さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
というわけで、1990年代に入ったあたりから盛り上がって紆余曲折ありながらも細々と続いてきた私のHR/HM鑑賞趣味は死んだ。死んだ、と判断したポイントをもう少し詳しく述べておけば、三つある。第一に、HR/HMを聴く絶対量が大幅に減ったということ。第二に、聴く音楽のメインジャンルがもはやHR/HMではなくなった、ということ。第三に、HR/HMの新しいアルバムを購入しなくなった、ということ。つまり、私にとってHR/HMは完全に過去のもの、すでに所有している作品をたまに引っ張り出して聴くものになってしまったのである。というわけで、ここいらで総括をしておきたい。まずは、私のメタル魂の中核につねにあったアーティストを十組挙げる。ついで、そこに入らなかったアーティストたちからベストアルバムを十枚選んでみたい。ここに挙げたあたりは今でも聴いている。
まとめてみると、やはり90年代で燃え尽きていたような気もする。
Deathがいちばん好きだった。私はDeathでデスメタルに目覚め、Deathの死とともに私のデスメタルもまた死んだ。1995年に最初で最後の来日公演があったのだが、そのときちょうど酷く多忙な時期で見送ってしまったのが残念で残念で。後悔とはこういうことを言うのだなあ、と思う。
私が好きなのは、1991年の『Human』以降の後期Deathである。とくに『Human』からの三枚はどれも甲乙つけがたい。後期Deathの出発点である『Human』は、いわゆるスルメアルバムで、その後の作品ほど煽情性が表に出てこないのでとっつきにくいのだが、何度も聴くと打ちっぱなしのコンクリートみたいに殺風景な轟音の奥からドロッドロの情念の渦がじわじわと滲み出てきて、それに震える。とても好きである。
1993年の『Individual Thought Patterns』は、それまでそれほど本気で聴いてはいなかったデスメタルに私を導いた一枚である。次作『Symbolic』と一緒にずっと繰り返し聴いてきた。これからも聴き続けるであろう。御茶ノ水の某メタル専門店で力の入った推薦ポップを書いてくれた店員さんに感謝したい。あの店員さんがいなかったら私の音楽ライフはもっとずっとつまらないものになっていただろう。ちなみに、このサイトとかで小理屈を捏ねているときの私のテーマソングは「The Philosopher」である。そして、1995年の傑作『Symbolic』であるが、これについてはあまり語ることはない。人生の一枚である。絶望からの慟哭としてのDeathメタルの完成型である。
Manowar。田丸浩史言うところの「世界一漢らしいHMバンド」。あまりの漢らしさにネタとして受容してしまう人がちらほらと見受けられるが、それは自らのフニャチンぶりを露呈する恥ずかしい振る舞いでしかない。Manowarをクソ真面目に聴けるかどうかがメタル魂の試金石なのである。
私がもっとも好きなのは、1984年の『Heil to England』であろうか。漢が強大な敵に戦いを挑むときに聴く歌がずらりと並んでいる。素晴らしいのは、そこに悲壮感がなにひとつないことだ。そこにあるのは、押し寄せる無数の敵を片っ端から殺戮する歓喜の哄笑のみ。これだ、これこそがメタルキングである。入門するなら1988年の『Kings of Metal』と1996年の『Louder than Hell』がお薦め。そこから初期の『Sign of The Hammer』(1984年) や1992年の大作『The Triumph of Steel』に行くのがよい。
『The Triumph of Steel』はなかなかに愉しめる。CDのカヴァーアートを広げてみてまずおしっこが漏れる。30分近い一曲目はさすがにクドく、精力に余裕があるときしか聴けないのだが、その他の曲は粒ぞろい。とくに「The Power of Thy Sword」が私は大好きでねえ。強大な敵と刀剣で戦うことになったら、必ずBGMにしようと心に決めている。
