僕の読書そして1冊の紹介
小野田 学僕は点字本の多読・乱読癖には自分ながらあきれるほど。ずいぶん齢を重ねてきた今も点字読みの速度は早いほうだと自賛している。
僕の周囲で大いにもてはやされるように成って来た「本を耳で読む」などというのは僕には大の苦手。
40年くらいも昔、会議のため上京した節、当時の点毎記者の案内で日本点字図書館を訪ねたことがあり、そこの館長との久しぶりの談笑で「耳で本を読むのが苦手」ともらしたら、「珍しい人がやってきた」とわざわざ点字製作担当者を呼び寄せて談笑に加わって頂いたほど。
当時、点字本と言えばぼらんティあが手書きで1点1点点訳の労を重ねたもので、したがって複製ができなかったもの。録音図書ならば簡単に複製がいくらでも叶う時代に「本とは須らくこの指で読むものなり」などと言うのはとんでもない贅沢であり、点訳奉仕者の前にずいぶん肩身の狭い思いを密かに味わされ続けていたものだった。
其れが、今はボランティアの点訳のほとんどがパソコンでなされ、いとも簡単に複製が叶う時代になってきた。
僕のいわゆる「肩身の狭さ」が払われ、「点字本は指で読むものなり」と誰憚ることもなく、広言できる時代がやってきた。誠に有りがたい時代になったものだ。
更には、全国の点字図書館関係者のおかげで、点訳本の資料がデータベースとして蓄積され、「サピエ図書館」のネットワークから好きな時に好きなだけダウンロードできる世の中となって僕の乱読癖は益々重症化してしまった。
5,60年も昔、口を開けば「点字本がなさすぎる」「読みたい本がなさすぎる」と言うのが盲学校の実情であり、学生の合言葉のように流布されていたのだった。
教室での教科のいくつかは教科書さえなく、丹念にノートを取るより他なかった時代であった。
昭和30年の秋にはそんな現状にたまりかねた得に東京教育大付属盲の生徒会が中心に全国盲学校の自治会の声を結集して「全国盲学校点字教科書対策連絡協議会」を組織。
街頭活動や当時の文部相などへの往く度かの陳情活動などに狂奔していた生徒たちの気迫と熱気と日ごろの不満の程が今は懐かしく想起される。
読みたい本どころか教科書さえ未整備で点字本に餓えていた当時の不満を取り返すかのように多読を愛する僕。
もっと格調の高い何冊かを座右に求めていたなら、僕の人生はいま少しましなものであったかもしれないなどと言うのは身の程知らず野見果てぬ夢。サスペンスものに明け暮れて「ああおもしろかった!」と言うのが正直な近況である。
そんな近況の中でごく最近読み終えた吉村 昭の「高熱隧道」の簡単な紹介を僕なりにここに記してみたい。
それは黒部川中流域の険阻な黒部渓谷に建設された黒部第 3発電所の工事着工から完成までの厳しくも苦闘に満ちた経過の解説であり、ドキュメンタリータッチの小説である。
吉村氏の緻密で入念な取材によって漸く編まれた迫真の記録である。
時は昭和の初年頃。関西電力などが中心となって富山県北東部を貫流する黒部川の中流渓谷に第3水力発電所の基本設計、工事設計、現地の緻密な地質調査など10年近くも要して漸く昭和11年(1936年)夏、建設工事の起工式を迎えた。
何万年、否何10年万年間を要しての立山などの日本アルプスの造山運動、そして、予想を絶する降雨・降雪などによる地形の侵食。
V字形の谷は益々深く100メートル余りにもいたる深い落ち込み。
その谷を形作る絶壁の厳しさ。
上流への人の通行を阻止するかのようにそそり立つ絶壁。
まずは、そこに人夫などの通行を可能にし、人の背による資材などの運び上げを可能にするような崖道の開作工事も思うに任せぬほど。
下流の宇奈月方面からの人の背による資材の運び上げにも幾人かの転落事故が避けられなかったほど。
ある程度の資材の搬入が進み、漸く資材運搬用の隧道工事が開始されたものの、11月にはすでに積雪のために人夫の通行や資材の運搬は困難を極めることとなる。
隧道工事と平行しての人夫宿舎の建設も始まる。それも、10メートル余りの降雪を思えばなるべく隧道内に建設するのが望ましい。
しかし、大量の人夫や資材のためには隧道内宿舎や資材倉庫だけでは間に合わず、工事現場近くに雪崩に十分耐えられるだけの鉄筋コンクリート作りの宿舎・倉庫の建設も同時に進められる。
