さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
『バルドフォース』のDC版が発売された。いまどきDCとは。最初に情報を耳にしたときにはデマとしか思えなかったのだが、売ってたよホントに。
仕方がないので購入した。でも、ハードの再設置はやはり面倒。シュミクラムのフィギュアと、半分パンツのずり下がった憐とバチェラのテレカと、二つのおまけを両手にもち、交互に眺めて終わり。
ただまあ、それだけではなんなので、せっかくだから少々コメントするぜ、と相成ったわけである。
ちなみにネタバレを含むので、注意されたい。
『バルドフォース』の魅力が、まずもってそのアクションゲームとしての出来の良さにあることは言うまでもない。しかし、それだけではない。シナリオが燃えの観点からして、非常によくできているのだ。これを見落としてはならないだろう。
そもそも、燃えるゲームのシナリオには、何が求められているのか。
いままで見たことのないようなストーリー展開ではない。これを強調しておきたい。普通のノベルであれば、これは売り文句になる。しかし、燃えゲーに要求されているのは、このことではない。
なぜ我々はゲームで燃えたいのだろうか。漫画読んだりアニメ観たりして燃えるのでは足りないからだ。何が足りないのか。
断言しよう。一人称視点である。他ならぬこの私がヒーローの位置に立てるのは、ゲーム以外にはないのである。
かくして、燃えゲーのシナリオに、まず第一に求められているのは、以下のことだと言えるのではないか。
いつか観たあの燃えシーンを一人称視点で堪能させること。これだ。
というわけで、『バルドフォース』である。
各ヒロインのシナリオに、これでもかというベタベタなシチュエーションを設定してくれている。
そのベタな状況のなかに、一人称視点で没入できるのだ。これは堪らない。燃える。燃え上がる。
彩音ルートのラストバトルの、胸を引き裂かれるような「どうしてこんなことになってしまったのだ」感の素晴らしさ。ベタベタだ。しかし、これをまさに一人称視点で体験したかったのだ。
月菜ルートもよい。「どうしても、どうしても彼女だけは俺が守らねばならない」という思いが利用され、狂わされていく。しかし、その思いを貫くことでの逆転勝利ですよ。これまた一人称視点で体験したかったドラマであった。
リャンルート、情感深くて大好きだ。運命の悪戯ですべてが失われていく。どうにもならない。しかし、たった一つだけ、最後にかけがえのないものを手に入れるのだよ。お約束だ。しかし、そこがいいのだ。
バチェラルートもなかなか。やっぱりね、孤独な少女に向かって、俺だけはお前の味方だ、と言ってみたいじゃない。そして、その約束をきちんと守りとおしてみたいじゃない。漢の浪漫ここにあり。
憐ルートはもう、あそこしかないでしょう。「主題歌をバックに、ただ一人の女のためだけに、無数の敵のド真ん中に殴りこみ」。これだ。あそこで初めてI'veの"Face of Fact"を聴いた瞬間の、全身に鳥肌が立つような燃え感覚は忘れられない。
・・・ごめん、みのり、君については思いつかなかった・・・。
このように、『バルドフォース』においては、すべてにおいて徹底的に「かつてどこかで観たような燃えシーンの反復」が追求されている。それがいい。変に新規さを求めていないところが正しいのだ。このへん、卑影ムラサキの自制心を褒めたい。よくわかっている。性的嗜好にはあんまり共感できないけど。
そして、繰り返しになるが、それが、まさにこの私を主人公として展開されていることがミソ。さらに、アクション要素のおかげで、一人称視点への移入感が単なるノベルゲーの比ではない。
ああ、これは大変よいものだ。燃える。素晴らしい。
さて、こういう風に論じると、『バルドフォース』のシナリオにオリジナリティはないのか、なくてよいのか、という疑問が当然出てくるだろう。これについて簡単に答えておきたい。以下は、ゲームだけでなく、あらゆるジャンルに共通する燃え理論の素描である。
まずもって、オリジナリティを至上のものとする価値感そのもの考え直すべきである。
芸術を、それもクラシックと言われるジャンルのものを考えてみたまえ。「ブラームスを何度も演奏しているなんて、オリジナリティがなくでダメだ」と言う人がどこにいる。「シェイクスピアを何度も上演するなんて、オリジナリティがなくてダメだ」と言う人がどこにいる。歌舞伎でも落語でもバレエでも何でもそうだ。クラシックな芸術においては、まさに古典を繰り返すことに意義があるのだ。
そう、燃えはクラシックなのである。何が燃えるシチュエーションなのか、は、もう決まっている。それを崩してはならない。崩したら燃えないのだ。このへんの事情については、「オタク道補論・妄想の二つの原理」なども参照していただきたい。燃えはジャンルの理念に統制される。それゆえに、燃えは本質的にベタなお約束の繰り返しに基づくことになる。同一の理念を目指すかぎりにおいて、作品の形式に統一性がでてくることになるのだ。
では、燃えにはどこにもオリジナリティがないのか、というと、そうではない。クラシック音楽と同じように、演奏者の解釈やアレンジに独自性が出る。その微妙な差異を読み取って楽しむのが燃えなのである。
そこんとこ判っていないと、パクリだ何だと的外れな批判をしてしまう。これは恥ずかしい。同じ曲でも指揮者によって違いが出ている。それを聴き取れない自分のセンスのなさを暴露しているだけだ。
燃えにおいては、表層的な類似性の指摘は有効な批判にならない。解釈の深浅、アレンジの巧拙が問われねばならない。
違いがわかる漢だけに、燃えの扉は開かれるのである。
というわけで、私は『バルドフォース』が大好きである。思い返していたら再度やりたくなってきた。そのうちPS2でも出たりするのだろうか。また買ってしまいそうだ。
人気を博したゲンハというキャラクターの造形に言及できなかったのが心残りである。