ひねくれ者と言われても仕方がない、私は初期のJudas Priestに特化して好きである。つまり、メタルゴッドとしてのPriestにはあまり興味がない、ということだ。二、三、四枚目でもう十分、他にはなにも要らない…とまで言うと言いすぎではあるが。ともあれ、メタルという型をつくってそれにはまってしまう前のPriestには唯一無二の魅力がある。キーワードは「狂気」である。初期の楽曲にはガチの異常性があって、それを私は評価しているのだが、メタルの様式が完成した以後には、それが消えないまでも弱まってしまうのだ。
たとえば1976年の『Sad Wings of Destiny』には、背筋がぞわぞわするようなイカレオーラが迸り出ていて、極上の快楽を与えてくれる。人を殺したくなるとかいった生易しいものではない。「もしかしたら僕はもうすでに知らないあいだに人を殺してしまっているのではないのか」といった思いが募ってきて、理性的なアイデンティティそのものが揺らいでしまうのである。この感覚がヤバいくらいに怖くもあり、気持ちよくもある。
1977年の『Sin after Sin』は『Sad Wings of Destiny』の剥き出しの狂気が楽曲の構成のうちにきっちり畳み込まれていて、完成度が素晴らしい。ずっと聴いていったときの最後の「Dissident Aggressor」の破壊力に痺れる。そして、1978年の『Staind Class』、私にとってのPriestはここまで、ということになる。若いころはまさに「Exciter」みたいなメタルメタルしたところがお気に入りだったのだが、今は後半部の重厚な展開がお気に入りである。
Scorpionsも私は初期専門である。Uli Jon Rothの信者なのだ。ベタであるが、1975年の『In Trance』、1976年の『Virgin Killer』、1977年の『Taken by Force』の三枚が別格である。Matthias Jabs時代もいいではないか、と友人に言われたりはして、まあわからなくもないのであるが、でも、違う。後期Scorpionsはただのとてもよくできたロックバンドでしかない。初期Scorpionsは残酷さの質が違う。たんなる暴力性ではない。愛情たっぷりに刺してくる毒蠍とでも言おうか、なによりも甘くなによりも陰惨な残酷さはちょっと他に類を見ないものなのではないか。とにかく、ロック史上最高に残酷な音楽と私は位置づけている。初期Judas Priestが自らの快楽を求めて人を殺める殺人鬼であるとすると、初期Scorpionsは深い異常な愛情ゆえに他者を死へと追いやる殺人鬼なのであるよ。蠍に比べれば凡百デスメタル連中の残酷さなど、外面だけの子供騙しにすぎない。
さきに挙げたDeath、そして、このAmorphisあたりに衝撃をうけて、私はプログレ+デス+叙情なメタルの中毒に陥った。初めて『Elegy』(1996年)を聴いたときの衝撃は凄かった。フィンランド民謡の哀愁を突き詰めた先の慟哭をデスメタルで表現するなどという試みは、当時の私にとっては前代未聞のものだったのだ。ところが、けっこう心酔していたのに初来日ライヴがけっこうガラガラで、ちょっとショックを受けたのを覚えている。演奏もいまひとつへなちょこだった。最近になってネットなどでライブの様子を確認してみたら、さすがに段違いに上手になっているようで、なんとなく安心したが。
さて、プログレ的志向をもつメタルにありがちな過剰な自己陶酔のせいか、Amorphisはしばらく少々モッサリした作品ばかり続けてしまっていた。しかし、2007年の『Silent Waters』は祝Amorphis完・全・復・活!!という感じの素晴らしい出来栄えであった。全曲素晴らしい、文句なしだ。メタルジャンルそのものから離れ気味の今も、このバンドの新作はちょっと気になる。
