さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
私は眼鏡っ娘が好きである。原理主義者というほどではないが、眼鏡者の末席を汚させていただいている。
眼鏡者に対しては、「なぜ眼鏡なのか」という問いが常に突きつけられる。これに私は拙稿「屈折理論」において一定の回答を示しておいた。本稿は、この屈折理論を、具体的な眼鏡っ娘に即して展開するものである。
以下、登場順に、「To Heart」、「サクラ大戦」、「トゥルーラブ・ストーリー」、西川魯介『屈折リーベ』、「シスタープリンセス」、梅川和美『ガウガウわー太』、「家族計画」、今野緒雪『マリア様がみてる』、「True Love Story; Summer Days, and yet...」、「ときめきメモリアル」について複数のネタバレが展開されるので注意されたい。
なるべく最近のメジャーな作品を挙げようと試みたが、少々ゲームに偏りすぎたかもしれない。
屈折理論を要約しておこう。
眼鏡は、その眼鏡っ娘の内面を象徴していなければならない。これは、顔にだけでなく、心にも眼鏡がかけられていなければならない、ということを意味する。
眼鏡のレンズは屈折する。すなわち、眼鏡っ娘は、以下のような屈折をもつことがある。
第一に、世界認識が屈折する。簡単に言えば、感性が特殊である。
第二に、自己表現が屈折する。本音を隠している。ないしは、人前では見せない顔がある。
第三に、自己理解が屈折する。自分が他人に好かれると思っていない。
そして、眼鏡っ娘萌えとは、このような屈折にもかかわらず、否、このような屈折ゆえに、眼鏡っ娘を愛するのである。
これが屈折理論である。では、以下、この理論を参照しつつ、眼鏡っ娘を具体的に分析していこう。
「To Heart」の保科いいんちょは、非常に度の強い第二屈折、すなわち、自己表現における屈折をもつ。ガッチガチの堅い殻に閉じこもり他人を拒否するほどまでに至っているわけだ。これはもう誰の目にも明白であろう。第一屈折、第三屈折はそれほどではない。第一屈折は、関西人属性が代替していると思われる。第三屈折は微妙か。どちらも、それほどキツくない。やはりいいんちょは第二屈折の人である。
「サクラ大戦」は紅蘭の登場である。紅蘭解釈は少々難しく、一部オリジナルの「サクラ大戦」に妄想を入れて再構成しなければならない。
第一屈折、感性が特殊である、という点については、発明家属性を指摘するだけでよいだろう。明白である。
第三屈折については、「サクラ大戦2」を想起されたい。メガネ、そばかす、くせっ毛で、自分はあんまり美人じゃない、というのが紅蘭の自己認識である。まあ凄い美女ではないにしても、愛嬌があって結構可愛いのであるが、当人は屈折して気づいていないのである。
第二屈折はちょっと読み込みが必要である。以下は、私の妄想による補完が半分である。
紅蘭はトラウマ女である。紅蘭は、「サクラ大戦」全キャラのうちで最も重い過去を負っている。幼児期に戦火の只中を彷徨っているのだ。紅蘭の本当の性格は、とにかく暗く不安定で内向的、徹底的に鬱なのである。部屋に籠ってコツコツ機械を組んでいるのが好きなネクラ女。これが紅蘭というわけだ。
では、紅蘭のステロタイプでつまらない明朗快活な言動は、どう解釈すればいいのか。こうだ。ネクラなるがゆえに、紅蘭はとにかく対人関係に気を遣う。相手の機嫌を損ねないように予防線を張って人と付き合うわけだ。これが紅蘭の空回りする明るさの正体である。誰からも嫌われないためにピエロを装っているのだ。
ただし、大神一郎登場後は、これにもう一つ別の理由が加わる。自分勝手な連中揃いの帝都花組をムードメーカーとして裏方からまとめあげ、大神隊長の苦労を減らそう、というわけだ。けなげな乙女である。
