2022年3月のロシアとウクライナの和平交渉の妥結を妨害した元凶はアメリカ(及びイギリス)であることを明らかにする証言がまた出てきました。しかも、今回はこの休戦交渉を仲介したことを明らかにしたベネット(当時のイスラエル首相)の発言であるだけに重みが違います。私は、1月30日のコラムで、ロシアとの和平に積極的だったウクライナのゼレンスキー大統領が心変わりした経緯を指摘した1月5日付けフェア・オブザーバーWS掲載のM.ベンジャミン&N.デイヴィス署名文章を紹介しましたが、和平交渉の直接仲介役を務めたとするベネットの発言はリアルで、説得力が桁外れです。
 特に私にとってインパクトが大きかったのは、ブチャの虐殺はウクライナ軍がロシアを支持する市民に対して行ったものであり、それをウクライナ側はロシア軍が行ったと公表した、とするくだりでした。もっとも、この点について言及しているのはスプートニク通信だけで、ロシア・トゥデイもタス通信も取り上げていませんので、正直、私もベネットがそのように発言したかどうかについてはまだ半信半疑です。ただし、イスラエルのハーレツ通信(2022年4月5日付け)は、「イスラエルのラピド外相はブチャにおけるロシアの戦争犯罪を非難したが、ベネットは非難することを控えた」と報道していますので、ベネットが発言した可能性は否定できません。仮にベネットがそのように発言したとするならば、ブチャ虐殺で完全に悪者という烙印を押されたロシアの名誉は回復されるべきであり、ナチ信奉者が牛耳っていると噂されるウクライナ軍に対する認識も根本的に変える必要があるわけです。
 さて、2月5日にイスラエルのテレビ局チャンネル12で約5時間にわたるインタビューに応じたベネットは、2021年6月に首相に就任後、同年10月にロシアを初訪問してソチでプーチン大統領と会談して極めて良好な関係を築いたこと(プーチンは、「誰も個室に招待したことはないが、貴方を招待したい」と述べて招き入れ、さらにウオッカをも勧めたとのこと)を明らかにし、そのことが2023年3月にベネットがロシアとウクライナとの和平交渉の仲介者として行動することに役立ったと述べた上で、当時の模様を詳細に語りました。その内容は、当初ロシアとの和平交渉に積極的だったゼレンスキーが心変わりしたのは米英特にジョンソン元首相の強い働きかけによるものだったこと(M.ベンジャミン&N.デイヴィス署名文章の指摘)を確認するものですが、ゼレンスキーの身の安全を保障するというプーチンの確約に安心したゼレンスキーがNATO加盟固執を撤回したこと、プーチンはウクライナ非軍事化の要求を取り下げることでこれに応じたこと、その結果、交渉妥結に大きく近づいたこと、仏独はその妥結内容に好意的に反応したけれども米英が強く反発したこと、そして4月1日にウクライナが「ブチャにおけるロシア軍による民間人大量殺戮」を非難したことによって和平交渉は頓挫したことなど、その発言内容は極めて具体的です。ベネットの発言内容に対して、ロシア(ペスコフ報道官)は「大統領の会談内容についてはコメントしない」、ウクライナは猛反発、西側諸国及びメディアは今のところ沈黙(くさいものには蓋?)です。
 ベネットはYouTubeにインタビューの全容を載せているとあったので覗いたのですが、発言はイスラエル語のようで、英語の字幕はありますが、逐語訳ではありません。もっとも詳細にベネットの発言内容を紹介しているのはスプートニク通信です(タス通信とロシア・トゥデイは断片的ながら、スプートニクが報じていないことも取り上げている)。まとめて以下のとおり紹介します。

 ベネットは、「戦争が起きて、苦しい立場に立たされた」と述べた。「「アメリカはイスラエルがウクライナ側に立つことを期待した。しかし、イスラエルには矛盾する利益があった。一つは、シリアにおける「イランのプレゼンス」に対する軍事作戦であり、もう一つはモスクワとの間で良好とまではいかなくても最低限中立を保つ必要があったし、ロシア及びウクライナに住むユダヤ人の安全も大事だった。」仲介に合意するという第三の立場を選択したとき、2021年にソチでプーチンと初会合した際に築いた「信頼」は「貴重な財産」だった。彼によれば、ワシントンはモスクワとどのように有効にコミュニケートするかを知らなかったし、今も分かっていない。「おそらくエルドアンを除けば、両国の信頼を得ている者は他に誰もいないだろう。」ベネットはまた、仲介役を担うに当たって、ロシアとウクライナの歴史を学び、かつての指導者やロシアの専門家とも話し合った、と述べた。
