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日本国憲法の成立経緯と改憲論

2022/7/16

はじめに

コロナやウクライナ戦争があったせいか、最近、憲法改正に関する議論が高まってきたように感じます。憲法というと、堅苦しく、専門的で、難しい、といったイメージがあって、深入りを避けていたのですが、一念発起して調べてみました。
その結果を一般の市民の皆さんにもわかりやすいようにまとめたのがこのレポートです。私の他のレポートと同様に、識者の見解などを紹介した上で、私自身の考えも述べさせていただきます。なお、本文を簡潔にするため、出典や補足的な情報などは註釈に書いていますので、そちらも参照していただければ幸いです。

国会議事堂

目次


第1部 日本国憲法成立の経緯

1. 憲法とは…註1

憲法は国の最高法規として、各種の法律の規範となるとともに、政治を規制するものでもあります。

1215年にイングランドで制定されたマグナカルタ(大憲章)は、近代憲法のハシリといわれますが、当時のイングランド王ジョンの身勝手な政治を牽制するために貴族たちが王につきつけたものであり、今でもイギリス憲法の一部として有効です。なお、近代的な憲法として成文化されたものでは、1788年に発効したアメリカ合衆国憲法が世界最古です。

1889年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)は、ドイツ帝国(プロイセン)の憲法を参考にして作られた欽定憲法、すなわち、君主(=天皇)が定めた憲法です。そのため、「上から目線」の憲法になっています。

2. 日本国憲法成立の経緯

(1) 新憲法制定の始動註2

1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の詔勅」を放送して太平洋戦争は終戦となりました。日本はポツダム宣言の受諾にあたり、天皇制の維持を申し入れていましたが、ポツダム宣言は次のようなことを要求していました。(添付資料1にポツダム宣言の抜粋あり)

日本政府は、憲法問題について終戦直後から法制局で非公式な検討を進めていました。10月11日、マッカーサーは幣原喜重郎首相との会談において、「憲法の自由主義化」について触れました。幣原(しではら)首相は憲法改正に消極的でしたが、松本丞治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」が10月25日に設置され、調査・検討が開始されました。

図表1 日本国憲法制定の経緯

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(2) 憲法研究会と各政党の案

政府が調査会を発足させた少しあと、11月5日に民間の学者やジャーリストは憲法研究会を発足させました。憲法学者鈴木安蔵を中心に独自の憲法改正案を作成し、同年12月26日に政府及びGHQに送付、28日の新聞各紙でその内容が報道されました註3。以下は、主な内容です註4

安全保障関連の条項はありませんが、人権を重視した憲法案であり、GHQ草案に大きな影響を与えたとみられています註5

各政党も改正案を作りましたが、自由党と進歩党は明治憲法の根本は変えず、社会党案は国民の生存権を打ち出し、共産党案は天皇制の廃止と主権在民を主張していました註6

(3) 松本案の起草

松本丞治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」は1945年10月27日に第1回の総会を開きました。この時点では、明治憲法の小改正で乗り切れるだろうと考えていました註7

松本大臣は、自身で改正案を作り、委員会の意見も取り入れていわゆる「甲案」を完成させました。「甲案」の主な改正内容は次のとおりです註8

「甲案」と並行して、より幅広い改正を盛り込んだ「乙案」が策定されました。「乙案」は、「甲案」に加えて、「大日本帝国憲法」を「日本国憲法」に、「臣民」を「国民」に、「帝国議会」を「国会」に改称したほか、教育を受ける権利や勤労の権利・義務などを新たに規定していました。しかし、両案ともに明治憲法を部分的に手直しするだけのものでした註9

1946年2月1日の毎日新聞にこの委員会の「試案」が、1面トップで掲載されました。その内容は本物と多少と違ったところがありましたが、各方面から「政府試案は不徹底で革新的でない」などの批判がよせられました。

