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ハル・ノートの謎 (2/3)

3. 暫定案はなぜ提出されなかったのか!?

日米の暫定案

ハル・ノートもモーゲンソー案も、日本軍の中国からの撤退や蒋介石政府以外への支援を中止することが条件になっており、これらは日本がすぐにのめるものではありませんでした。そこで、日本は乙案を提示してこれに望みをかけ、アメリカも暫定的な措置案を提示すべく、準備していましたが、それがなぜか中止になり基礎案だけが日本に提示されました。

下の表は、日本の乙案とアメリカの暫定案を比較したものですが、争点になるのは仏印からの撤兵(乙2/米3)と石油の供給量(乙4/米4)、及び蒋介石政権への援助停止(乙5)ではないでしょうか。これについては、5項で述べます。

図表5 日米暫定案の概要

日米暫定案の概要

出典)大杉一雄「日米開戦への道(下)」,P206-P207,P215-P216

注)赤い字の部分が主な争点


11月25日の国務省

ハルは、軍部の意見を聞きながら暫定案を作成し、11月22日にその素案を英、豪、蘭、及び中国の各大使に提示して、本国の訓令を仰ぐよう依頼しました。24日に各大使はハルのもとに参集して本国の意向を報告しましたが、中国以外は「アメリカにお任せ」の状態でした。中国は印度支那に日本軍が残留することに反発し、暫定案の提出に強く反対しました。

25日、スチムソン陸軍長官やノックス海軍長官など軍首脳を交えた会談が行われました。その場で暫定協定案がどの程度議論されたかはわかりませんが、大統領をはじめ軍関係者の見通しは、「日本がこれを受諾する可能性はほとんどないだろう」でした。

25日夜、ハルは国務省の部下を集めて会議を行いました。出席者の一人は、この時の模様を次のように語っています。

{ 会議の最中に何度かハルが外部からの電話で呼び出され、中座した。呼び出した相手が誰だかは、はっきりしない。… この電話があってから後、ハルは暫定協定案の構想をおしすすめる価値があるという考え方に弱気を見せるようになった }(須藤眞志「同上」,P115-P116)

26日、大統領への報告

ハルは、26日の午前中に大統領を訪問して暫定案を削除した基礎案を提出することを報告し、大統領の許可を受けました。ルーズベルトはもともと時を稼ぐために、暫定協定案に好意的でしたが、後述する26日朝のスチムソンの電話が暫定案廃棄を決意させたのであろう、と須藤氏は述べています。(須藤「同上」,P116)

ハルは、大統領への進言のなかで、暫定案を放棄した理由を「各国の反対」にしています。

{ 中国政府の反対及び英蘭豪政府の冷淡な支持又は事実上の反対に鑑み、また反対が広く周知のこととなった事実、及び暫定協定がとくにもっている広範な重要性と価値とに関する理解の全面的欠如に伴い、 … 右措置が賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが、… 暫定協定案を撤回することを衷心より強く提唱するものである。}(須藤「同上」,P109)

中国やイギリスの反対が原因?

以下、須藤氏の主張を要約します。

{ 中国が猛烈に反発し、蒋介石が多数の電報を打って抗議してきたことは事実だが、ハルはそれに反発こそすれ同情を示していない。それどころか、ハルは中国側の態度に不快の念を隠そうとしなかった。
イギリスに対しては、チャーチルに大統領の名前で説明文を送り、チャーチルからは「中国に対して少し冷たいのではないか」というコメントが帰ってきたが暫定案の手交に反対していたわけではなかった。
オランダは、暫定案に賛成の意向を示していたが、この程度の譲歩ではとうていまとまるまい… というメッセージを寄せている。
このように諸外国の態度がハルを動かしたという形跡は全く認められない。}(須藤「同上」,P109-P111 <要約>)

なお、小谷賢氏によれば、イギリスは仏印からのすべての日本軍部隊の撤退、などハルの暫定案よりさらに厳しい案を提案しています。(小谷賢「日英インテリジェンス戦史」,P215)

日本軍の動きに関する誤報が原因?