 ベネットはゼレンスキーについて次のように語った。「私のモスクワ訪問が発表されたとき、ウクライナ大統領ゼレンスキーを名乗る人物から電話があった。話ではユダヤ人でコメディアンだそうだ。ゼレンスキーは非常に丁寧な口調で、彼(ゼレンスキー)に電話し、会うようにプーチンに呼びかけてほしいと頼んだ。私はこのリクエストをなかなか伝えられなかったが、5時間以上プーチンと話した後に、「ところで、ゼレンスキーの頼みなのだが、会ってほしいとのことだ。」と切り出した。」
 この瞬間、ベネットによれば、会話の雰囲気ががらりと変わった。「それまではプーチンはとても打ち解けていたが、突然凍り付くような表情となった。「彼らはナチだ。戦争をそそのかしている。彼に会うつもりはない。」」ベネットは、会話の雰囲気の変化は予想もしなかったものだったと述べた。「私は突然の雰囲気の変化に驚いた。しかし、プーチンはまた穏やかな表情に戻った。」
 ベネットの外交的仲介は、ベラルーシのゴメル(Gomel)で2月28日及び3月3日に行われたロシアとウクライナとの間の2回の交渉の後に行われた。ベネットは、モスクワ訪問前にフランスのマクロンと話し、また、プーチンとの会談後にはベルリンに飛んでドイツのショルツと話し合った。
 ウクライナ危機をめぐっては、「ふたつの非常に異なる語り口がある」とベネットは述べた。一つはプーチンであり、もう一つはゼレンスキー及び西側である。西側はプーチンを帝国主義者であり領土拡大を目指しているとみている。もし、ウクライナでプーチンを押しとどめないと、ポーランド、バルト3国に向かうだろう。プーチンがソチ(2021年10月)そしてより詳しくモスクワ(2022年3月)で明らかにしたのは、ベルリンの壁が崩壊した際、西側はNATOの拡大を目指さず、ロシアを取り囲む国々に手を触れないということで西側と約束したということだった。アメリカにモンロー・ドクトリンがあったように、プーチンも「ここには来るな、これは俺の裏庭だ」という考え方があった。
 「だから私は、ブリンケン、バイデン、サリヴァンに対して、「私にはプーチンの言うことを聞く耳がある。パイプラインになれる」と述べた。ゼレンスキーは私にプーチンと接触をとるように電話で頼んだ。彼は心配していた。彼は自分の命が長くなく、殺されるだろうと考えていた。ロシア側の要求の一つは非ナチ化であり、それはつまり指導者を取り替えるということであり、ということは彼を殺すことを意味していると世界が理解していると思った。もう一つの要求は非軍事化、つまりウクライナの武装解除だ。
 「こうして、私はプーチン-ゼレンスキー、ゼレンスキー-プーチンと行き来して話し合いを始めた。案文は私たちを通じてだけではなく、直接にもやりとりされた。交渉はベラルーシのゴメルという町だった。」
 「私がやったことはすべて、バイデン、マクロン、ジョンソン、ショルツ、そしてゼレンスキーと考えを打ち合わせた上でのことだ。私は、和平が可能かについてアメリカ側と議論した。私はチャンスがあると考えていたが、アメリカ側はノー・チャンスだと言った。」
 ベネットは、国際面での首相としての行動に関し、彼の仲介においてロシアとウクライナの指導者が行った譲歩を詳説した。すなわち、プーチンはゼレンスキーを殺害しないことを約束し、ゼレンスキーはNATO加盟を引き下げた。
 3月5日にプーチンと会談した際、プーチンはベネットに対して「二つの大きな譲歩を与えた」。私は、「話し合いが始まって数時間後、私は、「ゼレンスキーが恐れて地下司令室にいる。貴方は彼を殺すつもりか」と尋ねた。彼は「殺すつもりはない」と言った。ベネットはさらに「確認する必要がある。ゼレンスキーを殺さないと確約するか」と尋ねた。プーチンは「ゼレンスキーを殺すつもりはない」と繰り返した。プーチンのもう一つの譲歩はウクライナの非軍事化の要求を取り下げたことだ。
