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征韓論政変_西郷は朝鮮との修好を求めた?

2024/10/17

西郷隆盛像

征韓論政変とは…

1873(明治6)年5月、釜山の大日本公館から朝鮮政府が日本を侮辱するような文書を掲出した、という報告が届き、征韓論政変は始った。
板垣退助は軍の即時派遣を主張したが、西郷隆盛は使節として名乗りをあげ、自分が朝鮮に行けば暴殺されるはずで、そうなれば出兵の大義名分ができる、とした。西郷は武力行使に士族を使うことにより、蓄積していた士族たちの不満を解消しようとしたと考えられている。
板垣退助など留守政府の参議たちは西郷の派遣に賛成したが、同年9月に岩倉使節団から帰国した岩倉具視や大久保利通らは、戦争は避けるべきだ、として反対し、翌10月、天皇の権力を使って西郷の派遣を阻止(延期)した。その結果、西郷をはじめ留守政府の参議たちの多くは辞職し、大久保を中心とする新たな政府が発足することになった。

以上が征韓論政変についての通説の概要ですが、歴史学者の毛利敏彦氏は、西郷の目的は平和的交渉によって朝鮮との修好を実現することであり、上記の通説は間違っている、と主張しました。このレポートでは、毛利氏の主張とそれに対する反論、ならびに筆者の意見をまとめています。


1.論点

毛利氏は、著書である「明治6年政変」(中公新書、1979年12月20日刊)において、様々な視点から持論を主張していますが、ここではご本人の要約も参考にして、次の4点註1-1について、毛利氏の主張と他の論者の反論、ならびに私自身の評価を述べます。

(1) 西郷の目的;

西郷は交渉によって平和的に修好を実現しようとした。(毛利説)
西郷は武力行使の大義名分を作り、最終的には朝鮮に武力行使しようとした。(通説)

(2) 西郷の動機;

西郷を士族利害の代弁者と見なす根拠は薄弱。(毛利説)
西郷は士族の不満に理解を示しており、自身の死に時も狙っていた。(通説)

(3) 大久保の行動;

大久保が使節派遣の延期を画策したのは、三条・岩倉の懇請によるものである。(毛利説)
大久保は多大な財政負担が必要な戦争より、産業育成など民政改革の優先度が高いと判断した。(通説)

(4) 長州派の意図;

当時、長州藩を中心に汚職事件が多発しており、木戸や伊藤博文などは、その事件を摘発した司法省の江藤新平を打倒するためにこの事件を利用した。(毛利説)
毛利氏の憶測に過ぎない。(筆者)

2.西郷の目的

(1) 毛利氏の主張_板垣抱き込み策註2-1

岩倉使節団の帰国前、8月17日に行われた閣議において、西郷を使節として派遣することが内定しました。閣議に先立ち、西郷は参議たちの支持を得るために、征韓推進の代表である板垣退助に自分を支持してくれるよう依頼の手紙(下記の文書①)を送り、閣議前日の16日には三条太政大臣を訪問して、三条の同意も得たことを板垣に報告(文書②)しています。

文書① 7月29日付 西郷→板垣宛書簡(現代語訳)  原文はこちら

… 兵隊を先に派遣することは如何かと思う。… これでは初めの趣旨と違い、戦いを醸成することになってしまいます。… 先に使節を派遣するべきで、そうすれば先方は必ず暴挙に及ぶはずなので、討伐の名分が立ちます。… 何卒、私を御遣わしください。 副島君のような立派な使節はできないけれど、死ぬ覚悟はできています。…

(毛利「明治6年政変」,P112 より核心部分のみを筆者が作文)

文書② 7月29日付 西郷→板垣宛書簡(現代語訳)  原文はこちら

… 使節を差し向ければ、先方は使節を暴殺することは間違いありません。そうなれば、人々は敵を討つことに同意するでしょう。そして「内乱を冀(こいねが)う心を外に移すことができます …

(講座 明治維新#4,P72-P73より核心部分のみを筆者が作文)

