さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
『アニマル横町』、好きなのよ。漫画版もアニメ版もさ。
基本的に少女漫画は微妙に苦手なのだが、面白いことにギャグまんがだけは別である。少女漫画の一部のギャグまんがには、私と波長が異常に合うものがある。なぜか少年漫画にはないハマりかたをしてしまう。
そして、今のところの私のお気に入りの一つが、前川涼『アニマル横町』である。小学館漫画賞を受賞しアニメ化もされ絶好調なので、ご存知の方も多いだろう。
ただし、本稿では、『アニマル横町』そのものを論じることはしない。キャラクター論の実例のひとつとして使わせてもらう。
基本的な設定を紹介しておこう。
五歳の幼稚園児あみの家にあるヒミツの扉は、異次元にある動物たちの暮らす町「アニマル横町」に繋がっている。
その「アニマル横町」からいつも彼女の部屋に遊びにやってくるのが、パンダのイッサ、ウサギのイヨ、クマのケンタの三匹。この一人プラス三匹が、『りぼん』らしからぬ濃ゆいコントを延々繰り広げるわけだ。
さて、我々が着目したいのは、第二巻巻末のあとがきの記述である。第二巻には種村有菜との競作のおまけがついているのだが、その際の会話が紹介されているのだ。以下のようなものである。
種村「ねーねー涼くんー」
前川「んー?」
種村「ずっと思ってたんだけど、イヨって絶対ケンちゃんのこと好きだよねー」
前川「は…は!?」
種村「ホラ好きだからいじめる?みたいな」
前川「い…やー…、それは絶対ないと思うよ…?」
種村「そんな事ないよーあれはLOVEだってー」
前川(想像中)
前川「いや…やっぱないよ…それは」
種村「?」
種村解釈の評価はさしあたり問題ではない。問うべきは、この対話をどのように理解すべきか、ということだ。
まず、種村有菜の発言が、私の定義するところの「妄想」であるということを確認しておきたい。また、このような主張が可能であるということは、『アニマル横町』の「キャラが立っている」ということに支えられている。これもいいだろう。
さて、ここで第一に注目すべきは、妄想が「このキャラは実はこうだよね」という、キャラについての解釈になっている、ということである。妄想はたんに新しいエピソードをキャラに付け加えるだけのことではない。新しいエピソードを付け加えることにより、オリジナルの物語の解釈も変わってくる。妄想とは、作品ないしはキャラについて一定の解釈を打ち出し、より深い読解を試みる営みでもあるのだ。
第二の、さらに重要な注目すべき点は、このようなキャラクターの理解において、作者がそれほど特権的な力をもっていない、ということである。
種村解釈に、作者である前川涼は首を捻る。しかし、作者であるにもかかわらず、「い…やー…、それは絶対ないと思うよ…?」という歯切れの悪い否定しかできない。また、重ねて「いや…やっぱないよ…それは」と言うためには、作者であるにもかかわらず、改めて想像をしてみなければならないのである。
このあたりの雰囲気は、「キャラが立つ」という現象の一つの側面を見せていて面白い。「キャラが立つ」ということは、そのキャラが作者にも見通せないような面をもつことを、作者自身さえも認めざるをえなくなる、ということを意味するのである。
さて、指摘したいのは、このような事態を理解するにあたり、「オタク道補論・二次創作の倫理」で提示した「キャラクターは公共財である」というテーゼを参照することができる、ということだ。
作者ではない人間の妄想も一定の説得力をもちうる、という直観は、きちんと立ったキャラクターはある意味で作者の手を離れてしまう、ということを示唆する。そして、同様の事情を我々はすでに「二次創作の倫理」において確認しているのである。
さすがに直結しているとまでは言えないだろうが、キャラの理解の場面と二次創作の場面とを、連動させて考えることできるのだ。
このような妄想中心主義の立場に先鋭に対立するのが、公式設定中心主義とでも言うべき立場であろう。
公式設定中心主義者は、キャラや世界観の規定について、必ずどこかに正解が存在し、また、その正解には作者あるいは著作権者のみが特権的に接近できる、と考えるのである。
別に合っている間違っているという問題ではないのだが、どうも私にはこちらの発想が合わない。
どこか公式設定中心主義的な読みを強制してくるタイプの作品も、嫌いとは言わないが、なんだか苦手だ。永野護『ファイブスター物語』とか『ガンパレード・マーチ』とかが例となろうか。
公式設定中心主義はオタクの採るべき態度としては受動的にすぎるような気がするのだが、どうだろうか。
ついでに種村解釈を別の角度から考察しておこう。
前川涼はたまに擬人化版の三匹を描くのだが、これを見るとなんだか私も種村解釈に説得力を感じてしまったりする。
考えてみれば『アニ横』の笑いはかなり暴力的で毒がキツい。その毒を、キャラを可愛いぬいぐるみ的な動物にすることによってオブラートに包んでいるわけだ。
ところが、擬人化したとたん、ボケツッコミの過激さが人間(?)関係の濃さとして現出してくることになる。あれほど強烈なボケとツッコミを構成できるのであれば、濃い関係があるはずだ、というように。このあたりに種村解釈の説得力の根があると考えられる。
一部の腐女子の方々が漫才コンビでやおいを妄想するキモチが少しだけわかった気がした私であった。
本日が『りぼん増刊どき☆どきアニマル横町』の発売日だったので買ってきたのだが、やはりそこここに首を傾げてしまうような(褒め言葉)ネタが見つかる。
最初に述べたように私は少女漫画誌の現状をよく知らないのだが、『りぼん』読者に火サスやらアミバやらずうとるびやらといった昭和テイストなネタが本当に通じているのだろうか。不思議で仕方がない。