「憲法改正要綱」(甲案…松本案とも呼ぶ)は2月8日にGHQに提出されました註10が、GHQはすでに独自の草案作成にとりかかっていました。

(4) GHQ草案の提示

毎日新聞のスクープをきっかけにしてGHQは動き出しました。2月3日マッカーサーは憲法改正の3原則を提示し、GHQ民政局(ホイットニー局長)に草案の作成を指示しました。民政局では弁護士でもあるケーディス大佐を中心に突貫工事で作業を進め、マッカーサーの承認を得て、2月13日に日本政府に「GHQ草案」が手交されました註11

手交時にホイットニー局長は、「マッカーサーは天皇を戦犯として訴追する意思はまったくないが、他の国からはそういう圧力がある。この憲法草案が受け入れられれば天皇は安泰になるだろう」註12と述べていますが、この脅迫めいた言葉が、「日本国憲法は押しつけられた」論の根拠の一つになっています。

このGHQ草案に反発した松本大臣は幣原首相と相談の上、2月8日に提出した松本案の再説明書を作って、2月18日にGHQに提出しましたが、GHQは「松本案については再考の余地はないから、司令部案をもとに進める意思があるかどうか、回答せよ、もし回答がなければ司令部案を発表する」(佐藤「日本国憲法誕生記」、P39) とけんもほろろでした。

2月21日には幣原首相がマッカーサーと会談、22日には松本大臣が再度ホイットニー局長と議論しましたが、GHQの姿勢は変わらず、22日の閣議でGHQ草案に基づいて日本案を起草することが決定されました註13

(5) 日本政府案の起草

政府原案作成註14

当時、法制局部長だった佐藤達夫氏に松本大臣から日本政府案の作成指示が降りてきたのは2月26日でした。初めは、3月11日までに渡す予定で、28日に1次案、3月1日に2次案を作成したところ、3月2日にGHQからすぐに草案を持ってこい、との連絡が届き、あわてて2日に謄写版に刷って3月4日(月)にGHQに持参することになりました。

この時点までにGHQ草案に対して修正したのは日本語表現の見直しが多かったですが、人権関連で「法律の範囲内において」というような留保を入れたり、議会が1院制だったものを2院制にしたり、緊急勅令(緊急事態対応)に対応する規定を追加したり、といった修正もありました。

GHQとの調整註15

3月4日朝から、5日午後4時頃にかけてGHQと徹夜の調整が行われました。最初は松本大臣と佐藤氏の2人で対応していましたが、松本大臣とGHQの間が険悪なムードになったため、松本大臣は用事にかこつけて退席してしまいました。通訳や書記はいましたが、法律論については残った佐藤氏一人で議論を続けることになりました。

天皇制と戦争放棄については、GHQ草案の主旨を変えることは許されませんでしたが、他の章では1院制を2院制にするなど、日本側の要求が認められたものもありました。また、人権関連で留保をつけることや緊急勅令は却下されました。

日本政府はここでの確定案を要綱としてまとめ、3月6日に「憲法改正草案要綱」として発表、その後、口語体での条文化が進められて4月17日に「憲法改正草案」として公表されました。

(6) GHQはなぜ急いだのか?

日本の占領管理に関する連合国の最高政策決定機関として、1945年12月に極東委員会(FEC)を設置することが決定され、同委員会が活動をはじめる1946年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は一定の制約のもとに置かれることになりました註16。FECは米中ソ英仏蘭豪など13か国で構成されていましたが、オーストラリアやソ連などは天皇の責任を厳しく追及する姿勢をみせていました。一方、マッカーサーは占領政策を安定的に行うために天皇制の維持は欠かせない、と考えていました註17

2月1日の毎日新聞のスクープをきっかけに、ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに「FECが憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約はない」と進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出しました。

{ 極東委員会(FEC)は、開会(1946年2月26日)と同時に、日本の総選挙時期と憲法問題が中心議題になり、総選挙の時期(4月10日予定)の延期、憲法草案に十分な検討時間を与えること、天皇制の廃止(オーストラリア)など、マッカーサーの戦略を違える主張が渦巻いていた。…
東京裁判への道は、天皇を被告の対象から除外する道でもあったが、その処遇が安定的なものになるためには、憲法上で天皇の地位が確定されることこそが必要であり、それは … ほぼ1946年3月初旬であったことがわかる。}(古関「平和憲法の深層」,P85-P86)