11月25日の午後、前述の首脳会談が終ってスチムソン陸軍長官がオフィスに戻ると、陸軍情報部から、「日本軍5個師団が山東や山西から上海に来て、そこで30隻か40隻か、又は50隻の船に乗り込み、これが台湾の南方で認められた」という情報が届いていた、とスチムソンの日記に書かれています。スチムソンはこの情報を電話でハルに知らせ、情報のコピーをルーズベルト大統領に送ったといいます。

しかし、大統領に送ったとされる報告書に記されていた船舶の数や兵力は日記に記載の内容より少なく「通常の行動」という判断でした。スチムソンがハルとルーズベルトにどのような話をしたか判然としませんが、大統領は「すっかり興奮し、烈火のごとく立腹した」とスチムソン日記には書かれている。(須藤眞志「同上」,P112-P114)

小谷氏は、{ 日本陸軍の記録によれば、これは上海から海南島に向かっていた第5師団の先遣隊1万7200人,16隻であり、この程度の規模では武力による南方進出は不可能 }(小谷「同上」,P216) といい、須藤氏も{ 中国本土や台湾から輸送物資がハノイやサイゴンに送られるのは別段珍しいことではなかった }(須藤「同上」,P114) とスチムソン日記の記述に疑問を投げかけます。

それでも、須藤氏は、{ 暫定案が廃棄された経緯についてはまだまだ謎が残されているが、今日、その理由として、スチムソンのもたらした日本軍南下の情報をあげるしかないようである。}(須藤「同上」、P118) と述べ、小谷氏も{ ハルがなぜ暫定協定案を放棄したのかその理由は定かではないが、スチムソンから伝えられた情報が彼の決断に与えた影響は小さくはないだろう。}(小谷「同上」,P217) と述べています。

ルーズベルトの判断!?

大杉一雄氏は、暫定案の提示をやめたのはルーズベルトの判断である可能性が高い、と主張します。その論拠は次のようなものです。(大杉一雄「日米開戦への道(下)」,P236-P241)

・ルーズベルトには、西欧的民主主義の世界的復活という理念があり、それを実現するためには、日独などのファシストを根絶するしかない、と考えていた。

・ファシストを根絶するためには、従来の休戦協定→講和条約締結ではなく、無条件降伏させ、軍事占領により民主主義国家への根本的改革を実施することが必要と考えていた。

・暫定案抜きのハル・ノートを提出したのは、日本がそれを受諾すれば、軍部勢力が後退して自由主義化が期待できる、行動を起こさなければ時間稼ぎとなり、戦争をしかけてくれば無条件降伏方式で行くまで、という計算があったからではないか。

・さらにいえば、ルーズベルトには、ハル・ノートを押しつけても、日本には戦争を仕掛けてくる能力はない、という対日過小評価と、戦争になるとすれば日本から最初の一発を米国領土に撃たせるほかなく、そのために日本を挑発する必要があった。

この主張を裏づける証言や記録のようなものはありませんが、ハル・ノートの提出経緯や25日の動きに対して説得力のある主張です。ただし、暫定案の提出を認めていたルーズベルトが直前になってなぜ翻意したのかについて、大杉氏は様々なケースについて検討していますが、決定的な理由はみつかっていません。

4. ハル・ノートは最後通牒だった!?

受け取った日本の反応

ハル・ノートが東京に着電したのは27日正午前後で、折しも連絡会議を開催中でした。日本側も米英側の外交電報を解読しており、暫定協定案を検討していることを知って、期待感もありました。

しかし、受け取ったハル・ノートを見てその内容の苛酷さに唖然とし、「これは日本に対する最後通牒であり、日本が受諾できないことを知って通知してきたものだ」とし、東郷外相は「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」といっています。また、軍の主戦派は、「交渉もちろん決裂なり、これにて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり めでたく これ天祐とも云うべし」と歓声をあげました。(大杉「同上」,P256-P257)

東郷外相や賀屋蔵相などの和平派を黙らせ、全員に一致して開戦を決意させたという意味でまさに天祐であったのです。戦争に踏み切らせたのはアメリカである、という一種の免罪符のようなものを日本側に与えてしまいました。

{ 政府・軍部はハル・ノートの性格を十分に吟味した結果、戦争やむなしの結論を導いたのではなく、内容が日本の主張とかけ離れているという、多分に心理的な反応としてあたまからこれを拒否してしまったのである。}(須藤「同上」,P177)

ハル・ノートを受電する前日の11月26日朝8時、択捉島の単冠湾から機動部隊はすでに発進していました。(もちろん、妥結すれば戻る、という前提で)そして、12月2日夕刻、攻撃を指示する「ニイタカヤマノボレ」が打電されたのです。

ハル・ノートは最後通牒!?