こう解釈すると、紅蘭は非常に度の強い第二屈折をもつことになる。先に指摘した第一第三屈折と合わせ、まさにパーフェクトに屈折理論を体現した、クイーンオブ眼鏡っ娘ということになる。
ただし、以上はあくまで私の妄想。脳内「サクラ大戦」である。悲しいことに、本物の「サクラ大戦は」もっと浅薄。紅蘭を語る私の口調がいまひとつ乗り切らないのは、そのせいである。
「トゥルーラブストーリー」の二人の眼鏡っ娘のうちの一人、春日さんである。第一屈折についてはいいだろう。そう、くそ真面目で倹約家の風紀委員、春日さんは変な女の子である。
第二第三屈折についてはどうか。なかよし度あこがれ度最高レベルでのイベント「あなたが優しくするから・・・」を思い出してもらいたい。自分の進む道を自分で決め、迷いなくそこに邁進する春日千晴。ところが、放課後の教室でぽろりと口をつく本音が、自分は「嫌な女」で「男の子からみてかわいくない女」であるとの自己認識だ。これはよいものだ。第二屈折、人前では見せない本音の存在と、第三屈折、自分が他人に好かれると思っていない、を同時に表現した、屈折理論のお手本のようなイベントである。
三屈折がピタリと揃い、これを受けて、ゲームはエンディングへと雪崩れ込んでいくわけだ。
私の眼鏡についての考察は、西川魯介の著作に多くを負っている。となれば、言及しないわけにはいくまい。『屈折リーベ』の大滝篠奈である。感性は変である。性格は素直ではない。秋保少年とこじれて「恋なぞ柄ではなかったのだ」と泣くあたりの自信のなさもある。三屈折がきれいに揃っている。
言うことなしの屈折眼鏡っ娘である。
「シスタープリンセス」の鞠絵である。もちろんマイシスターである。
鞠絵については、第一および第二屈折の要素はあまり見られない。特徴は、第三屈折にある。鞠絵以外の全妹は、兄に愛されるのを当然のことと思っているフシがある。ところが、鞠絵だけは、どこまでいっても微妙に兄上様に愛され慣れない。これは、典型的な第三屈折である。そこがまた全国の兄上様の琴線に触れるのだ。
「シスプリ」そのものにはちょっと距離をとる私であるが、鞠絵はよい眼鏡っ娘として評価している。
註) 鞠絵ほどではないが、実は鈴凛もゴーグルの分だけ第三屈折をもつ。鈴凛の「おこづかいちょうだい」は、甘え下手の裏返しである。アニキに甘えるのに、なにか理由をつけなくてはいられない不器用さ臆病さを見て取らねばならない。ちなみに鈴凛がマイシスター二番手である。
言わずと知れた、梅川和美『ガウガウわー太』の委員長。屈折理論の教科書のような眼鏡っ娘である。
三屈折のどれもが非常に度が強い。
第一屈折は判りやすい、センスは変だ。
第二屈折および第三屈折については、現時点での最新刊、単行本九巻を参照されたい。本音すなわち恋心を隠しすぎて、太助に好意すら気づいてもらえない。第二屈折である。恋敵のみさと先輩を初めて目撃、「あの人がみさとさん」「社の好きな人」「やわらかそうな長い髪」「華奢で綺麗な人だった」と思い出しつつ、鏡で自分の顔を見る。そして、苦笑して、「何をやっているのだ私は、全く馬鹿馬鹿しい」との独白である。ディ・モールト、素晴らしい。これは第三屈折以外の何ものでもない。
尾田島淳子は、屈折理論の完璧な体現者の一人なのである。
エロゲーからは「家族計画」大河原準を挙げておこう。準もほぼ完璧な屈折理論の体現者である。準シナリオは、第一第二第三屈折の大盤振る舞いと言えよう。
ただし、準の眼鏡の屈折はあまり目立たない。理由は二つある。一つには、眼鏡の象徴としての屈折で片付けるには、シナリオがちょっと重すぎる、ということがある。泣きのシナリオ性が、萌えのキャラ立て読解を制限しているのだ。もう一つには、「家族計画」の他のキャラが、眼鏡なしで屈折しまくっている奴らばかりだ、ということがある。眼鏡の屈折があまり目立たないのだ。