(7) 帝国議会における審議

新憲法への改正手続きに関して、明治憲法の改正手続きによるべきだという意見と、新憲法によるべきだとの意見がありましたが、明治憲法の手続きによって行われることになりました註18。明治憲法で憲法の改正は、天皇の発議によって議会で審議し、3分の2以上の合意をもって成立することになっていました。

枢密院の審査註19

枢密院は天皇の諮問機関で、国務大臣とか大審院長とか、いうような地位を卒業したお歴々が顧問官として名をつらねていました。審査委員会は4月22日から11回開かれましたが、議論の中心は、天皇制/主権の存在と戦争放棄でした。6月3日天皇親臨の下に本会議が開かれ、美濃部達吉顧問官をのぞく賛成多数で可決されました。

衆議院での審議

1946年4月10日、女性の選挙権が認められた衆議院総選挙が行われ、6月20日帝国議会が開会しました。開会までに、幣原内閣から吉田茂内閣に変わり、憲法担当国務大臣は松本丞治から金森徳次郎にかわっています。憲法改正案は新たに設置された「憲法改正案特別委員会(委員長: 芦田均)に付託され、7月1日から8月21日まで審議が行われました註20

最も議論が集中したのは、天皇制(国体)と主権の問題でした。「国体護持」を旗印に選挙を戦ってきた保守系の議員が強い反発を示し、政府はそれをやわらげるために苦しい説明をしたために議論が混乱しましたが、結局、主権在民、象徴天皇が条文に明記されることで決着しました註21。なお、天皇制にからんで皇室財産の扱いについても白熱した議論が行われましたが、財産と言われるようなものはすべて国有となりました註22

次に大きく取り上げられたのは戦争放棄の問題でした。当時は降伏直後で日本の非武装化が推進されているときでしたので、軍備不保持は問題になりえませんでした。議論になったのは自衛権の問題です。「不意の襲来とか侵略とかいうようなことが勃発した場合、我が国はいかに処置すべきか…」という質問がなされ、それに対して政府は「第9条の1項では、自衛戦争ができないという規定は含んでいないが、第2項で戦力不保持となっているので、自衛戦争はやれない」と回答しています。

また、「9条の政府原案では、いかにもしかたなしに戦争を放棄するように見える、自主性を出して、平和を希求する国民の熱意を示すべきだ、という空気があり、9条の条文が修正されることになりました。9条の冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」を追加するなど、「平和憲法」という性格が強調されることになりました註23

これ以外にも重要な修正が加えられています註24

8月24日、衆議院本会議で採決が行われ、賛成421票、反対8票(大部分は共産党の議員)、という圧倒的多数で可決されました註25

貴族院での審議註26

この憲法改正審議が貴族院として最後の役割となりましたが、戦時中の貴族院議員は大量追放されてかわりに学会の権威者たちが勅撰議員に任命されていました。

貴族院では天皇の権限拡大が議論されました。条約の批准は天皇、恩赦の大権も天皇に帰属させるという修正案が出ましたが、議論の末否決されました。また、政府が削除した家族の条項(註14参照)を追加する修正案も出されましたが、否決されています。

10月6日、貴族院の本会議で採決され、圧倒的多数で可決されました。貴族院の採決は起立によるものだったので、反対者ははっきりしませんが、佐藤達夫氏の記憶によれば、3,4人ぐらいだった、といいます。

(8) 日本国憲法の施行註27

文民条項など、貴族院での追加修正があったため、それらについて衆議院で再度審議されたあと、10月7日に可決され、枢密院での再諮詢、天皇の裁可を経て11月3日に「日本国憲法」として公布されました。そして翌1947年5月3日から施行されたのです。

極東委員会(FEC)は、1946年10月17日、「施行後1年を経て2年以内に新憲法を再検討する」ことを決定しました。この決定は、1947年1月にマッカーサーから吉田首相宛ての書簡で伝えられましたが、吉田首相は、「内容を仔細に心に留めました」とだけ返信しています。政府や国会内で憲法再検討の動きが見られましたが、一部の識者をのぞいて反応は鈍く、憲法の再検討は行われませんでした。


