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ハル・ノートの謎 (3/3)

6.日米のパーセプション・ギャップ

日米の最終交渉が決裂した原因について、須藤氏は、両国間にあったパーセプション・ギャップ、すなわち双方が相手側の基本スタンスや認識を誤解していたことにあった、といいます。具体的な内容について、須藤氏は、国家としての基本戦略や国家観、中国撤兵問題、三国同盟、日本の南進政策、の4つに区分して分析しています。以下は、須藤「ハル・ノートを書いた男」,P194-P213 を私なりに要約したものです。

基本戦略、国家観

日本が大国の仲間入りをはたすためには、国土の拡大が必要で、そのためには、アジアから白人を廃して朝鮮・中国から東南アジアに進出していく「アジア主義」を実現していくのは当然の行為であり、それを許さないのは不当である、と日本では考えられていた。そして、こうした日本の立場をしっかり説明すればアメリカは理解してくれるはずだ、という楽観的な見方が支配的だった。

一方、アメリカから見た日本は、好戦的で信頼できない弱小国、という認識が根強かった。日本には軍部を中心とした強硬派と近衛などの穏健派があったが、強硬派の勢力が強く、穏健派は弱かった。昭和に入ってから軍と政府による二重外交の様相を呈し、軍の独走を政府が追認するような動きをしてきたことが「日本は約束を守らない国」というイメージを形成することになった。

また、日本は経済力などを含めた総合力でアメリカに大きく遅れをとっており、軍事力も恐れるに足りない、とみくびっていた。しかし、日本は低い生活水準に耐えながら、軍事には莫大な投資を行っており、アメリカが考えるほど弱体ではなかった。

さらに、日本には弱い者でも時によっては強い者に立ち向かうという非合理主義があったが、アメリカの合理主義者には理解できなかった。

中国撤兵問題

日本が大陸進出する意図は、満州と中国本土とでは異なっていた。満州については、経済的搾取や植民地としての日本化政策ではなく、投資を行って国家的繁栄を図る、というアジア主義と日本の強国化政策の入り混じったものだった。一方、中国本土は、満州の安全のために北支を、北支のために中支・南支を抑える必要があるという安全保障上の問題で、理念もないかわりに、中国全土を支配下におさめようとする野心があったわけではない。

ところが、アメリカをはじめ多くの国は日本は中国全土を植民地化しようとしている、と見ており、1938年の新東亜秩序声明はその証拠であるかのように認識された。また、欧米人にとって東洋を代表するのは中国であって日本ではなく、アメリカ人の多くは日本より中国に好意的だった。

アメリカは日本を侵略者と規定し、原則論から日本に譲歩をせまったが、日本側が中国からの撤兵を領土的野心というより自国の安全保障にかかわる重大な問題とみなしていたことにアメリカは気づかなかった。

中国問題こそ、アメリカの原則論と日本の国家利益が真正面から衝突していたのである。しかも、両国はそれを相互に認識していなかった。

三国同盟

三国同盟を推進した松岡洋右のもくろみは、ソ連を含めた4国協商により、英米に対抗することにあったが、独ソ戦により三国同盟の意義は半減してしまった。三国同盟の維持は、表面的にはドイツへの信義を理由にしていたが、ドイツの軍事的勝利を期待していたことと、アメリカの圧力で同盟から抜けることによりメンツと国際的信用を失うと考えたからである。しかし、1941年7月、外相が松岡から豊田に代ると、三国同盟を事実上形骸化することによってアメリカと妥協しようとした。

しかし、アメリカにとって日独が共同作戦をとれない三国同盟はさほど重要ではなかった。アメリカにとって最大の関心事は、東南アジアにおける日本との衝突を十分な軍備が整うまで回避することだった。ただし、アメリカが内外に向けて日本を非難するとき、「日本はヒトラーと手を結んだ侵略国の一員である」という口実にされ、日本への敵愾心をあおるために使われただけだった。

三国同盟を日本は現実的な外交手段として重視したのに対し、アメリカにとってはイデオロギー的な意味をもっているにすぎなかった。

日本の南進政策

日本が南部仏印への進駐を決意した背景には2つの目的があった。一つは蒋介石への補給ルートを遮断し日中戦争を終結させることであり、もう一つは石油などの戦略物資を確保するためだった。長期的なビジョンがあったわけではなく、戦略らしきものはほとんどなかった。軍部を含めた日本の当局者達の間には、東南アジア全域を支配下に収めるといった青写真は描かれていなかった。

