音楽は心の花園
永田敏男私は、音楽と名がつけば、どんな音楽も矯味を持ちます。
私が現在に至るまでの道筋を考えますと、多くの厳しいハードルを越えてきましたが、唯一私の味方は音楽といっても過言ではないのです。
若い頃は、演歌が大好きで良くカラオケ喫茶にもでかけ歌ったものです。聞いてくれた人たちが、「うまいね!声も良いね。」などとお世辞を言われると、得意になってその気になり「本当にうまいかも…」と密かに自己満足をするのです。
それもむなしさを覚え卒業です。
歌謡曲があいてくると、今度は、民謡です。
山で作業しながら歌う「山うた」、それは木霊を呼びながら、ろうろうと響く美しい歌です。貧しさと労働の厳しさから生まれる歌は、一つのドラマとなって歌われてきました。
他にも、田植え歌・石きり歌・こびきうたと、作業をしながら歌い継がれた優れた歌が多くあります。
尺八の音が、まさにこれらの歌を支え・調和して美しい響きを作ります。
最近、私は、縁あっていろいろなジャンルの音楽を聴くチャンスに恵まれています。
ロシア民謡、イタリア歌曲、ギター演奏、クラシックと、幅広く聞くことができます。
ロシア民謡の響きは、暗い感じはありますが、メロディーの豊かさ・美しさは格別です。力強さもあり、強国ロシアの雰囲気を髣髴とさせます。
逆にイタリア民謡は、太陽の輝く大空に向かって、明るく輝かしく響く感じがします。
管弦楽の構成は、あたかも花園のように感じます。バイオリンの心を洗うような響き、管楽器の体を覆い、励ましてくれるような響き、中でも、トランペットは、明るい日の光のように響き、フルートは、まさに小鳥のさえずりにも似ています。
書けば限りなく書きたい思いがしますが、このごろになって、益々音楽の価値・美しさ・励ましを感じるようになりました。こんなに音楽に感動したこともありません。
我々視覚障害者にとって、音楽こそ生きがいではないかと思います。
花園でいろいろな花が咲き乱れ、それぞれの個性を生かして香りを放ち、色を添え、それぞれの花が調和してあたかも歌い交わすように一つのシンフォニーを作っているのではないかと思います。
どの楽器が、どの花に相当するかは、人それぞれの好みと感じ方があろうと思いますが、音楽と花園は、どこか似通った感覚を受けるのは私だけでしょうか?
殺伐として・信じられないような事件が起きるとき、当事者の中には、音楽の響きがないのではないかと思われます。
もっともっと情緒を養い、歌の詩野心に触れ、心の傷を覆い包んでくれるような音楽に触れたら、相手の気持ちを思い、人を押しのけたり、踏みにじったりすることのない、困った人に手を貸すような優しい人間が作られるのではないかと考えます。
かくいう私が、それでは優しいかといえば、それもまた否定する他はありません。
しかし、着実に音楽が人を変え、より人間らしく育てて行く事は確かだと信じたいのです。
この文章を書きながら、バックに流れるクラシックが、なんという曲なのか、誰の指揮なのか、私には分かりません。
ただ、その曲が、周りにちりばめる美しい宝石は、見ることのない私には、本物の宝石より価値を持っていると信じます。