註釈(第1部)

註1 憲法とは

近藤和彦「イギリス史10講」,P51-P53、Wikipedia「憲法」、「アメリカ合衆国憲法」、「大日本帝国憲法」などによる。

{ 一般には立憲的意味の近代憲法をさすが、そのほかにもさまざまな意味に用いられる。一般には立憲的意味の近代憲法をさすが、そのほかにもさまざまな意味に用いられる。まず国家の統治体制の基礎を定める法の全体、すなわち根本法(基礎法)をさす場合に用いられる。… これを「固有の意味の憲法」という。… これに対し、近世になって、政治上の自由主義的要求に基づき、さまざまな専制主義、とくに君主の専制権力に対抗して、それに制約を加えるための、一定の政治原理を含む基礎法が確立されると、これを憲法とよぶようになった。この意味の憲法を「立憲的意味の憲法」という。… }(コトバンク〔日本大百科全書〕)

註2 憲法改正の始動

国会図書館編「日本国憲法の誕生」/概説第1章
ポツダム宣言については、添付の「関連資料1」を参照。

註3 憲法研究会メンバー

メンバーは、高野岩三郎(社会統計学者)、鈴木安蔵(憲法学者)、室伏高信(評論家/リベラル派)、杉森孝次郎(政治学者、評論家)、森戸辰男(経済学者)、岩淵辰雄(政治記者、戦後読売新聞主筆)、馬場慎吾(ジャパンタイムズ編集長、戦後読売新聞社長)。高野と鈴木は社会主義者であったが、ほかはリベラル派もしくは中道派であった。(古関「平和憲法の深層」,P179-P180、Wikipedia「憲法研究会」)

註4 憲法研究会案の内容

国会図書館編「同上」/概説第2章 及び 古関「同上」,P172-P195

{ 鈴木安蔵は「改正の基本は、人権の保証」として、問題点を次のように指摘している。
「日本の明治憲法は、著しい欠陥を有している。第1に人権のかわりに臣民権利が規定され、第2に自由権の規定は十分に網羅的でなく、第3にそれらすらもことごとく、但し書き付き、留保付きである。かかる規定内容は、その後、長年にわたって続けられた警察政治、国家的人権蹂躙、国民自由権無視、官尊民卑、男尊女卑等いっさいの封建専制国家的ヴァンダリズム(破壊行為)の克服はおろか、その防止にすら日本国家が無力であったひとつの根本原因をなしている」。}(古関「同上」,75)

註5 GHQ草案への影響

憲法研究会案は、発表されたと同時にGHQ民政局のマイロ・ラウエルによって、「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」と題して、ホイットニー民政局長に報告書が送られている。アメリカの研究者デイル・へレガースの「草案の分析は誰に命ぜられたか」との質問に対し、ラウエルはこう答えている。

「ホイットニー准将です。私個人はその民間の草案に感心しました。… 民間草案要綱を土台として、いくつかの点を修正し、連合国最高司令官が満足するような文書を作成することができるというのが、当時の私の意見でした」

さらに、憲法研究会による具体的な言葉の選択に、あなたは何らかの影響を受けましたか?という問いに対して、こう答えている。

「言葉の選択についてはそれほどではないが、間違いなくその影響を受けています。… ハッシーやケーディス、また憲法草案に関心を寄せていた者はみな、おそらくそれを目にしていたはずです」 (古関「同上」,P175)

註6 各政党の改正案

国会図書館編「同上」/概説第2章 及び 佐藤「日本国憲法誕生記」,P29-P30

{ これらの案は多かれ少なかれ明治憲法に比べて民主化の方向を目指したものであった…
自由党案では統治権は日本国家にあり、天皇は統治権の総覧者たるものとし、進歩党案では天皇は臣民の輔弼により憲法の条規にしたがい統治権を行うものとしていた。
社会党案では、主権は国家(天皇を含む国民共同体)にあるものとし、統治権を分割して主要部を議会に、一部を天皇に帰属せしめることとして天皇の大権を大幅に制限した。… 共産党案は、主権在民、議会が主権を管理するとの原則をとり、…}(佐藤「同上」,P30)