Black Sabbathはどの時代も好きである。よく聴いたのは、Ronnie James Dio時代、1980年の『Heaven and Hell』であろうか。Tony Martin時代の『Tyr』(1990年)も好きだった。ただ、やはりあらためていちばん衝撃的だったのはどれか、と訊かれれば、やはりOzzy時代、たとえば『Master of Reality』(1971年)であろうか。「Embryo」から「Children of The Grave」に入ると、太鼓のリズムに合わせて独り珍妙な踊りを踊ってしまう。私の魂の奥底のなにかが呼び起こされているのだと思う。初期Judas Priestおよび初期Scorpionsを殺人鬼で例えたが、Ozzy時代のBlack Sabbathはちょっと違って、聴いていると「あれ、これまで私は自分のことを人間だと思ってきたのだけれど、もしかしたら人間の皮を被っていただけで、実は異星から飛来したなんかおぞましい腐臭生物の一匹だったのではないか」というようなラヴクラフト的な恐怖が呼び起こされるのだよね。
Paradise Lostは一時期打ちこみに走っていたのであるが、そのあたりはよく知らない。メタルでないParadise Lostには興味ない。私が愛しているのはまずはもちろん『Draconian Times』 (1995年)と『One Second』(1997年)、そして2007年の『In Requiem』あたりということになろうか。 ゴシックメタルの淫靡さは一歩間違えると腑抜けになるのだが、ツボにはまったときのParadise Lostは攻撃性と叙情性、暴力性と淫靡さのバランスが絶妙で、言うところがほとんどない。ほとんどない、で、ない、と言い切らないのは、もっとギターを効かせてくれないかなあ、とたまに思うからである。
それにしても、『In Requiem』は嬉しかった。久しぶりも久しぶり、数えてみれば十年ぶりくらいに「ああああ痺れるうううう」という感じの作品をParadise Lostがつくってくれたのである。「三十路からのヘヴィ・メタル」って感じの抑制の効いた大人な重金属っぷりは相変わらず。この路線を私は支持する。
これまでの並びからすると異色なのであるが、Steve Vaiを挙げておきたい。昔からちょこちょこと聴いていたのだが、最近あらためて好きになってきた。私のメタル離れを象徴する現象のひとつが、Steve Vaiが好みの周縁から中心に移ってきたことなのである。この人、「ギターうめえ」というくくりでだけ語られてしまいがちのように思うが、私はそれに異論を唱えたい。まあ、本当にギターが上手いわけであるから、それが目立つのは仕方がないといえば仕方がないのであるが、Steve Vaiはソングライティングの能力もスバ抜けて素晴らしいのだ。どちらかといえばそっちで私は語りたい。いちばん初めに聴いたのはVAIというバンド名義で出した1993年の『Sex & Religion』であったか。1996年の『Fire Garden』は、私がまだ出不精をこじらせる前で、ライヴにも行ったので思い入れが大きい。あのライヴも凄かった。あまりのバカテクにお客さんみんな突っ立ってポカーンと口を開けるばかり。ロックなのに不動の状態で聴き入ってしまうのである。
最後にYes。私のメタル離れを決定づけたバンド。メタルに煮詰まってこっそり始めたプログレ再入門プロジェクトで、まあ最初はこのへんから、というとっかかりに選んだのが、CDラックに差しっぱなしだった『90125』(1983年)であった。続いて『Close to the Edge』(1972年)も発掘、そこからちょこちょこYesを聴きはじめて現在に至る。結果的にはこのチョイスは正解で、なんだかまたロックを聴くのが楽しくなってきたわけだが、あらためて考えれば、これは決定的な一歩であった。昔はYesなんかヌルくて聴けなかったのだ。それが今ではドカドカピロピロしたメタルよりもYesのほうが面白く感じるわけで、これはもう、メタル魂が消えかかっているということの証以外のなにものでもない。メタラーとしての私はYesに引導を渡されたのである。
いつかふたたび私のメタル魂を蘇らせてくれるようなアーティストが出てくるかもしれない。そのために空けておこう。ちょっと気障ったらしいだろうか。べ、べつに思いつかなかったわけじゃないんだからねっ。