 「プーチンとの会談を終えた後、クレムリンから空港に向かう車中で、私はワッツアップ(whatsapp)でゼレンスキーとコンタクトをとり、「今会談から出てきたばかりだが、プーチンは貴方を殺すつもりはない」と述べた。ゼレンスキーは「確かか」と尋ね、私は「100%だ、彼は貴方を殺す気はない」と答えた。2時間後にゼレンスキーは自分のオフィスに行き、自撮り写真を撮りながら「私は恐れていない」というよく知られている言葉を録音した」。
 「ゼレンスキーはNATO加盟を諦めた。彼は「それを放棄する」と言った。これらのことは双方による大きなステップである。大きな譲歩だ。紛争はNATO加盟の要求故に勃発した。そして、ゼレンスキーは「それを放棄する」と言ったのだ。」
 残った大きな問題は領土に関するものであり、ドンバス、クリミア、両地を結ぶ回廊、それにプラスして安全保障に関するキエフの要求だった。ベネットによれば、西側諸国が安全を提供するという案はロシア側が「NATOと変わることがない」と拒否した。ベネットは「熟考」の上でゼレンスキーに「イスラエル・モデル」を提案した。
 「私は次のように問うた。「アメリカは貴方に保証を与えるだろうか。7年間の間にロシアが何かを破った場合には軍隊を送ると約束する? アフガニスタンから撤退したのに。」私はゼレンスキーにこう言った。「そうはならないだろう。保証はないだろう。何のために(アメリカと)交渉するのか。」ベネットは、イスラエルは自国の安全保障について「そういう保証はない」と述べた。「誰もイスラエルを救いに来ない。我々がすることは、自分自身を守る強くて独立した軍隊を持つことだ。だから、保証といったことは忘れ、軍事力構築の条件について議論しよう。これは認識的なブレークスルーで、双方が受け入れた。」
 ベネットは、プーチンを「極めてスマート、極めてシャープ、極めて現実的」な話し相手だと形容した。ベネットはまた、「プーチンはゼレンスキーの政治的制約を完全に理解していた。ゼレンスキーも現実的だった」と形容した。「双方が休戦をとても望んでいるというのが私の受けた印象だった」とベネットは繰り返した。
 3月5日にプーチンと会談した後、ベネットはドイツに向かった。「なぜならば、ドイツとフランスは欧州の主要な担い手だからだ。協定を確かなものにするべく、ショルツの安全保障アドヴァイザーと一緒に、アメリカ側、マクロン、ジョンソンに最新情報をインプットした。」
 「ジョンソンは攻撃的な立場をとった。マクロンとショルツはより現実的だった。バイデンはその両方だった。それから私はイスラエルに戻り、案文をめぐるマラソン交渉が始まった。しかし、最終的に西側はプーチンを叩くという決定を行った。つまり攻撃的なアプローチというわけだ。」
 (司会者が「彼らはブロックしたということか」と問うたのに対して)「そうだ。彼らはブロックした。私は彼らが間違っていると思った。」
 ベネットは、ブチャの虐殺が起こるまでは、ロシアとウクライナとの間の交渉による和平の可能性は半々だと思っていたと述べた。しかし、ロシア軍が3月後半に撤退した後、ウクライナ軍はロシアを支持する市民に対する「浄化」作戦を行ったが、その殺害についてモスクワがやったと非難した(Ukrainian forces carried out a "cleansing" operation against Russia-sympathizing civilians after Russian troops withdrew in late March, but then blamed Moscow for the killings)。「ブチャ虐殺が起こったとき、私は終わったと述べた」とベネットは語った。
(タス通信補足)2022年春、ウクライナ当局は、ロシア軍がキエフ地帯のブチャで民間人を虐殺したと非難した。ロシア国防省は4月3日、この非難を否定し、ロシア軍は3月30日にブチャから撤退したのにいわゆる虐殺の証拠が表面化したのは4日後のウクライナの公安当局が町に来たときであると指摘した。また、ロシア国防省は、ブチャのフェドルック市長は3月31日に行ったヴィデオ演説の中で、町にはロシア兵がいないことを確認したが、市街地における射殺された市民のことについては何も言わなかった、と強調した。