一方、アメリカ側は、日本の南部仏印進駐を東南アジア全域を制覇するための第一歩と解釈し、英米の前進基地であるシンガポール、フィリピン、香港といった軍港のある地域への重大な脅威として受け止めた。日本の南進に対して、ハル国務長官は再三にわたり、これはアメリカの安全保障を脅かす行動であると非難していた。アメリカが南進を安全保障上の問題と認識していたのは、それに対抗するのは軍事手段であることを意味したのである。

しかし、日本側にはそのような認識はなく、南部仏印進駐がアメリカを刺激する要因とは認識しておらず、進駐により石油禁輸を予測した者はごく少数しかいなかった。松岡はその数少ない予測者の一人だった。

7. まとめ

最後にパーセプション・ギャップと大杉氏の避戦論について、私なりのコメントをさせていただいて終わります。

パーセプション・ギャップへの対応

アメリカに駐在していた野村大使、日本にいたアメリカのグルー大使、イギリスのクレイギー大使などは、こうしたギャップを感じて、本国に妥協を具申していますが、いずれも本国では受け入れられませんでした。例えば、野村大使は、次のような報告をしています。

{ アメリカは日本に譲歩するよりも戦争を選ぶ決意であり、… 世論も太平洋における戦争に反対でない空気であるゆえ、交渉に期限をつけることなく、長期的な構えをする方が得策。}(須藤「同上」,P89)

これに対して、東郷外相は交渉期限は絶対に変更できない、と冷たく回答しています。

パーセプション・ギャップは異なる歴史を持ち、文化や習慣が異なる国同士の間では必ずと言っていいほど存在する問題でしょう。これを取り除くには、互いに相手の認識を理解しようという意識をもって、時間をかけて相手の話を聞くする必要があると思いますが、日米の最終交渉では、日本もアメリカも開戦を辞さず、という方針のもと(日本側はさらに時間を区切って)、自国が提示した条件を譲る気は双方ともにほとんどありませんでした。

それは、相手に対する不信感とともに、国としてのメンツが大きく影響していたからだと思います。少なくともどちらかが、メンツを脇において一定の譲歩をしないかぎり、妥結することはなかったでしょう。そして、このようなケースは、国と国とのメンツがからむ交渉では必ずといっていいほど起こる問題であり、それはまた、戦争はメンツで始まる、という法則のようなものを暗示しているのではないでしょうか。

参戦せずに大戦をやり過ごせたか?

大杉氏は、日米交渉に善処して無謀なあの戦争に突入しなけば、平和的かつ自主的に民主主義を実現する可能性があったはず、という。

{ しばらく隠忍自重しておれば、米国は欧州戦争に必ず参加し、そうなれば彼らの極東に対する態度も変わり、打開のチャンスはまた来たであろう。
まず、仏印から撤兵して相手の反応を見ながら、なし崩し的に非戦に持っていく道もあった。…
その後、ドイツ軍がソ連軍に押し戻され、ほかの戦線でも連合軍の優勢が明らかになれば、日本軍部も方向転換せざるをえない。}(大杉「同上」,P264-P265)

{ 戦前に民主的改革を期待するのは不可能、という見方は、現在の価値基準をもって歴史を判断する誤り、戦後の尺度で戦前を推し量る間違いの例である。戦前の日本社会には今ほどの自由はなかった。… すべて上からのお仕着せによらざるをえなかった。しかしそのことは、逆に上からの改革がしやすかったということである。どのような社会も為政者の意志と力によって、もちろんそれには下からの抵抗や国際環境の影響を受けるところが大であるが、少しずつでも変革されていくものである。}(大杉「同上」,P255)

確かに、尊王攘夷の大合唱にあわせて幕府を倒したけれど、気がついてみたら攘夷はどこかに吹っ飛んでいて真逆の開国を進めていた、という歴史もあります。指導者たちの力が影響するのは間違いないでしょう。

しかし、独ソ戦におけるドイツの劣勢がはっきりしてくる1942年暮れから、敗北が濃厚になる1943年暮れまでの1~2年間、アメリカの言うままに仏印から軍をひくだけでなく、おそらく中国からも暫時撤退せざるをえないという軍にとって屈辱的な行動をいったい誰が進められたのか、仮にそうした人物がいたとしても、テロにより暗殺される可能性が高かったのではないか、こうした疑問を解くカギはどうしても見つかりません。

以上

参考文献

須藤眞志:「ハル・ノートを書いた男」、文春新書,1999年2月20日

大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、講談社学術文庫、2008年11月10日

小谷賢:「日英インテリジェンス戦史」,ハヤカワ文庫,2019年8月15日

渡部昇一,田母神俊雄:「誇りある日本の歴史を取り戻せ」、廣済堂出版,2014年8月22日