I Poohはいくつか聴いているのだが、『Parsifal』がいちばん好きである。全編イタリア語でなにが歌われているのかはさっぱりわからないのであるが、意味がわからないがためにイタリア語の響きそのものを味わえている、というところもあるかもしれないのがなんとも。
メタル教(というよりはメタル教『Burrn!』派)の最重要経典の一つ。唯一無比。私ごときのコメントは不要だろう。
映画の『ラスト・オブ・モヒカン』を観て感動してネイティヴアメリカンにカブれた挙句につくっちゃったコンセプトアルバム、と書くと馬鹿っぽいが、出来は素晴らしい。名曲揃い。インスト「The Last of The Mohicans」で私は毎回泣くのである。もうちょっと音が良ければ申し分なかったのだが。追記。リーダーのMark Reale、2012年の1月に亡くなってしまった。まだ五十六歳。またまた私にとってのメタルが遠くなっていく。
なんとなく聴いているのを知られるのが恥ずかしい。John Wettonの甘い甘い歌声に癒されている、というのは人生に疲れている証拠のような気がしてしまうのだ。このノリは結局は演歌と同じではないのか、と言われると、どうも反論ができない。
産業ロックの教科書のなかの教科書。これが産業ロック、という不動の基準がこれである。何度聴いても最後の「Open Arms」でうるうるっときてしまう。ちょっとベタつくマライア・キャリー版よりオリジナルのほうがいい。
Steve Grimmettの最強ヴォーカルの絶唱に震撼せよ。もうコレをただただ繰り返し聴いているだけで余生は過ごせるのではないか。HRの歴史が既に終わってしまっていたとしても、コレさえあれば一聴き手としてはまったく構わないのではないか。こんな風に思ってしまうのですよ。
兄ちゃんはもちろん偉大なのだが、私はRoth弟も大好きである。そりゃまあロックの歴史の教科書を書くとしたら、Zeno Rothの名前は載らないかもしれない。新しいことはやっていないから。でも、沁みる美しいメロディを誠実にコツコツ創りつづける職人の偉大さはやはり評価されてしかるべきではないか。
この作品には文句のつけどころがない。構築美を突き詰めながらHRの疾走感やらHMの攻撃性やらを失わないでいる、というバランスは奇跡に近い。Dream Theaterの作品でこのバランスが実現したのは『Images and Words』だけである。以前も以後も、これ以外のDream Theater作品は、なんだか味がボケているように感じられて、私ははあまり好きではない。
もう何回聴いたかわからない、私にとってのメタルの聖典のひとつ。カミソリ仕込んだマシンガンみたいな攻撃性は唯一無比。当時はMarty Friedmanが現在のようなかたちで活躍するようになるとは夢にも思わなかったな。
デジな打ち込みと淫靡なメロディーをデスにブッ込んでゴシックで煮た、打ち込み嫌いな私も完全脱帽、Moonspellの超傑作。素敵どスケベなヴォーカルに濡れ濡れである。デスラッシュのような直球のジャンルも嫌いではないのだが、こういうランクをつけるとなると、やはり捻った作品を挙げたくなる。
Iron Maidenにたいする私の立場は少々ひねくれている。Maidenそのものはそれほど好きではないのだが、いわゆるMaiden風スタイルは好きなのである。そのひねくれの延長線上というわけではないが、Maidenで私的ベストを選ぶとすれば、Paul Di'anno時代の初期二作を挙げることになる。いわゆるMaiden風スタイルが確立する前の、もうちょっと不安定で繊細だったころ、というわけだ。とはいえ、Bruce Dickinsonが嫌いというわけではない。というのも、Maiden風スタイルの作品のうちでの私のベストは、ぶっちぎりでBruceのソロである本作なのであるから。陰鬱で重厚であるが同時に攻撃的であるとか、曲の構成をヒネりつつも冗長にならないとか、バランス感覚が素晴らしい。90年代に流行したダーク&ヘヴィなHM路線の文句なしの傑作で、正直なところ、本家Maidenのどの作品よりも好きである。私が聴きたい理想のMaidenにいちばん近いのがこれなのだ。