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「近代世界システム」感想文 (3/3)

5.近代世界システムへの評価と課題

近代世界システム論が、評価されている最大の特長は、ある国に注目して歴史をみるのではなく、世界システムとしてとらえることにあります。例えば、日露戦争を理解しようとしたとき、多くの歴史書は日本がどのように動いていったか、それに対してロシアはどういう対応をしたか、という視点で書かれていますが、近代世界システムでは、日露双方ともに世界システムの一部として、日露以外の国との関係も含めてどのように行動し、それが世界システムにどう影響したか、という視点で見ることになるので、日露戦争をより正しく理解することができます。

一方で、世界システム論には多くの課題も提起されています。ここでは、そのうち代表的と思われる2つの課題について概観してみます。

(1) 発展段階論の否定

発展段階論とは、個々の国はいくつかの段階を踏んで発展していく、とする学説ですが、世界システム論ではこれを否定します。例えば、発展段階論だと{ イギリスが19世紀初めに達成した工業化にインドはまだ成功していない … などという主張がなされるのは、インドもかならずイギリスのような国になっていかなければならない。}(「世界システム論講義」.Ps139) ということになりますが、世界システム論だと { イギリスが工業化したために、その影響をうけたインドは容易に工業化できなくなった。}(同上.Ps165) となります。

これに対して、松岡利通氏は次のような課題を提起しています。

{ 近代世界システム論は、近代世界システムの持つ構造の不変性を主張する。… 他方で、近代世界システム論は資本主義の拡大やリベラリズムの中心的役割、技術進歩を事実として認める。実は発展や進歩という事実認識と不変の構造との関係を明確にすることが、… 課題である。}(「近代世界システム論と歴史認識の転換」.P48)

近代世界システムは発展していくというのに、その中核―半周辺―周辺という構造は変わらない、ということは、常にどこかの国が中核国家に対して従属的な立場にあるということで、それは世界システムの発展とどういう関係にあるかを説明すべきだ、という意味でしょう。

松岡氏は、{ それは発展とは何か、進歩とは何かという認識論的な問題を提起しており、かつ社会科学的なパラダイムの根底的な転換を要求するものである… }(同.P48) と述べています。従来型の発展段階論の問題にとどまらず、古代社会に対して現代社会は進歩している、とみんな思っているけど、本当にそうなのか?という根源的な問題に関わってくるのです。

(2) 資本主義経済をベースとした視点の課題

近代世界システム論は、資本主義経済とそれを支える政治の視点で歴史を見ていますが、松岡氏は次のように経済以外の動機を無視していることを指摘しています。

{ 国家をシステムの変数として取り扱う視点は、これまでの国家を分析単位とする歴史観や資本主義観に大きな反省を迫るものであった。しかし国家の自立と見られた事象、国民国家の形成を促した地域の内在的原因、… などが独自のメカニズムの下で形成されることを全く無視してよいわけではないであろう。また、近代世界システムは国家間システムを重視することによって、多くの新しい知見を開いたのであるが、しかしそこには国家以外の諸社会(政治・文化)単位の位置付けという問題がなお残されているといえるだろう。}(同.P49)

この指摘は、私も読みながらずっと感じていたことですが、ウォーラーステインからすれば、資本主義経済という視点で近代史をみているのだから、当然のこと、と言いたいかもしれません。近代の経済史を語るのであれば、それでいいのですが、近代史全般を語るのであれば、経済(とそれに関連した政治)以外のことも、語るべきことがあるのではないか、と思います。

例えば、近代世界システムを構成する国のへゲモニー確立、没落、伸長などの事象は、戦争が契機になっていることが多く、30年戦争や7年戦争は近代世界システムで大きな変節点になっていることを認めているにもかかわらず、その戦争がなぜ起こったかについてはほとんどふれていません。また、16~17世紀は宗教改革の影響が大きかったはずですが、それもあまり大きな要素とは考えていないようです。さらに、イギリスやフランスの政治はかなり詳細に書いていますが、インドやロシアはごく簡単にしか書いていません。これらの国はヨーロッパ諸国とは異なる文化を持っており、まさに松岡氏のいう「独自のメカニズム」があるように思うのですが、無視しているかのようにみえます。

経済という視点だけでも膨大な関連文献を読みそれを分析する作業量は生半可なものではなかったことからすれば、他の視点も含めれば莫大な手間がかかるので、複数の人がチームで対応する必要があるかもしれません。

6.印象に残ったこと

最後に、全4巻を通読して特に印象に残ったこと4点をまとめてみます。

(1) 経済で語れる西洋史、日本近代史は?

