃には完全に伊達氏家臣として働いており、1585年の「人取り橋の合戦」では伊達軍の最前線の高倉城を守った。1588年の「郡山合戦」にも伊達軍として参加したが、この戦いで討死した。
【伊東重義】 いとう しげよし
 安積伊東氏16代目。早川光義の次男で伊東重綱の婿養子となる。1663年5月より仙台藩の奉行職を務めた。
【伊東重門】 いとう しげかど
 安積伊東氏17代目。古内重広の四男で伊東重義の養子となる。伊東氏と血が繋がっていないことから家中に不満を持つものも多く、3名の家老が追放される事態となった。1668年の伊東重孝の伊達兵部暗殺未遂事件の連帯責任で禁固刑となり、翌年に病没してしまったため伊東氏は事実上断絶状態となった。
【伊東重定】 いとう しげさだ
 安積伊東氏18代目。伊達宗実の次男で断絶状態の伊東氏の名跡を継いだが、本人は伊東氏は罪人の一族であるとして嫌い、これが原因で1675年に亘理伊達家に送り戻される事態となった。
【伊東重良】 いとう しげよし
 安積伊東氏19代目。伊東重頼の長男で、伊東氏分家の当主となるはずだったが、1668年に叔父の重孝が起こした事件のせいで島流しとなった。1672年に許されて分家の当主に復帰するが、1675年に本家を継いでいた重定が実家に送り戻されたため、重良が本家を相続することになった。

居城

城名 概略
諏訪館 安積伊東氏の初期の居城で、永享の頃に稲荷館に移ったと伝わる。恐らく1429年の「永享の乱」の前後か又は1439年の伊達持宗との戦いの前後に居城を変えたと推察される。
古館 安積伊東氏の初期の居城と伝わる平城で、川に近い低地のため水害に悩まされ、後により内陸の稲荷館に居城を移したと伝わる。
稲荷館
(郡山城)
1429~1440年頃に伊東祐時によって築かれたと考えられている平城。 1543年に伊東祐重が伊達家を頼ってこの地を離れるまで居城となった。その後の1590年までは安積伊東一族の郡山氏が城主を務めている。
小野城 別名・梅ヶ森城。元々は長江氏の居城で、1603年に伊東重綱が拝領した。1668年の「寛文事件」で伊東重孝が起こした暗殺未遂事件に連座して伊東氏が没落するまでの居城となった。

一門衆・家臣団

居城 概略
片平氏
(片平伊東氏)
片平城 安積伊東氏一門ではなく別系統の伊東氏の惣領か?片平の領主で『寛永書上』では伊東祐長の嫡流とされているが、『相生集』によれば伊東祐長の兄の祐時の子孫とされ、代々大和守を名乗るのもそのためだという。1576年には伊東大和守祐明が城を田村氏と大内氏に居城を攻め落とされて会津へと落ち延びている。一説には大内親綱が片平晴親(伊東祐明)の婿養子となって片平氏を継いだとも伝わる。
中地氏 小倉城 一門衆。中地・福良の領主で、薩摩守を称していることから伊東祐長の子孫と思われるが詳細は不明。蘆名氏が仙道に進出すると蘆名氏に降ったが、後に伊達氏に臣従した。その後、伊東盛恒は1590年に名生城にて討死し、中地氏は断絶した。
横沢氏 横沢館 一門衆。横沢の領主。伊東祐長の孫の祐行が安積郡西部の36邑を賜り横沢へと移り住んだのが始まり。持行の代に蘆名氏の傘下に降っが、後に彦三郎の代に伊達氏に臣従し、1589年に仙台へと移り住んだ。
前田沢氏 前田沢館 一門衆。前田沢の領主。『伊東氏系図』によれば永禄の頃に伊東祐長の次男の祐光の子孫の祐基が前田沢へと移り住んだのが始まりと伝わる。『田村伊達略記』では前田沢祐昌は伊東祐能の子孫と伝わる。
名倉氏 名倉館 一門衆。名倉の領主。名倉五郎左衛門の名が伝わる。1404年の伊東氏の国人一揆連判状には名倉藤原祐清の名が確認できる。
窪田氏
(久保田氏)
(枡形氏)
山王館 一門衆。窪田の領主。久保田十郎(枡形十郎)の名が伝わる。1404年の伊東氏の国人一揆連判状には窪田修理亮祐守の名が確認できる。
伊豆島氏 伊豆島館 一門衆。伊豆島の領主。伊東弥平左衛門の名が伝わる。鹿島神社の鰐口には1530年の年号で伊豆島藤原親祐の名が刻まれている。
大槻氏
(大豆生氏)
大槻城 片平伊東氏一門。大豆生田の領主。平保盛の子孫の説があるが詳細不明。後に片平伊東氏より祐高が養子として迎えられて5代目を継いだという。1559年には伊東高行が蘆名氏に臣従するが子の行綱の代に誅殺された。
富田氏 富田館 片平伊東氏一門。富田の領主。1530年に片平伊東氏の伊東祐盛が富田村に移り住んだのが始まりとされるが、1404年の田村・石川氏中心の国人一揆の連判状に富田藤原祐昌の名が既にある。1581年には富田晴光が安積城にて討死している。
安子ヶ島氏
(阿子嶋氏)
安子ヶ島城 片平伊東氏一門。安子ヶ島(阿子嶋)の領主。伊東祐時の子孫が阿子嶋に移り住んだのが始まりと伝わる。後に二本松畠山氏に臣従し、1585年に二本松義継が栗之巣で伊達勢に討ち取られると、阿子嶋祐高は会津の蘆名氏に属し、後に居城にて伊達政宗を迎え撃った。
早水氏 早水館 安積氏家臣。早水の領主。旧姓は桜沢氏と伝えているが詳細不明。1404年の田村・石川氏中心の国人一揆の連判状に早水藤原祐藤の名が確認でき、この頃には既に安積氏とは別行動を取っていたことが判る。
只野氏
(多田野氏)
多田野館
本郷館
安積氏家臣。多田野の領主。鎌倉景政の子孫と伝わるが詳細は不明。1404年の伊東氏中心の国人一揆の連判状に多田野沙弥聖久の出家名が確認できる。多田野景連は伊達政宗との戦で討死し、多田野忠保は居城を攻め落とされて自刃した。