「内乱を冀(こいねが)う心を外に移す…」とは、武士の不満を外に向けて発散させる、ということを意味します。西郷はここでも使節派遣→暴殺→武力行使というシナリオを想定し、その目的として武士の不満解消を図ろうとしたことを吐露しているのです。

毛利氏はこれら書簡には首をかしげつつ、ここに書かれたことは西郷の本意ではなく、板垣を説得するためのものだった、と述べています。

{ 西郷は、派兵して「兵端を開く」ことに反対しながら、同時に使節暴殺による開戦の企図について語っている。戦争を回避せよと言いつつ、開戦の布石について、言及しているのは矛盾している。その矛盾を取り繕うかのように使節派遣による開戦の名義づくりという理屈を持ち出すわけだが、如何にも唐突で不自然である。… これは即開戦を主張する板垣に対して、結果的に使節が暴殺されて板垣の望み通り戦争になるはずだから、自分の使節派遣に賛成し協力して欲しい、ということだと考えられる。つまり、暴殺云々は西郷の真意ではなく、強硬論者板垣説得のためのテクニックであった。}(毛利「同上」P117-P120<要約>)

(2) 毛利氏の主張_西郷の本意は平和交渉註2-2

毛利氏の主張の核心は、1873(明治6)年10月15日に西郷の派遣が決定した後、西郷がこれまでの経緯をまとめて太政大臣三条実美に提出した「始末書」にあります。

文書③10月15日付け「始末書」(西郷→三条宛書簡)(現代語訳)  原文はこちら

朝鮮御交際の儀
明治新政府発足以来、朝鮮には数回の使節を派遣して、交渉を重ねたが先方の無礼もあり合意に至らなかった。最近は商取引もできなくなり、倭館(日本人駐在施設)の居心地も悪くなっている。
当初の閣議の原案では、居留民保護のために朝鮮に一大隊を急派せよとのことであったが、派兵は良くない。なぜなら、その結果、戦闘になったら「最初の御趣意」に反するからである。派兵の前に使節を差し立てるべきである。もし、朝鮮側が戦を構えて拒絶したとしても、限界まで交渉を尽くさなければ禍根を残すことになる。ましてや使節に対して暴挙をはかるのでは?との懸念をもって、あらかじめ「非常の備え」をして使節を派遣するのでは礼を失する。そうではなく、交誼を厚くしたいという趣意を貫徹したい。そこまで努力をした上で、なお暴挙に至るのであれば、先方の罪を天下に訴えて「其の罪を問う」(開戦する)べきである。それをせずに、先方の非を責めても、双方ともに納得できないだろうから曲直を明らかにすることが肝要だと確信して使節を志願したところ、内定をいただいた。 以上

(毛利「明治6年政変」,P185-P186を参考に筆者が作文)

毛利氏は、{ この「始末書」に見る限り、西郷の意図は明白である。かれは、みずから全権の委任をうけて朝鮮現地に乗り込み、誠意を尽くして交渉にあたって、明治初年以来の国家的懸案を一気に解決したいと念願し、またその成功に密かな自信を抱いていたといえよう。この始末書は私心や非公式な覚書ではなく、太政大臣に宛てた公的意思表明であり、その史料的価値は高い。}(毛利「同上」,P186) と自説の正しさを強調しています。
しかし、この文書の最後の方に「暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、其の罪を問うべき訳に御座候」と記されているように、西郷は暴挙があれば開戦する、と宣言しているのです。

(3) 反論

下記のような指摘を踏まえれば、これら史料に対する毛利氏の評価は妥当性を欠いている、としか言いようがありません。

板垣抱き込み説註2-3

西郷隆盛に詳しい家近良樹氏は次のように述べています。
毛利氏は、西郷の真意は朝鮮と平和的な話し合いを行うことにあったが、板垣を味方につけるため、使節暴殺論を持ち出したのであって、こうした開戦論は板垣への書簡にのみ見られる。… 興味深い説(憶測)だが、この説に対しては反論も可能である。
まず、板垣以外にも鳥尾小弥太など、当時の西郷から征韓論的発言を直接聞いた人物が存在することである。また、西郷が朝鮮使節に関して発言した閣議に列席した関係者の多く(三条太政大臣がその代表的存在)は、西郷が征韓論を主張したと受け取っている。すなわち、西郷の征韓論的な発言は板垣のみに向かって示されたわけではなかった。明治6年7月下旬以降の西郷が征韓論的な発言を少なくとも何人かの関係者に対して発したことは、史実であったと受け止めねばなるまい。