ウォーラーステインは経済(とそれに関連した政治)の視点で西洋近代史を語り、前項で指摘させていただいたように「別の視点も必要」、という批評はあるものの、大きな流れはつかみきれているように思います。
では、明治維新後「近代世界システム」に組み込まれることになる日本の近代史をこの手法で分析できるか、というと「近代世界システム」内で動く部分だけに絞っても、はなはだ怪しくなるような気がします。日清・日露戦争、日英同盟、ワシントン体制 … 太平洋戦争、いずれも経済の視点だけでは説明がつかないのではないでしょうか。そこには、士農工商という順序が象徴する商業軽視、精神重視の文化が大いに関係していて、石原莞爾が、「西洋の覇道、東洋の王道」と胸をはった気持ちの底流をなしている価値観があると思います。

この価値観の差は、現在も生きていて、欧米で数兆円という資産を持つ人がゴロゴロいるのに、日本企業トップのトヨタの役員でさえ、年俸は1億そこそこ、ということに現れています。(最近の若い経営者には欧米並みの報酬を受け取る企業家もいますが…)

(2) 絶対王政の功罪

「太陽の沈まぬ国」スペインをつくりあげたフェリペ2世(在位1556-98年)は戦争と贅沢三昧の生活に明け暮れて破産し、スペインは没落しました。太陽王ルイ14世(在位1643-1715年)も重商主義を進めて植民地から莫大な富を集めましたが、やはり戦争と贅沢で散財し、フランスの財政を破綻させました。他方、イギリスは着々と国力増強につとめ、世界の海を制覇するヘゲモニー国家になりました。

それから3百年後の現在、この3つの国で料理がおいしいのはフランスとスペインで、イギリスで一番おいしいのはインドカレーくらいになってしまいました。観光名所もフランス、スペインの方が圧倒的に多く、文化遺産もたくさんあります。絶対君主が贅沢をした結果では、もちろんないでしょうが、それぞれの国民性が活かされた歴史、などと言ったらイギリス人に怒られるかも知れませんね。

(3) 産業革命の位置付け

経済という視点で見たウォーラーステインにとって、「産業革命」は「革命」ではなく、世界経済の進行を「スパート」させたもの、にすぎませんでした。確かに、従来と同じ綿製品がはるかに安いコストでできるようになっただけのことですから、そのように考えるのは当然といえば当然かもしれません。

しかし、これを技術の視点でみると、モノ作りの歴史のなかで極めて大きな転換点であったことは間違いありません。当時、機械を発明した人たちは、そのことを意識していなかったかもしれませんが、それまで人が道具を使って作っていた「手工業」から、機械がモノ作りをする「工業」に変ったのです。それはコスト低減、工期短縮、職人技への非依存、といったことだけでなく、このあとに続く、動力としての蒸気機関や内燃機関の発明、電気の利用… と続く技術刷新のきっかけになったといってよいでしょう。
歴史事象は見る視点によってこれだけ違う、という見本のような例ですね。

(4) 中国はなぜ海外進出しなかったのか…

15世紀初頭の中国とヨーロッパの技術レベルは、大差がないか、中国の方がやや進んでいる面すらあるような状態でした。中国が閉じこもり、ヨーロッパが海外へ進出していった理由をウォーラーステインはかなりのページをさいて分析しているのですが、私なりに要約すると3(1)に記したように、動機の有無と大帝国対小国の集合体、の2つになると思います。私は、後者の国のかたちの差にとても興味をひかれました。

中国は"中華"という名前が示すように、自分たちが世界の中心なのだから、周囲の国々はいずれ向こうから朝貢してくるはずで、余分な労力をかける必要はない、という意識が伝統的にあったのでしょう。明朝はちょうどこの頃、最盛期を迎えようとしている時期でしたから、その思いは強かったかもしれません。それだけでなく、すでに中央集権化していた中国は、皇帝と官僚たちで国をしきっていましたから、多様性はあまりなく一部の人たちだけで意志決定していたでしょう。それに対して、ヨーロッパは小国が乱立し、それぞれが競い合い、影響しあっていました。その多様性が巨大な中国を最終的に圧倒することになった、というのはとても示唆的です。


付録.「近代世界システム」が難解なワケ

私は、この本を約1.5カ月かけて読みましたが、その間、何でこんなに難解なのだろうと考え続けていました。以下、そうして考えたことを披露させていただきますが、これは決して、この本を否定的にみたり、著者や訳者を責めるものではなく、この本をこれから読もうとする一般の読者の方々が少しでも楽に読めるよう、参考にしていただくためであることを、お断りしておきます。

