眼鏡とコンタクトレンズの対立を再考する

 眼鏡っ娘を愛するのであれば、コンタクトレンズを憎まねばならない。
 これはある意味正しい。
 たとえばコンタクトレンズ会社のCMなんかでは、眼鏡を外せ、コンタクトをつけろ、という洗脳キャンペーンが繰り広げられているわけだが、そういうのを見ると不愉快になるのは人としてまあ当然のことである。
 しかし、だからといって、コンタクトは駄目、眼鏡はよし、と鸚鵡のように繰り返すのもどうかと思うのだ。
 眼鏡っ娘萌えとはもう少し繊細なものである。コンタクトも使いようによっては、眼鏡のよさを引き出す道具になりうるのだ。

 私が非常に高く評価するのは、『ゆめりあ』吾妻みづきの眼鏡である。
 彼女は普段はコンタクトレンズを着用している。しかし、家に帰って勉強するときは眼鏡をかけるのだ。そして、たとえば一緒に勉強しよう、という場面において、眼鏡をかけてくるのだよ。
 これが素晴らしい。
 みづきという女の子にとっては、「眼鏡姿こそが気を許した相手の前だけで見せる彼女の素顔」なのだよ。そして、その「眼鏡をかけた素顔」を僕の前で、僕の前だけで見せてくれるのだよ。
 うわ、ヤバ。これにはヤられる。吐血モノの萌えである。
 考えてみれば、魅力にあふれた眼鏡姿を他の男どもの前で見せる必要などはない。いつもはコンタクトでまったくかまわない。普段眼鏡を着用せず、コンタクトを使用しているからこそ、吾妻みづきは究極の眼鏡っ娘エピソードを展開できたのである。

 コンタクトだけしか認めない、という立場はもちろん論外である。しかし、ただ眼鏡をかけさせておけば眼鏡っ娘、という立場も浅いのだ。これからの眼鏡っ娘萌えは、コンタクトと眼鏡とのTPOに応じた付け替えを丁寧に読み解いて萌えていくべきだ、と私は考える。

 佳作、チュアブルソフト『Pure×Cure』の吉野みずきもコンタクトと眼鏡を付け替える。
 このあたりの呼吸、けっこう上手く描けている。「こういうおしゃれをしたいときにはやっぱりコンタクトをつけたい」という乙女心がちゃんと読み取れるので、ときどき見せるコンタクト姿も理解できるのだ。というか、理解してやらねばいかんなあ、と思えるのだ。
 そして、それがあるからこそ、「あ、やっぱりこの娘は眼鏡のほうが可愛いなあ」としみじみ思うことができる。最初から最後まで顔に張りついたように眼鏡をかけているキャラについては、このような萌ゆる想いは成立しえないだろう。
 この他にも、『Pure×Cure』にはよい眼鏡シーンがいくつかある。コンタクト使いが上手い作品は、眼鏡使いも上手い。
 ずっきーが眼鏡を壊されて泣くシーンもいい。やっぱり眼鏡っ娘にとって眼鏡は大事だよなあ。
 朱雪梅もラストで「視力が落ちたから本を読むときだけ」眼鏡をかけてくれる。眼鏡はかけたりはずしたりできるものである、そして、なにか理由があってかけるものである、という眼鏡の原則をきちんとわかっているエピソードだ。素晴らしいね。

 漫画にもちょっと触れておこう。『ぱにぽに』における氷川へきるの眼鏡使いはかなり上手いのではないか。氷川へきるの眼鏡は、きちんとかけたりはずしたりできるものである。
 ベッキーはたまに眼鏡。橘玲はバイトのための伊達眼鏡。上原都は最初はコンタクトも併用していたのに、なんか全般的にだらけてきて眼鏡を常用するように。ベホイミは「マキシマムダサい」と言われつづけて地味な眼鏡っ娘に落ち着く。
 どれも「眼鏡っ娘キャラだから眼鏡をかけさせました」という安直な眼鏡のかけ方をしていない。眼鏡をかけるに至った理由や文脈がきちんとある眼鏡っ娘なのである。
 そして、こういうちゃんとした眼鏡っ娘描写を普段から積み重ねているからこそ、あの「委員長委員会」の眼鏡っ娘濫発ネタが引き立つわけだ。
 氷川へきるは、眼鏡をよくわかっている。

 コンタクトレンズから少々話が流れてしまったので、最後にまとめを。
 コンタクトをなぜ脊髄反射的に否定すべきではないのか。
 それは、コンタクトと真摯に対決することにより、眼鏡のかけはずしのダイナミズムが生まれるからだ。
 かけはずしのダイナミズムにこそ、眼鏡っ娘の魅力がつまっている。そして、逆に言えば、このダイナミズムにたいする感受性さえあれば、コンタクトなぞは恐るるに足らないのである。
 眼鏡っ娘は永久に不滅なのだから。

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