さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
『人造人間キカイダー』1972年特撮版のDVD箱が発売された。この機会に、『キカイダー』について少々語ってみたい。
ただし、中心的に扱うのは、特撮版ではない。石ノ森章太郎の漫画版を核に据えて論じていくことにする。漫画版、私が思うに、石ノ森章太郎の最高傑作である。
この漫画版に、特撮版、そして、岡村天斎が監督したアニメーション版を適宜対照させて、論を進めていくことにしたい。
ということで、以下、ネタバレが多く含まれることになるので、注意されたい。とりわけ漫画版のラストは白紙の状態で読まないともったいない伝説の名シーン。私もすさまじい衝撃を受けた。漫画版『キカイダー』未読者には、絶対に本稿の先を読まないことを強く推奨する。
漫画版は深い。非常に重要な哲学的テーマが二つも組み込まれている。
まず第一に心の哲学である。人造人間という存在を描くことをつうじて、人間とは何か、とりわけ人間の心とは何かを問う。これが漫画版の出発点をなしている。
そして、この主題が展開する。第二のテーマは、倫理学である。人間の心とは何か、という問いが、人間はいかにして善を知り悪を知るのか、という問いへと展開していく。そして、この問いにラストで一定の答えが与えられるわけだ。
とんでもなく根源的な問いである。さらに、これらの問いに石ノ森章太郎が与える答えがまた素晴らしく深い。
以下、具体的に見ていこう。
人間とは何か。人間の心とは何か。この問いは哲学の歴史において何度も繰り替えされてきたものである。
漫画版は、この古典的問題を、機械(コンピュータと言い換えてもいい)という他者との対比により、考察する。
つまり、「どのようなことができる機械ならば、人間と同じような心をもっている、と認めてよいのか」という問いから、「人間の心とは何か」ということを考えていくわけだ。これが漫画版の基本戦略である。
実は、このような戦略は、現代哲学の流れに棹さすものである。1950年のテューリングの「計算機械と知性」などを参照されたい。ただし、石ノ森章太郎の考察は、テューリングなんぞよりはるかにセンスのよいものである。
石ノ森は、道徳的な行為をできるかどうか、に心の本質を置くのである。
人間の心とは、善と悪とを知るものなのだ。
さて、このように規定するならば、続いて以下のような問いが生じてくるのは必然である。
すなわち、善とは何か。悪とは何か。
というわけで、漫画版『キカイダー』の物語の焦点は、良心回路とその欠陥へと絞られていくのである。
道徳的な善とは何か。これまた哲学の歴史において最も重要な問いの一つである。
この問いに、漫画版は、キカイダーの良心回路の不完全さとは何か、ということを突き詰めていくことにより、答えようとしている。
漫画版の思想を私なりにまとめるならば、以下のようになろうか。
不完全な良心回路は、コレが善いことでアレが悪いことだ、という道徳的なルールに盲目的に従うだけである。
不完全なジロー=キカイダーは、正義を行う。しかし、それは、ただ盲目的にプログラムされた正義を行っているだけなのだ。
そのため、不完全な良心回路は、別のルール、別のプログラムの割り込みを受けた場合、そちらにも盲目的に従ってしまう危険性をもつ。
言うまでもないが、この割り込んでくる命令の象徴が、プロフェッサー・ギルの笛の音なのである。
では、良心回路が完全であるためには、どうすればいいのか。自ら自覚的に善を、正義を選び取る、という契機がなければならないのだ。
しかし、だ。ここからが重要だ。
自覚的に善を選び取ることができるためには、悪を行うことができなければならないのである。悪事を行う可能性をもつからこそ、善をあえて選ぶ、ということに意味が出てくる。
つまり、善を知るためには、悪を知らなければならないのだ。
そしてまさに、漫画版のラストで、悪の心、服従回路を埋め込まれることで、キカイダーの良心回路は完全になるのである。
人間の心も同じだ。悪の契機なくして善の契機はないのだ。
人間の心とは、つねに悪の可能性に苦しみながら、善を希求していかねばならないものなのである。
なんだこれは。深い。深すぎる。原罪や根源悪といった概念にもつうじる、超一級品の哲学的思索である。
岡村天斎のThe Animationは、しばしば「特撮版ではなく漫画版に忠実な」という形容詞で語られる。
しかし、私に言わせれば、この説明は間違いである。アニメ版は、デザインこそ漫画版を忠実に踏んでいる。しかし、根本的な思想については、漫画版とまったく異なっているのである。
アニメ版は、そもそも、人間の心の本質をどこに置いたか。
明らかに、道徳的な行為ができること、に置いていない。感情をもつこと、そして、成長していくこと、に置いているのである。出発点からしてまったく違うのだ。
それゆえ、アニメ版においては、漫画版の核心をなしていた善悪の根拠についての哲学的考察はまったく見られない。
その代わり、ジローと周りの人々、とりわけミツコとの間の感情の細やかなやりとりが主題になってくる。そして、人ならざる異形の姿に生まれついた人造人間の苦悩が前面に押し出されてくるのである。
このようなメロウな雰囲気を強調する方向性は、漫画版のものと解すべきではないだろう。特撮版のほうとの共通点のほうが多いのではないか。漫画版にこの要素がないわけではないが。
この線での解釈を支える重要な論点を付け加えるならば、特撮版にもアニメ版にもともに、ミツコがらみの人間くさい感情からジローが良心回路の完全化を拒否する印象的なシーンがある。両者とも、良心回路が不完全であることがジローの人間らしさを強調する、という逆説的な構図をもっているわけだ。特撮版のラストシーンもそうだ。自らの不完全さを受け入れて生きることをジローは選択するのである。
これはこれとして文学的で興味深い発想ではある。
しかし、既に述べたように、漫画版の思想はまったく異なる。漫画版では、良心回路は完全になる。それにより、ジローは人造人間としての苦悩からは解放される。しかし、その代償として、人間の心という、より重い十字架を背負うことになるのだ。漫画版については、こちらの線を重視して評価すべきである。
というわけで、私は、アニメ版は、漫画版のデザインで特撮版をリメイクしたもの、と解釈したほうがよい、と考えている。
石ノ森章太郎の『人造人間キカイダー』漫画版は、とにかく思想的に桁外れに深い。
しかし、これは、特撮版、アニメ版が劣っているということを意味しない。漫画版のラストはハードすぎて詩的なニュアンスが少ない、と言うこともできるからだ。どれもそれぞれ独自の魅力をもっているのである。
語り残したことも多い。
特撮版の、安藤三男のプロフェッサー・ギル。悪の美学。素晴らしすぎる。
アニメ版の、電磁エンドの高周波ブレード描写。カッコよさに鳥肌が立つ。
そして、ハカイダー。
まあ、これらはいつか別の機会に、ということで。
私もいつか赤いギターを高いところで弾き鳴らしてみたいものである。