始末書の信頼度註2-4

毛利氏は、この「始末書」をもとに、西郷はあくまでも平和的手段による交渉を決意していた、この文書は太政大臣にあてた公的な意思表明であり、板垣に宛てた私信などより史料的価値は高い、と主張します。

一方、高橋秀直氏は、この「始末書」を次のように要約しています。{ その趣旨は、朝鮮への即時出兵はなすべきではなく、代りに西郷が非武装で渡韓し平和的に国交樹立を試みる、それでも朝鮮側が応じない場合は「其罪可問」、即ち開戦、というもの }(高橋秀直「征韓論政変と朝鮮政策」、P75) 上記の下線部分は、原文の「其のうえ暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、其の罪を問うべき訳に御座候」という部分に相当します。これでは板垣宛書簡の趣旨と同じです。

また、公式な意思表明なので史料的価値が高い、というのは場合によっては正しいかもしれませんが、そうでない場合もあります。例えば、公式文書はタテマエとしての信頼性は高いけれど、ホンネが出にくいのは今も昔も変わりないでしょう。ただ、西郷の場合、彼の実直な性格からすれば、公私にかかわらず、一定の信頼度があるのではないか、と私は思います。10月15日の始末書でも、暴挙があれば…「其罪可問」、即ち開戦、と高橋氏が要約するように西郷はさらっとホンネを語っています。


註釈

註1-1 テーマ(論点)の選定

{ 明治六年政変とは何であったのか、本書の記述をまとめれば、以下のようになろう。
第一に、西郷隆盛は … 最悪の事態に使節暴殺→開戦の可能性を覚悟したにせよ、あくまで交渉による朝鮮国との修好を求めた… また西郷を士族利害の代弁者とみなし、…征韓を必要とした云々という仮説も根拠が薄弱であり…
第二に、… 大久保が西郷使節延期論の主役を演じたのは、主として三条実美や岩倉具視の懇請に余儀なくされたからであろう…
第三に、… 汚職・不祥事件を続発させたかれら長州派は、江藤新平と司法省の追及を受けて窮地に陥り、江藤=司法省打倒を切実な課題とした。 … 長州汚職閥は結果的に政変から大きな利益を引き出したのである。}(毛利敏彦「明治六年政変」、P218-P220)

註2-1 毛利氏の主張_板垣抱き込み策

毛利「同上」、P111-P120

註2-2 毛利氏の主張_西郷の本意は平和交渉

毛利「同上」、P184-P187

註2-3 板垣抱き込み策

家近「西郷隆盛」、P421-P422

{ 西郷が板垣に書簡を発した真意に関しては、非征韓論的な思惑が隠されていた可能性はある。常識的に考えれば、幕末期以来の付き合いがあり、留守政府内で相対的に近しい関係にあった板垣に対して、むしろ率直な気持ちを伝えたのが7月29日付けの西郷書簡であったとみなせるのではなかろうか。
板垣の手元に多数の西郷書簡が残され、結果的に西郷の意図を忖度するのが可能になったことについては、興味深い見解がある。姜範錫氏の説である。「板垣が一定期間に西郷から受け取った書簡だけを秘匿したのは、たまたま難を免れたからではなく、特別な理由があったはず」だと推理する。それが西郷のいわば遺書と受け取ったから、格別大事に手許に残したとする推論であった。この見解は西郷が板垣宛の書翰中で自身の死の問題についてたびたび触れていることから判断しても十分に首肯できると思われる。}(家近「同上」,P422-P423)

