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安積伊東氏が築いた平城で、代々の居城となった場所。近世には代官所が置かれた。現在は郡山駅前南西部の市街地に埋もれている。
年代 | 出来事 |
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鎌倉時代頃 | 安積伊東氏が築き、諏訪館から移り住んで居城としたという。 |
1439年 | 「永享の乱」において伊東祐時は足利持氏の鎌倉公方側を支援していたため、幕府側の伊達持宗が安積郡へと攻め込み、これに敗れた伊東氏は伊達家に臣従したという。 |
1543年4月 | 「天文の乱」の影響により、伊達稙宗党の田村隆顕と伊達晴宗党の蘆名盛氏が安積郡で激突し、蘆名側が敗れたという。この戦いで、伊達晴宗党だった郡山城主の伊東祐重は伊達郡の小手郷へと逃れ、以後の郡山は田村領となった。 |
1551年7月 | 前年に田村氏の支配下にあった安積郡へ蘆名盛氏が侵攻してはじまった合戦が、畠山氏と白川氏の仲介で和睦となり、和睦の条件として郡山は蘆名氏の支配下となる。 |
1559年 | 田村隆顕と田村顕頼(月斎)が安積郡へと侵攻し、大槻城にて蘆名側の軍勢と合戦となった。この戦いで蘆名側は大槻攻略後に日和田まで撤退しており、この時点で郡山は既に田村氏の手に落ちていると見られる。 『塔寺八幡宮長帳』 |
1576年 | 蘆名側の軍勢が郡山を攻めたため、田村清顕と大内備前が蘆名側の片平城を攻め落とし、片平城主の伊東祐時は会津へと逃れた。 |
1583年 | 安積郡は田村氏と周辺諸氏との戦いの舞台となっていたが、伊達氏・相馬氏の仲介で和睦となり、結果として田村氏に田村郡内の所領は返還されたものの、それ以外の所領の多くは失うことになった。 |
1585年 | 「人取り橋の合戦」では佐竹・蘆名ほかの連合軍が安積郡を一度制圧するが、連合軍と伊達軍との合戦は痛み分けで連合軍が撤退しており、以後は安積郡の一部は伊達氏の支配下となった。 |
1588年 | 「郡山合戦」では佐竹・蘆名ほかの連合軍が伊東頼祐の守る郡山城へと攻め寄せ、これを救援する伊達軍との間で合戦となったが、この戦いは岩城氏の仲介で和睦となった。この和睦により、伊達氏は郡山、日和田などの安積郡北部を支配下に置くことになった。 |
1590年 | 「奥州仕置き」により伊達氏は安積郡を没収され、代わりに会津へと入った蒲生氏郷に与えられた。氏郷は安積郡では大槻城と安子ヶ島城のみに城代を置いており、郡山城はこの時に廃城となった。 |
1663年 | 城跡に陣屋が築かれて大槻町、片平町、郡山町の3組の代官所が置かれた。 |
1868年 | 「戊辰戦争」において郡山宿も戦場となり、会津藩兵の放火によって町と共に陣屋も全焼して廃城となった。 |
城は郡山の平地に築かれており、主に3つの郭から成り立っていた。各郭間の堀は埋められて車道となって跡を残しているが、現在は市街地化が激しく地上に遺構は見られない。