HOME -> 城跡データ -> 福島県の城跡一覧(仙道地方) -> 大槻城
平保盛の築城伝説があるが、保盛が京を離れてここまでやってきた記録は無い。恐らく安積伊東氏一門が築いた平城で、大槻伊東氏の代々の居城となった場所。現在は大槻小学校を中心に大部分が住宅地となる。本丸跡東の外側に槻元神社がある。
年代 | 出来事 |
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平安時代末期頃 | 平忠盛の孫の保盛が館を築いてこの地を治めたと伝わるが定かではない。 『大槻浮沈録』 |
鎌倉時代頃 | 大槻当高の養子として片平伊東氏から伊東祐高が迎えられ、5代目の大槻氏を継いだという。 『大槻浮沈録』 |
1404年 | 伊東一族が結んだ国人一揆の連判状に大豆生田(大槻)の領主として沙弥道経の出家名が見える。 『結城古文書(応永連署)』 |
1547年 | 「天文の乱」では大槻伊東氏は伊達晴宗党だったが、伊達稙宗党の田村隆顕、畠山義氏、石橋尚義の軍勢に攻められた。 |
1559年2月 | 蘆名盛興が安積郡へと侵攻し、大槻城を攻め落とした。この時、城主の伊東高行は蘆名氏に降ったとされている。 『塔寺八幡宮長帳』など |
1560年 | 蘆名盛興は伊東高行に安積郡3貫文の地を安堵しており、大槻伊東氏がこの時点で蘆名氏に臣従していることが判る。 『塔寺八幡宮長帳』など |
1562年 | 大槻城主の伊東高行は安積郡へと侵攻した田村顕頼と戦い討死した。 『積達風土明細録』 |
1574年 | 田村清顕が安積郡へと侵攻し、伊東行綱の守る大槻城と大槻の村落に放火をして引き上げた。 |
1575年9月 | 田村清顕が安積郡へと侵攻し、伊東行綱の守る大槻城を攻めたが、10月には蘆名勢が盛り返し、田村勢を久保田まで押し戻したという。 |
1576年 | 伊東行綱は田村氏に内通していたとされ、家臣がそれを蘆名氏に伝えたため蘆名盛隆によって誅殺されたという。 |
1590年 | 会津に蒲生氏郷が移封され、安積郡は会津藩領となり大槻城に城代の蒲生忠右衛門が置かれた。 |
1598年 | 会津には転封された蒲生氏に替わって上杉氏が新たに入るが、安積郡は浅香城(安子ヶ島城)のみに城代が置かれているため、この時大槻城は廃城となったとされる。 |
1601年頃 | 大槻城跡には御殿が置かれ、藩主や重臣の移動時等の宿泊地となった。 |
城は葉山の東の平野部に築かれており、方形の本丸を中心にして東側へ梯郭式に展開している。だが、今では本丸跡は埋め立てられて大槻小学校となり、縄張りの大部分も住宅地となって堀もほとんど埋め立てられてしまっているため、遺構はあまり見られない。城址碑は小学校内にあるため要注意。