註2-4 始末書の信頼度

毛利「同上」、P186 高橋秀直「征韓論政変と朝鮮政策」(史林75巻2号 992年3月),P75


文書原文

文書① 7月29日付 西郷→板垣宛書簡

先日は遠方まで御来訪成し下され、厚く御礼申上げ候。さて朝鮮の一条副島氏も帰着相り候て、御決議相成り候や。若しいまだ御評議これなく候わば、何日には押して参朝致すべき旨御達し相成り候わば、病を侵し罷り出で候様仕るべく候間、御含み下されたく願い奉り候。 弥(いよいよ)御評決相成り候わば、兵隊を先に御遣わし相成り候儀は、如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。左候わば初めよりの御趣意とは大いに相変じ、戦いを醸成候場に相当り申すべきやと愚考仕り候間、断然使節を先に差立てられ候方御宜敷はこれある間敷や。左候えば決って彼より暴挙の事は差し見え候に付、討つべきの名もたしかに相立ち候事と存じ奉り候。兵隊を先に食い込み候訳に相成り候わば、樺太の如きは最早魯(ロシア)より兵隊を以て保護を備え、度々暴挙も之れ有り候事ゆえ、朝鮮よりは先に保護の兵を御繰り込み相成るべくと相考え申し候間、かたがた往き先の処故障出来候わん。夫よりは公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺はいたすべき儀と相察せられ候に付、何卒私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候。 副島君の如き立派の使節派出来申さず候えども、死する位の事は相調い申すべきかと存じ奉り候間、宜敷希奉り候。此旨略儀ながら書中を以て御意を得奉り候、頓首

(出典: 毛利「明治6年政変」,P112  本文に戻る

文書② 7月29日付 西郷→板垣宛書簡

此の節は戦いを直様(すぐさま)相始め候訳にては決してこれなく、戦いは二段に相成り居り申し候。只今の行き掛かりにても、公法上より押し詰め候えば、討つべきの道理はこれあるべき事に候得共、是は全く言い訳のこれある迄にて、天下の人は更に存知これなく候えば、今日に至り候ては、全く戦いの意を持たず候て、隣交を薄する儀を責め、且つ是迄の不遜を相正し、往く先隣交を厚くする厚意を示され候賦を以て、使節差し向けられ候えば、必ず彼が軽蔑の振る舞い相顕れ候のみならず、使節を暴殺に及び候儀は、決って相違これなき事に候間、其の節は天下の人、皆挙げて討つべきの罪を知り申すべく候間、是非此処迄持ち参らず候わでは、相済まざる場合に候段、内乱を冀う心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し、無事を計って、終に天下を失う所以の確証を取って論じ候。

(出典: 「講座明治維新#4」、P72-P73 原典は「西郷隆盛全集」#3,385-386頁)  本文に戻る

文書③ 10月15日付 「始末書」(西郷→三条宛書簡)

朝鮮御交際の儀
御一新の涯(きわ)より数度に及び使節差立てられ、百万御手を尽くされ候得ども、、悉(ことごと)く水泡と相成り候のみならず、数々無礼を働き候儀これあり、近来は人民互いの商道を相塞ぎ、倭館詰め居りの者も甚だ困難の場合に立ち至り候ゆえ、御拠(よりどころ)なく護兵一大隊差し出さるべく御評議の趣(おもむき)承知いたし候につき、護兵の儀は決して宜しからず、是よりして闘争に及び候ては、最初の御趣意に相反し候あいだ、此の節は公然と使節差し立てらるる相当の事にこれあるべし、若し彼より交わりを破り、戦を以て拒絶致すべくや、其の意慥(たし)かに相顕れ候ところ迄は、尽くさせられず候わでは、人事においても残る処これあるべく、自然暴挙も計られず抔(など)との御疑念を以て、非常の備えを設け差し遣わされ候ては、また礼を失せられ候えば、是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく、其のうえ暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、其の罪を問うべき訳に御座候。いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく、彼我とも疑惑いたし候ゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服せず候につき、是非曲直判然と相定め成り居り候次第に御座候。この段形行申し上げ候。以上

(出典: 毛利「明治6年政変」,P184-P185  本文に戻る