さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
私はお姉さんが大好きである。ということで、「姉萌え憲章」なる文章において、姉萌えについて考察してみたわけだ。
基本的には、私の立場は変わっていない。
しかし、一部だけ、よくないかなあ、と思える点が見えてきた。そこで、ちょっとここで補足しておきたい。
憲章の3に「弟への注意点」と題した一節がある。全文ここにも引用しておこう。現在の憲章は一部改訂版なので、これとは少し異なっている。注意されたい。
「お姉さんには弟がいる。弟あってのお姉さんである。ここから次のことは明白である。弟がきちんと弟として成立していないと、お姉さん萌えは阻害されてしまうのだ。ありがちな落とし穴として指摘したいのは、お姉さんをお姉さんらしくしようとするあまり、弟がダメ人間化してしまう、という事態である。これでは本末転倒。人間的に魅力のない弟は、お姉さんの光をも翳らせてしまうだろう。
弟よ、お姉さんに相応しい漢たれ。」
以上の記述は、まあ間違っているわけではないのだが、ちょっと舌足らずかもしれなかった。
弟のダメさヘタレさには、種類がある。
姉の魅力を引き出すようなダメさは認めてもよい。
これを強調するのを忘れていた。
そのうえで、この「よいダメさ」を追求するあまり、我々の思い入れすら阻害するような、素のダメ野郎になってしまったら元も子もないよ、と。こう書くべきであった。
こう表現してもいいだろう。「お姉さんに相応しい漢」ということのなかには、「愛すべきダメさをもつ」ということが含まれているのである。
では、弟のよいダメさを強調する必要はどこにあるのか。
昨今のつまらぬ萌え系作品には、ダメ人間だけどなぜかモテモテ、というようなシチュエーションが氾濫している。これは気に喰わない。人間的魅力のないヤツに薄っぺらな造形のビショウジョが群がるお話など、飽き飽きだ。
しかし、一方で、見るからにステキなヤツが、見るからにステキだからモテモテ、というお話も、あたりまえすぎてつまらんのである。合理的理由に貫かれたモテ話なぞ面白くもなんともない。
ダメさがダメさなりの魅力をもって愛される様、これを描いてこそ、ラヴはコメるし、萌えは羽ばたく。枯堂夏子の詞の一節を借りるならば、「大好きよ 強くなくても/大好きよ がんばらなくても」となろうか。
これは一般的な原則と言えるだろう。当然、弟にも、これは当てはまる。弟は、愛すべきダメさをもたねばならないのである。
さて、弟は、とりわけ愛すべきダメさをもちやすいと思われる。
弟がもつ弟ならではのダメさは、ダメさでありながら、そのキャラの人間的魅力をあまり低下させることがない。なぜか。「だって弟だからしょうがないJAN」という言い訳が使えるからだ。「姉の威光の前では弟は永遠にダメ」、これはもう宇宙の法則世界の基本であるから。
であれば、弟ならではのダメさは仕方のないことであって、弟の責任ではないことになる。それゆえ、ダメさでありながら、人間的魅力の欠如を意味しないのである。
こういうわけで、弟は良質の「愛すべきダメさ」を備える可能性をもつ。これは、弟という存在が、ラブをコメらせやすい、萌えを成立させやすい、さらには、相手方たる姉の愛と魅力を最大限に引き出しやすい、ということを意味する。これは、たとえば妹にとっての兄にも幼馴染にもない特色である。姉にとっての弟のみに成立する特殊な優越点なのだ。
かくして、萌えについての一般理論に照らして、姉萌えの優越が明らかにされた。姉はやはり素晴らしいのである。
最後に謝辞を。
以上の拙い私の考察は、きゃんでぃそふとの快作『姉、ちゃんとしようよっ!』および『姉、ちゃんとしようよっ!2』に示唆をうけてのものである。
ネタをバラせば、元は「柊空也論」であった。しばしば空也はヘタレ主人公として言及されるが、彼のヘタレさはあくまで弟としてのヘタレであると思われる。だからヘタレさがそれほど気にならないのだ。『姉しょ』シリーズには姉しか出てこないのでわかりにくいのだが。
ということで、柊家と犬神家のお姉ちゃんたち、アイディアをどうもありがとうございました。