そして、4階までは鉄筋コンクリート作り。そして、5階6階は堅牢な木造での建設とする。
宿舎建設と平行しての人夫の大量呼び上げと資材運搬用のための隧道掘削工事の進捗。
工事に着手して1年余り。その冬の降雪量は10メートル以上にも及び、聞きしに優る厳しさ。
そして、ついに恐るべき雪崩の襲来。一瞬の間に5回・6回の木造部分が就眠中の多数の人夫と共に消えうせると言うおよそ誰も予想し得なかったような大災害。警察や消防団員の必死の探索も2ヶ月ぐらいを経て漸く消えうせた宿舎が谷を隔てた向かい側の山上にまで運ばれていたことが知れる。我が国では其れまでに知られていなかった泡雪崩(ほうなだれ)であったことが漸く一部の雪崩専門学者の指摘により明らかになる。泡雪崩。
スイス山岳などで時々発生する、一瞬の間の大破壊力の雪害であり、深夜の雪崩に付随して発生するものであると言われる惨事であった。其の大惨事が2年後くらいに再度宿舎を襲ったのである。
他方、隧道(ずいどう)掘削工事では最初は予定通り進んでいたものの、やがて切り端(きりは 掘削最先端部)での岩盤温℃が次第に上昇。温泉岩盤に行き当たったようだ。
50℃…、70℃…。日ごとに掘削最先端部の岩盤温度の上昇。ついに100℃を超える。
掘り進んだ隧道(ずいどう)内の気温は簡単な送風機などではいかんともしがたく、やむなく深い谷川から雪解けみずを大量に汲み上げて其れを切り端に大量に注ぎながらの掘削。
しかし、想定どおりに岩盤温度は下がらず、それどころか大量の水が熱せられてほぼ100パーセントの湿度の高まり。其の隧道外へ流れ出るゆ温が50℃・60℃と言う熱湯。人夫の火傷作業効率の目立った低下はどうにも避けられないような厳しさとなる。
やがて、岩盤温度は120℃くらいに達する。ある日の作業中、岩盤に穿った多数の穴に発破(爆薬)ヲつめ、道火への着火と同時に人夫たちの急速退避を何時もどおり行う準備中、突然仕掛けられた発破が暴発。大勢の人夫の退避前のできごとであったため、人夫の大量爆死事故の発生。
さすがに、消防や警察の検視の結果、隧道工事の停止命令が県警本部から発せられてしまった。
隧道工事の差し止め…。其れは黒部第3発電所建設工事の中止に他ならなかった。
其の中止命令もやがて3ヶ月ぐらいを経て解除される。この発電所工事の差し止めで関西方面への大量送電が行われなければ関西有数の軍事工業地帯への電力不足を意味し、漸く戦線の拡大が顕著と成った日中戦争推敲に大打撃が想定されるのを恐れた軍当局の強引な工事再開運動が警察や労働安全を担当する県当局の意向を抑えて強引に進められた「作業再開」命令であった。
戦後の今日ではとうてい想定されないような労働安全を完全に無視した軍事当局の強引な処置であったことは言うまでもない。
そして、再開された隧道掘削工事現場では、ついに岩盤温度160℃にまで。途中、熱湯湧出による大量の人夫の大火傷や死者の発生。
このように、相次ぐ悲惨事による死傷者を出しながらも、漸く昭和15年末ごろまでに黒部第3発電所の工事は完成するのである。
この間のさまざまな悲惨事。労働安全対策をなおざりにしたための犠牲者の大量発生。
そうしたさまざまな難問を抱えながらもともかく完成に漕ぎつきえた発電所工事であった。
なお、終戦後昭和31年ごろから其れより更に上流部で黒部第4水力発電所工事が計画・実施されたのである。
富山県の宇奈月方面から立山のトンネルを経トロッコ列車とロープウェイを乗り継いで長野県の大町に達するいわゆる立て山あるぺんるうとは夏の観光名所となっている。
この途中の何箇所かのトンネルは両発電所建設工事のために材料や人夫の運搬用に掘削された隧道が利用されていると聞く。そして、今も相当な高熱地帯を通過するとも聞く。
この、「高熱隧道」の1冊は著者吉村 昭氏の事前の入念な取材と現地調査の結果編まれたドキュメンタリータッチの作品である。
其の文体の持つリズム感・坦々とした、感情移入をほとんど伴わず、経過を追う著者の簡潔な創作態度に魅せられながら、再読した1冊であった。
労働者の夥しい犠牲によって行われた我が国の発展の1面がよく伝えられた1冊である。
皆さんのご一読を期待したい。