ハル・ノートの正式名称は「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」といい、「仮案にて拘束せられることなし」との断り書きが添えてあることから見ても、正式なアメリカ政府の提案ではなく、ハル国務長官の覚書とでもいうべき「ノート」だった。(須藤「同上」,P174)

確かに、ハル自身もルーズベルトも、日本がこれを受け入れる可能性はほとんどなく、戦争に突入する可能性があることは意識していましたが、暫定案が示すようにこの条件すべてを即座に受け入れなくてはならない、と考えていたわけではありません。もちろん、妥結の期限もつけていません。

日本の甲案乙案こそ最後通牒!

東郷外相は、アメリカ駐在の野村大使に甲案乙案を送る際、つぎのようなコメントをつけています。

「本交渉は、最後の試みにして我が対案は名実ともに最終案とご承知ありたく、これをもってしても妥結に至らぬときは、遺憾ながら決裂に至るほかなく、その結果両国関係が破綻するのはやむをえない」(須藤「同上」,P92(読み易くするため現代文に要約)

さらにアメリカに提示するときの注意として、「タイムリミットをつけるなど、最後通牒的態度はとらないようにすること」(須藤「同上」,P93) と付け加えており、これは最後通牒と同等のもの、と須藤氏は判断しています。

{ 東郷外相の真意は別として、客観的には日本側の文字通りの最終案だったのであって、それが拒否されれば戦争ということは、その時点では既定の方針であったものと思われる。それゆえ、「日本が最後通牒をつきつけた」という表現に誇張はあるにせよ、実態はそれにかなり近いものだったといえるだろう。}(須藤「同上」,P94)

5.もし、暫定案が提示されていたら…

大杉氏の予測

アメリカがもし暫定案を提示していたら、日本はどう動いただろうか、大杉一雄氏は次のように予測しています。

{ 肝心の石油の要求量が乙案で米国から400万トン、蘭印から300万トンであったのに対し、暫定協定では民間用のみ、スズメの涙のような量であり、血気にはやっていた当時の軍部が3か月の期限付きのこのような協定を受け入れることは困難だったろう。
ただし、東郷は行動を起こしただろう、東条も東京裁判で「暫定案を出されたら、事態はよほど変わってきています … 」と述べている。戦後の言葉だから評価は難しいが、… 彼はギリギリのところでは和平を求めようとしていた。米国が形の上でも日本のメンツをたててくれれば、乙案を譲歩しスズメの涙でも食いついたかもしれない。
筆者としては、東条が暫定協定に対し条件交渉を行い、即戦態勢に入らなかった可能性もあると考える。}(大杉「同上」,P219-P220)

妥結のためには…

暫定案が提示された場合、アメリカとしては仏印から日本軍が撤退することが最低の条件になるでしょうが、乙案では南部仏印から北部仏印への移駐を認めているだけです。もし、仏印から全面的に撤退するのであれば、十分な量の石油の供給と援蒋ルートの遮断(乙案No.5)がなければ、メンツは立たないと思われます。

アメリカは石油の供給量をある程度増やすことには同意しても、蒋介石政府への援助を停止する可能性はほとんどないでしょう。したがって、暫定案が提示されたとしてもメンツを立てた上で、開戦を中止又は大幅に延期する可能性は極めて小さいと思われます。メンツをある程度つぶしてでも合意したかどうかについては何ともいえません。

図表5(再掲) 日米暫定案の概要

日米暫定案の概要

次項「6.日米のパーセプション・ギャップ」へ続く