註7 憲法問題調査委員会

国会図書館編「同上」/概説第2章

{ この委員会は官制に基づくものでなく、非公式の機関として設けられた。最初のメンバーは、東大教授宮沢俊義、九大教授河村又介、… 顧問として、清水浩、美濃部達吉などの老大家を加えていた。}(佐藤「同上」,P22-P23)

註8 甲案の主な改正内容

佐藤「同上」,P25-P26  佐藤氏は「憲法問題調査委員会」の委員として参画していた。

註9 明治憲法の手直し――松本4原則

甲案、乙案が「明治憲法の手直し」に過ぎなかったのは、松本大臣が1945年12月8日に発表した「松本4原則」に基づいているからであろう。下記がその4原則である。

{ ①天皇が統治権を総攬されるという大原則には変更を加えない。 ②大権事項を制限し、議会の議決を要する事項を拡充する。 ③国務大臣の輔弼責任は国務の全般にわたるものとするとともに、国務大臣は議会に対して責任を負うものとする。 ④人民の権利・自由に対する保障を強化するとともに、それに対する侵害については救済を十分ならしめる。}(佐藤「日本国憲法誕生記」,P24-P25)

明治憲法はできるだけ直したくない、という考え方が当時の政治家、知識人では主流だったようだ。

註10 毎日新聞の報道とGHQへの提出

国会図書館編「同上」/概説第2章・3章、及び 佐藤「同上」,P28-P29
なお、古関氏によれば、毎日新聞の「スクープ」は、政府関係者によるリークだった可能性もあるという。(古関「同上」,P70-P71

註11 GHQ草案の作成

国会図書館編「同上」/概説第3章など
マッカーサー3原則は次のとおり。(佐藤「同上」、P35-P36)

註12 ホイットニー局長の「脅迫」?

{ 最高司令官(マッカ-サー)がこの文書をあなた方に提示しようと考えるにいたった真意と理由とについて、若干説明を加えたいと思います。 … あなた方がご存知かどうか分かりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。… しかし、みなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。 … }(古関「同上」,P81-P82)

註13 GHQ草案の受け入れ決定

佐藤「同上」、P39-P40

註14 日本政府案の起草

佐藤「同上」,P32-P33・P41-P51
GHQ草案からの変更点のいくつかを以下、掲げる。左側がGHQ草案を外務省で仮訳したものである。

最終的に、①は「主権の存する日本国民の総意に基く」となり、②は日本案通り削除、③は認められず、④は認められ、⑤は一部だけ認められ、⑥は認められなかった。

註15 GHQとの調整

佐藤「同上」,P52-P72、国会図書館編「同上」/概説第3章
集中討議で議論された主なものを以下に掲げる。

註16 極東委員会(FEC)とGHQ

国会図書館編「同上」/概説第3章

{ 3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。…
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。}(国会図書館編「同上」/概説第3章「憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立」)

註17 マッカーサーの報告書

{ マッカーサーは1946年1月25日、アイゼンハワーJCS陸軍参謀総長に対して、天皇を戦争犯罪人として起訴することに反対する見解を打電した。

過去10年間に、… 天皇が日本帝国の政治上の諸決定に関与したことを示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。…
天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし、その影響はどれほど過大視してもしすぎることはなかろう。天皇は、日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば、日本は瓦解するであろう。… 占領軍の大幅増加が絶対不可欠となるであろう。最小限にみても、おそらく100万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならないであろう。(…) }(古関「同上」,P84)

註18 憲法改正手続き

古関「同上」,P167-P168、佐藤「同上」、P95

{ 美濃部達吉顧問官は憲法改正手続きについて疑義を呈された。その要点は「この案は明治憲法第73条によって進められているが、この条文が現在も有効だといえるのか。自分はポツダム宣言の受諾および降伏文書によって、憲法のこれに抵触する部分は無効になったと思う。…」}(佐藤「同上」,P95)