こういうわけで、眼鏡好きであり、かつ、準派であるにもかかわらず、準が眼鏡っ娘という印象は薄い、という奇妙な事態が成立する。少なくとも私の印象はそうである。
今野緒雪『マリア様がみてる』のカメラちゃん。眼鏡のレンズだけでなくカメラのレンズもあるわけで、よい屈折を期待させる。
第一屈折、その変人ぶりはいいだろう。第三屈折は、手がかりになる記述は少ないが、「撮るけど撮られるのは嫌」というあたりに読み込める。
問題は第二屈折である。蔦子さん、いまいち本音が見えないのだが、これをどう解すべきかは、現時点ではちょっと難しい。今野緒雪がこれからどのような蔦子さん話を書いてくれるかにかかっている。今のところ蔦子さんは、祐巳由乃志摩子はおろか、祥子や令よりも落ち着きある知的な女性に見える。これは、たんに今野緒雪が蔦子さんを便利な助言キャラとして利用している結果というだけなのだろうか。それとも、本当に奥行きのあるキャラとして考えられているのだろうか。ちょっと判断がつかない。「ショコラとポートレート」に続く、よい蔦子さん話を願う次第である。
最後に「True Love Story; Summer Days, and yet...」から、篠坂唯子を挙げておこう。
篠坂さんの場合、まず目立つのは第一屈折である。もはや度の強い眼鏡の域を超え、電波ゆんゆんとでも言うべきか。とにかく変人であることは間違いない。
さて、篠坂さんは二つの攻略ルートをもつ。憧れの人編とコンプレックス編である。端的に言って、憧れの人編はダメである。憧れの人編の篠坂さんは、オチまでいっても、ただの奇矯な振る舞いをした女で終わる。面白くもなんともない。
評価すべきは、コンプレックス編である。そのとおり、屈折に満ちている。あんまり他人に言いたくない過去があって、誰かに自分が好かれる、ということに自信がない。直球の第二屈折および第三屈折である。
ただし、これをイベント「彼女の過去と僕の気持ち」で、篠坂本人の長台詞で説明しちゃっている点はいただけない。下手くそとしか言いようがない。ラストの一言「彼といっしょにいるようになって、わたしはちょっとだけふくよかになりました」はたいへん上手いと思うのだが。
以上、九人の眼鏡っ娘を俎上に載せ、くどいほどに屈折理論を検証してきた。
私は、この理論をすべての眼鏡っ娘萌えに共通する原理として主張するものではない。私の基本的な思想は、「現代眼鏡っ娘考」で示したように、ただ眼鏡をかけていさえすれば眼鏡っ娘である、というものだ。
屈折理論は、あくまで眼鏡っ娘萌えの一形態を説明するにすぎない。その証拠に、これでは説明のつかない眼鏡っ娘も多い。二人だけ挙げよう。
「ときめきメモリアル」の如月未緒には、あまり屈折の要素がない。裏表のない文学少女である。如月さん萌えを説明するためには、別の理論が必要とされるだろう。ちなみに私は如月さん派ではない。清川望、紐尾結奈、鏡魅羅、片桐彩子あたりが萌えランクの上位であった。最初の三人が眼鏡なしの屈折キャラであるのは面白い。「ときメモ」では、私は眼鏡よりも心の屈折そのものを重視したのだ。
実はサマデも神谷菜由派なのだが、それはまた別の話。
一方、「TLS」の本多智子も、ほとんど屈折をもたない眼鏡っ娘である。ところが、ここでは私は本多原理主義者である。結婚したい。先に紹介した、典型的屈折眼鏡っ娘の春日さんよりも、本多さんを支持しているわけだ。
このように、自分自身の眼鏡っ娘萌えのポイントを統一的に説明することすら、実はできていないわけで。
かくも眼鏡っ娘萌えとは奥深いものなのである。