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ハル・ノートの謎 (1/3)

2023/9/11改 2020/8/2

ハル・ノートは、1941年の真珠湾攻撃を前にして日本とアメリカの間で行われた交渉において、アメリカから提示された和解条件を示した文書ですが、その内容が日本にとってあまりにも苛酷な内容であったがゆえに、開戦に踏み切る決断をさせたものです。

ハル・ノートについては、ソ連のスパイが関係しているとか、アメリカが日本から攻撃させるように仕向けたものだ、という主張がありますが、須藤眞志著「ハル・ノートを書いた男」は、こうした疑問に対して、冷静に事実を積み上げ、その解を導きだしています。ここでは、この本をベースにして、ハル・ノートにまつわる謎についてレポートします。


目次


1. ハル・ノートが提出された経緯

本論に入る前にハル・ノートが出されるようになった経緯を確認してみます。下図は、日中戦争がドロ沼状態になってから太平洋戦争に突入するまでの主な経緯をまとめたものです。

図表1 太平洋戦争への道

太平洋戦争への道

アメリカによる経済制裁開始

1937年に日中戦争が勃発して以来、アメリカは日本に対して侵略戦争を非難する声明などを発してきましたが、1939年にイギリスの天津租界を日本軍が封鎖した事件の報復として、日米通商航海条約の破棄を通知し、日本に対する経済制裁を始めました。翌1940年9月には日本が蒋介石への物資援助のルートだった北部仏印(現在のベトナム北部)に進駐したことに対して鉄類の輸出を禁止して、経済制裁を強化しました。

1941年に入って日米の民間人が作成した「日米諒解案」をもとにした交渉を始めようとしましたが、松岡洋右外相が反対してこの交渉は挫折しました。

石油輸出禁止

そして、日米関係を決定的に悪化させたのが、7月に行われた日本軍の南部仏印(現在のベトナム南部)進駐です。この進駐は公式には「仏印の防衛」でしたが、実際には「自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め…」(1941年7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」) であり、アメリカにとってみれば同盟国のイギリスやオランダのみならず、アメリカの植民地だったフィリピンをも脅かされる行動に見えたのです。

それでもルーズベルトは、日本が「仏印の防衛」というのだから、仏印を関係各国で調整して中立化しよう、、日本が応じれば経済制裁の解除についても相談にのる、という提案をしたのですが、日本はそれを拒否し進駐を強行しました。そして、アメリカは、在米日本資産の凍結のほか、石油輸出の禁止に踏み切ったのです。

開戦決意

南部仏印進駐でアメリカがこのような強硬手段に出るとは予想していなかった日本はあせり、近衛首相とルーズベルト大統領との首脳会談を提案しますが、アメリカは事実上拒絶しました。そして、9月6日の御前会議では、「外交手段の見通しが立たなければ開戦を決意する」と決定してアメリカと交渉をしますが、アメリカは仏印及び中国からの撤兵などを主張して譲らず、近衛文麿は辞任して、後任の首相には東条英機が任命されました。

最後の交渉

昭和天皇は日米交渉をまとめて戦争を回避するよう東条首相に指示し、東条首相もアメリカへの提案を新たに作成して交渉を進めようとしますが、一方で11月末までにまとまらなければ開戦、と決めます。こうした日本側の開戦決意の情報は外交暗号を解読していたアメリカに筒抜けでした。

日本は11月7日にまず甲案とよばれる妥協案をアメリカに提示しますが、アメリカは興味を示さず、20日に暫定的な妥協案である乙案を提示します。これらの日本からの提案に対する回答として作成されたのが、ハル・ノートでした。(以上、詳細はこのサイトの「南京事件」第5章3節を参照ください)

2. ハル・ノートはソ連のスパイが書いた!?

「大東亜戦争」派の主張

渡部昇一氏は、次のように主張します。

{ 当時、アメリカ国務省関係のところで、300人ものアメリカ人がソ連のスパイとして活動しており、その一人がスターリンの命を受けたハリー・ホワイトという共産党員であったということです。
そのハリー・ホワイトが書いた案は、満州及びシナからの即時全面撤兵、シナ政府は蒋介石政権以外に認めない、など日本が絶対に呑めるわけもない内容でした。これを通称「ハル・ノート」と言っているわけですが、つまり、ハル・ノートはハル国務長官が書いたものではないということです。…
ルーズベルトは日本と戦争がしたかった。そのためには日本が絶対に呑めない要求を突きつけろということになって、ホワイト・ノートならぬハル・ノートが出てきた。}(渡部昇一、田母神俊雄「誇りある日本の歴史を取り戻せ」,P142-P143)

ハル・ノートの作成経緯と「スパイ」活動

実際はどうだったか… 須藤氏はハリー・ホワイトに働きかけた元ソ連の諜報機関員ビタリー・グリゴリエッチ・パブロフに直接インタビューするなどして、ハル・ノートの作成経緯を詳しく述べています。それを簡略化して図に表したのが図表2です。