なお、美濃部氏は枢密院の新憲法への採決で賛成の起立をしなかった。

註19 枢密院の審査

佐藤「同上」、P88-P99 国会図書館編「同上」/概説第4章

註20 衆議院での審議開始

国会図書館編「同上」/概説第4章

註21 天皇制/主権に関する議論

佐藤「同上」,P110-P126
保守派の不満は下記の「山吹憲法論」に代表されるのではないだろうか。

{ この議場には天皇擁護を国民に約束せられて当選された同僚がかなりたくさんあると私は思いまする、又反対に天皇制廃止打倒を約束された同僚の方もおられまする。この草案は形式においては天皇制擁護に間違いはありませぬ、が、実体的に八か条の条文中どこに素晴らしい天皇制擁護があるのか、任命権、認証権以外に、国会の召集であるとか、衆議院の解散であるとか、或は外国大公使の接受であるとか、いろいろ規定して花は持たせてあります。花は花でも、この花は七重、八重、咲いておりますけれども、山吹の花、実はひとつもない悲しき憲法であります。折角国際情勢を考慮して作成されました本憲法草案に対し、山吹憲法などと失礼なことを申しまして、或は関係筋から私は叱られるかも分りませぬが、… }(佐藤「同上」,P115-P116)

佐藤氏は次のように弁明している。

{ 政府の説明としてのっけから“主権在民、国体変革の新憲法だ” と単純に言いっぱなせなかったことにあったといえそうである。… はじめはオブラートに包まれていた答弁が、たとえば"主権は天皇を含む国民にあり”といっていたのが、"主権は国民にある。その国民には天皇が含まれる。”となり、結局、"主権は国民にある"というように、だんだんと明確にされていった …}(佐藤「同上」,P126)

註22 皇室財産

佐藤「同上」,P141-P152
皇室財産すべてを国有化することに政府は反対したが、GHQはこれを非常に重く見ていた。

{ 皇室を大きな財閥と見て、これを解体することが日本民主化の重要な条件だということにあったと思われる。}(佐藤「同上」,P150)

註23 戦争放棄

佐藤「同上」,P127-P139 古関「同上」,P90-P111
吉田茂首相は、共産党の野坂参三氏の「… 自国を護るための戦争は正しい戦争である …」という指摘に対して、次のように答弁している。

{ …国家正当防衛による戦争は正当なりとせらるるようであるが、わたしはかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります。(拍手) 近年の戦争は多くは国家防衛の名において行われたことは顕著なる事実であります。… 故に正当防衛、国家の防衛権による戦争を認むるということは、偶々戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、もし平和団体が、国際団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認むるということそれ自身が有害であると思うのであります。}(佐藤「同上」,P129-P130)

{ 芦田氏は9条を修正して平和国家を強調したかのようにみえるが、その後「変身」を遂げる。1946年11月の著書で、「9条1項では侵略戦争を禁止しているが、自衛戦争は認めている。9条2項で前項の目的を達するため、陸海空軍その他の武力は保持しない、となっているが、前項の目的とは侵略戦争のことであり、自衛戦争のための武力保持は合憲である」と主張している。}(古関「同上」,P120-P123<要約>)

註24 その他の修正

佐藤「同上」,P153-P156
本文に記載した以外に、小さな追加があり、貴族に関する条項が削除(貴族制度は即日撤廃)された。他に衆議院の発意により20何条にわたって大小の修正があり、またGHQからの要請による変更もいくつかあった。

註25 衆議院の採決

国会図書館編「同上」/概説第4章 佐藤「同上」,P159

註26 貴族院の審議

国会図書館編「同上」/概説第4章 佐藤「同上」,P161-P180

{ (本会議採決での)反対意見として、「この案はただ天皇を存置しただけで、実質的には天皇制の排除にほかならない」、「憲法改正のような重大なことは完全に独立した後になされるべきである」、が述べられた。一方、賛成意見は声涙切々たるもので「この際は大局的見地から、明治憲法との訣別の私情をふり切って、新憲法に光明を求めなければならない」という趣旨だった。}(佐藤「同上」,P178)

註27 日本国憲法の施行

国会図書館編「同上」/概説第5章、資料と解説第5章