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征韓論政変_西郷は朝鮮との修好を求めた? (2/2)

2024/10/17

3.西郷の動機

(1) 毛利氏の主張註3-1

西郷は士族の特権を解消する秩禄処分や徴兵制などに積極的であり、通説が主張するように士族の不満を放散するために征韓を必要とした、という説には史料的根拠が乏しい、と主張する一方で、西郷が平和使節として名乗りを上げた動機については何も述べていません。

(2) 家近氏の主張註3-2

西郷隆盛に詳しい家近良樹氏は、西郷隆盛が使節を志望した背景や本人の心境について様々なことを述べていますが、それを私なりに以下6点に要約してみました。

①7月21日に清国から帰国した副島種臣外務卿の報告が影響した可能性がある。副島は、清国から「台湾の先住民の地は清国の政が及ばない“化外”の地であること、属国朝鮮の“和戦権利”には係らない」などの回答を引き出している※1が、この副島の報告が西郷を刺激したことは7月29日の板垣書翰(文書①_前ページ参照)に副島の名前が登場していることからも明らかである。

※1 この清国の回答は正式なものではなく、かつ実際の話より成果が誇張されている可能性もある。

②西郷は7月21日に弟の従道に宛てた書簡などで、台湾に鹿児島の士族たちを派遣することに前向きな姿勢を見せていたことが明確になっている。なお、士族の不満解消が動機であることは、8月17日に西郷から板垣に宛てた書簡(文書②_前ページ参照)にも記載されている。

③西郷は文明開化を軽佻浮薄な風潮として嫌っており、武士の内面を律していた剛直な精神が失われていくことに強い苛立ちと不安を覚えていた。

④西郷はロシアに強い警戒感を持っており、ロシアと国境を接する朝鮮との関係に注意を払っていた。

⑤島津久光からひどく責められたことを気にしており、死に場所を求めていた、という見方に大隈重信も同意している。

⑥西郷は島津斉彬の死後、死に時や死ぬ場所、それも戦死することを常に探っているような側面があり、その延長線上で朝鮮で死のうと思い至ったとしても不思議ではない。

4.大久保の行動

(1) 毛利氏の主張

毛利氏は論拠を明記せずに、次のように述べています。

{ 大久保利通は政変直前まで西郷を使節として朝鮮に派遣することに必ずしも反対でなかったと推測できる。にもかかわらず大久保が西郷使節延期論の主役を演じたのは、主として三条実美や岩倉具視の懇請に余儀なくされたからであろう。…}(毛利「明治6年政変」,P219)

(2) 大久保の方針註4-1

岩倉使節団は9月13日に帰国した直後、国政整備とともに国内産業を育成し「民力」を漸進的に養成して経済発展を目指すという方針を掲げており、岩倉、木戸、大久保、伊藤博文などはみなこれに合意していました。こうした民力増強を図るためには当然、投資が必要であり、多額の経済負担を強いられる戦争はできるだけ避けるというのが彼らの基本方針でした。

もし、毛利氏が主張するように西郷が平和を目指した使節だとしたら、岩倉や大久保に西郷派遣を反対する理由はなく、むしろ積極的に支援するはずです。しかし、彼らは西郷が行けば戦争になる可能性が高い、と信じたから派遣に反対したのです。つまり、岩倉や大久保が西郷派遣に反対したことは、西郷派遣が平和目的ではない、と彼らが見ていた証左と考えるのが妥当です。

(3) 毛利説と事実関係

上記の大久保の方針とその行動の関係を毛利説に基づいて理解しようとすると、いくつかの不整合が生じてきます。

「遺書」はなぜ書いた?

大久保は参議就任の依頼を固辞していましたが、10月上旬、就任する意思を固め、息子たちに遺書めいた書簡を送っています。その背景として、通説では大久保が西郷支持派の士族たちから襲撃される可能性を指摘していますが、毛利氏は島津久光からの刺客を推定しています註4-2。しかし、毛利説によれば西郷派遣に強い反対意思を持っていない大久保が、自身の命をかけてまで参議になることを承諾するのはいかにも不自然です。

大久保の強硬な反対意見註4-3

10月14日に開催された閣議では西郷の怒りを鎮めるために、派遣するか、しないかではなく、派遣することを前提に即派遣するか、延期するかが、論点となりました。西郷はあくまでも即派遣にこだわり紛糾します。翌15日、西郷欠席のまま閣議は再開しますが、大久保以外は即派遣論に変り、最終的に三条太政大臣の判断で即派遣することに決定しました。

15日の会議で大久保は「財政赤字の中で戦争となれば国家財政は危殆に瀕する」など強烈な反対意見を述べています。三条が最終的に判断せざるを得なくなったのも、大久保1人が強硬に反対したためです。毛利説によれば、大久保が反対したのは「三条実美や岩倉具視の懇請に余儀なくされた」(上記(1)参照) ためなのですが、とてもそんな受動的な態度で反対したようには見えません。