図表2 ハル・ノートの作成経緯

ハル・ノートの作成経緯

時系列順にこの図を説明します。(下記の①~⑤は図中の同じ番号に対応します)

①1941年4月、パブロフ氏はワシントンでホワイトに会い、メモを見せてホワイトに日本に対する働きかけを要請した。それは、満州から日本軍を引揚げさせ、その見返りにアメリカは日本に経済的な見返りを与える、といった内容だった。ホワイトは「こういう方向でなにかできると思う」と回答した。

②パブロフ氏によれば、ホワイトはソ連のエージェントでもなんでもない。ただ、本人のファシズム嫌いの考え方などから、パブロフ氏の依頼は実現してくれるだろうと信じていた。

③ホワイトは1941年11月17日に、「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」という標題の試案を上司であるモーゲンソーに提出。モーゲンソーはこれをルーズベルト大統領に提出した。

④それが、ハル国務長官のところに降りてきた。国務省では極東部で日本への回答案を作っていたが難航していたので、国務省の考えに近いモーゲンソー案をもとに作ることになった。

⑤最終的な「基礎協定案」10項目のうち8項目はモーゲンソー案つまり、ホワイトが書いたものをベースにしており、これが日本に手交された。

ハル・ノートとモーゲンソー案の比較

ハル・ノートは、第1部の「政策に関する相互宣言案」と第2部「米国政府および日本国政府のとるべき措置」の2部構成になっており、重要なのは第2部です。上述の「基礎協定案」10項目がほぼそのまま第2部の10項目として、日本に提示されました。

図表3にハル・ノート、図表4にモーゲンソー案の内容を示します。両方ともわかりやすくするために、細かい内容や条件などは省略し、要旨のみを記載しています。また、「対応」蘭には、対応する相手側各表左端のNo.を記載しました。

図表3 ハル・ノートの内容

1.政策に関する相互宣言案

(ハル4原則と呼ばれるもの)

①すべての国家の領土と主権を尊重する

②他国の内政に干渉しない

③通商の平等を含めて平等の原則を守る

④平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持する

(以下、経済的関係などについて述べているが省略)

2.米国政府及び日本政府のとるべき措置

ハル・ノート(基礎案)の内容とモーゲンソー案との対応

出典)須藤眞志「ハルノートを書いた男」,P25-P26,P171-P173

図表4 モーゲンソー案の内容

モーゲンソー案の内容とハル・ノート(基礎案)との対応

出典)須藤眞志「ハルノートを書いた男」,P153-P156

※ 「1931年の境界」は満州国成立後の境界、須藤氏は満州は撤兵の対象外とみている。

両案の対応を見てみると次のようなことがわかります。

・ハル・ノート10項目のうち8項目はモーゲンソー案にあったものですが、細部の条件などは見直されています。

・モーゲンソー案21項目のうち、ハル・ノートに採用されたものはおよそ半分の11項目ですが、ソ連が要望していた満州からの軍撤退は不採用になっています。また、米海軍の撤収、移民法の廃止、借款の供与など、日本が歓迎するような提案が削除されています。

・モーゲンソー案の趣旨は、日本が軍備を縮小するかわりにアメリカは経済力強化のための支援をする、つまり軍事大国から経済発展をめざす平和国家に転換することです。

ソ連の関与度は低い!

以上を整理すると次のようになり、少なくともソ連が日米戦争をけしかけた、というのは誤りです。

・ホワイトは、ソ連の諜報機関から依頼を受けていましたが、ソ連のスパイでもなければそのエージェントでもありません。ホワイトは、依頼を意識しつつも自分の信念で「モーゲンソー案」を作成しています。

・ソ連が依頼したのは、(独ソ戦を控えて背後から攻められるのを防ぐために)満州から日本軍を撤退させることであり、日米戦争を始めることではありませんでした。

・国務省はモーゲンソー案をベースにしてハル・ノートを作成しましたが、これは国務省の意志として作成したものです。日本に対しては、モーゲンソー案より厳しくなっている部分もあります。

なお、渡部氏は、「満州及びシナからの即時全面撤兵…」と言っていますが、「即時全面撤兵」を要求する文言はハル・ノートにはありません。中国(シナ)からの撤兵はハル・ノート、モーゲンソー案ともに謳っていますが、満州については微妙です。須藤氏は、モーゲンソー案、ハル・ノートともに、満州は撤兵対象外だと解釈し(須藤「同上」,P192)、大杉一雄氏はモーゲンソー案にはふれていませんが、ハル・ノートでは満州も含めて撤兵を要求している、と解釈しています。(大杉「日米開戦への道(下)」,P252-P253)


次項「3.暫定案はなぜ提出されなかったのか」へ続く