(1) 専門用語等

この本は、読者に歴史学や経済学、社会学などの研究者を想定した専門書です。当然のことながら、たくさんの専門用語が出てきますし、人名、地名なども解説抜きです。また、史実についてもその内容を知っていることを前提に書かれています。私の場合、これを読み始める前に、西洋史関連の本を10冊ほど読んでいましたが、わからない言葉が多数出てきて、そのたびにネットで調べながら読み進めました。一番苦労したのは経済学や社会学の範疇に属することでしたが、私がこの本を読む目的はヨーロッパ近代史の理解が目的でしたので、それと直接関係ないと思われる部分は、読み流しました。

(2) 欧米系言語の特性?

欧米系言語と日本語の違いだと思うのですが、日本語だと省略してしまう主語や形容詞が省略されないのでわずらわしさを感じます。また、―(ハイフォン)で囲んだ文章内註釈が長くて多いのには閉口します。ひとつの文に2つ以上の文章内註釈があると、いったい主文の主語が何だったのかわけがわからなくなります。

小説やエッセーのような文学作品の場合は、文章の美しさが大事なので、翻訳者がそれぞれの言語に則して訳すのが当たり前にようになっていると思うのですが、専門書の場合は正確さが大事なので、できるだけ文章構造を変えずに訳すのが原則になっているようですから、やむをえません。この本の訳者はとても親切で、言葉が足りない部分を訳注で補ってくれたり、豊富な語彙をお持ちのようでおそらく原語のイメージにピッタリの言葉を選んでくれていて、とっても助かります。

(3) 構造化されていない段落

各巻は4~7つの章に分かれていますが、ひとつの章の本文は通常で30~50ページ、長いものだと60ページくらいです。A5版2段組みなので、新書版にするとひとつの章は60~100ページ以上になりますが、原文ではこれがそのままノベタンで文字がぎっしり並び、気休めになるような図や表もほとんどありません。訳者が小見出しを入れてくれているので、かなり分かりやすくなっているのですが、その小見出しの数が20から多い章だと50以上になります。小見出しのあるいくつかの段落がひとつのまとまり、つまり、章節項の節や項に相当する段落群になっているのですが、その区切りや段落群のタイトルのようなものがないので、いったい何について論じているのか見えなくなってしまうことが多々あります。

(4) 分析手法の特質

上記のようにひとつの章が巨大な段落群で構成されることになる原因は、「世界システム」の手法そのものに依存している部分もあると思われます。

一般の歴史書ではひとつの国を対象にするので、章立ては時系列順になるのが通例ですが、「近代世界システム」では、各巻はおよそ1世紀強の範囲で分けられ、章立ては地域別になる場合が多いです。例えば、第3巻は18世紀を中心として、①産業革命とフランス革命、②英仏抗争、③世界システムの拡張、④アメリカ大陸の独立運動、の4つで構成されます。ここまではいいのですが、章の中に入ると、地理軸と時間軸とテーマの軸が輻輳するケースがあります。例えば、第3章では、ロシア、オスマン帝国、インド、西アフリカの周辺化について書いているのですが、段落群はテーマ別になっています。テーマは、a)組み込みの理由やプロセス、b)工業の衰退、c)商業の形態、d)強制労働、e)外延部、f)従属化、ですが、テーマ毎に各国・地域のことが述べられ、そこには時間軸も含まれます。この手法では、当然このような整理のしかたになるのですが、じゃあ、インドは結局どんなだったの、というとa)からf)の段落群からインドの段落を抜き出して再整理しないと理解しにくいのです。

とりとめもない不平のようなことを書いてしまいましたが、難解でも中味の濃い本を読み終えたときの達成感は格別なものがあります。ぜひ、みなさんもチャレンジしてみてください。

参考文献

I.ウォーラーステイン著、川北稔訳「近代世界システムⅠ~Ⅳ」,名古屋大学出版会、2013年10月15日

I.ウォーラーステイン著、川北稔訳「史的システムとしての資本主義」,岩波書店,1997年8月22日

川北稔「世界システム論講義」,筑摩書房,2016年4月1日

近藤和彦「イギリス史10講」,岩波新書,2013年12月20日

藤瀬浩司「近代ドイツ農業の形成」,1967年3月25日

松岡利通「近代世界システム論と歴史認識の転換」,経済学史学会年報36,40-51,1998