「一の秘策」註4-4

こうして西郷の即派遣が閣議で決定したのですが、天皇へ上奏する権限のある三条太政大臣が18日朝、倒れて錯乱状態に陥ってしまいます。そこで、大久保は閣議の結論をひっくり返すべく「一の秘策」と呼ばれる策を実行します。現在の通説では、明治天皇にあらかじめ即派遣反対論を吹き込んでおいた上で、閣議結果を上奏する、というもので、天皇は閣議決定に反して派遣延期を支持することになります。

これに対して毛利氏は、大久保が仕組んだ秘策は、天皇を動かして岩倉を太政大臣代理に任命することであり、その目的は閣議決定を覆して、江藤新平や板垣退助など反大久保派を政府から駆逐するためであろう、と推測しています。

まず、一の秘策の内容についてですが、岩倉を太政大臣代理にするのは、天皇を動かさなくても太政官職制を適用するだけで可能であり、それが「秘策」になることはありえません。また、反大久保派の追放が目的、というのは、結果として西郷、板垣、江藤、後藤、副島が参議を辞任しており、大久保の心の中にそれを望む気持ちがなかったとは言い切れませんが、少なくとも彼らの排除を最優先の目的として「一の秘策」を実行した、ということはないだろうと思います。それは、大久保が西郷の派遣により、朝鮮との戦争にとどまらず、ロシアやイギリスの干渉を招く可能性などを指摘するとともに、次のように国家的危機を非常に心配していたからです。

{ 今、国家の安危を顧みず、人民の利害を考慮せず、好んで事変を起こしてあえて進退取捨の機を顧慮しないのは実に了解不能であり、故にこのような戦役を起こすの議は肯んじることはできない。}(瀧井「大久保利通」,P270)

5.長州派の意図

(1) 毛利氏の主張

毛利氏は次のように述べています。

{ 長州汚職派は結果的に政変から大きな利益を引き出した。 … 木戸や伊藤博文らは西郷の使節派遣自体には反対ではなかった。この頃、長州藩出身の井上馨や山県有朋などが絡む不祥事が多発しており、それを摘発・追求した司法省の江藤新平打倒を切実な課題としていた。江藤の法治主義ならびに人権確立への熱意と努力、およびそれへの反作用が政変を醸成する重大な要素だったことを見落とせないであろう。}(毛利「同上」、P208・P219-P220)

(2) 筆者の感想

確かにこの頃、長州藩出身者が関係する汚職事件が多発しており、木戸らがその始末に追われたことは事実である。しかし、それが征韓論政変にどのように影響したかを示す史料を毛利氏は提示しておらず、種々の状況証拠から「憶測」しているにすぎない。一方、それら不祥事が政変に影響を及ぼしていない、という史料も私の知る限りない。

そのような中、毛利氏はこの本で江藤新平を褒めちぎっており、この本は江藤を讃えるために書いたのではないか、と錯覚させることさえある。毛利氏は史料あっての歴史学であり、「史料自身をして語らしめる方法をとった」(毛利「同上」、P217) と言うが、残念ながらその言葉がむなしく響いてしまうのである。

以上


註釈

註3-1 西郷の動機_毛利氏の主張

毛利「明治六年政変」、P60,P66,P218,P221

註3-2 西郷の動機_家近氏の主張

家近「西郷隆盛」、P417-P421

{ 西郷の一連の言葉を貫いていたのは、「太平に馴れる」ことを拒否する精神であり、国としてのあるべき姿を国政担当者としてひたすら追い求め、国家の体面を損なわないためには場合によっては、国家の滅亡と自身の死も辞さないとする「戦いの精神」であった。… 西郷には国のあるべき在り方を自らが率先して周りに示そうとする気持ちが強かった。…
西郷はこうした純な精神の下に生きた。… この精神は西郷でしかもちえなかった大局観であったといえる。いずれにせよ、こうした精神の持ち主であった西郷が、久光との関係などで苦慮するあまり、朝鮮に渡り、正義正論に基づく交渉を重ね、その末に暴殺という名の戦死を遂げようと望んだとしても、いっこうに不思議ではなかった。}(家近「同上」,P421)

註4-1 大久保の方針

瀧井「大久保利通」、P252-P253 勝田「征韓論政変と大久保政権」(講座「明治維新#4」、P73)

註4-2 遺書を書いた理由

毛利「同上」、P170

註4-3 大久保の強硬な反対意見

毛利「同上」、P190-P191 瀧井「同上」,P268-P271

{ 閣議のあいだ、大久保は「ただ命にただ従」って心にもない発言をしてしまったことに、たまらない自己嫌悪を覚えたのではないだろうか。… 大久保は、自分が演じさせられた滑稽な役回りを思い知らされたにちがいない。かれは怒り心頭に発し、西郷派遣が「治定」されるや、… 即刻辞職を決意したのである。}(毛利「同上」,P190-P191)

{ 征韓反対の趣意を論述した彼の書が残されている。劈頭大久保は、自らの立場を次のように約言している。… 恥や義でなく、国益の全体を勘案して国家の進むべき道は決せられなければならないとの言明である。…}(瀧井「同上」、P269)

註4-4 一之秘策

毛利「同上」、P195-P207 瀧井「同上」,P268-P278 勝田「征韓論政変と大久保政権」(同上、P74-P75)  中川壽之「征韓論政変と岩倉具視」(明治維新史学会編「明治国家形成期の政と官」、P173-)


参考文献