(はじめに)

 明治維新で開国してから今日に至る日本外交の本質は2点に要約できる。一つは、古来より日本では、国家関係を階層的に捉える見方(私は「天動説国際観」あるいは「垂直的国際観」と名付けている)が支配的で、それが明治維新以後も温存されたこと。もう一つは、階層的国際システムにおいて覇権的地位を獲得することを志向する権力政治(パワー・ポリティックス)的アプローチである。
 今日の国際社会の原型は17世紀に欧州で成立した(1648年のウェストファリア条約)。中世欧州は神聖ローマ帝国が支配する単一世界だった。その支配が緩み、宗教戦争を経て、各地で宗教的権威からの独立を目指す動きが台頭し、それぞれが主権的権利を主張する民族国家(ネーション・ステート)として具現し、上記条約を経て近代欧州国際社会が成立した。そこでは、主権国家の対等平等性が強く意識され、かつ、主要原則として受け入れられた。
 近代欧州国際社会が社会として存続する上では、主権国家の対等平等原則に加え、外交、国際法、戦争、大国、バランス・オヴ・パワー(BOP)等の様々な制度的要素が機能することの必要性が認識された。特に中央政府が存在しない近代欧州国際社会を規律する上では、大国の果たす役割、特に大国間のBOPが社会としての安定的存続にとって不可欠として受け入れられた。確認すべき重要なポイントは、近代欧州国際社会では、主権国家の対等平等性原則とBOPを通じる大国の特別な役割という、相互に矛盾する要素が等しく受容されることで、国際社会の平和と安定の実現が図られてきたという事実である。ちなみに、その今日的表れは、一国一票を体現する国連総会と大国の特別の役割を前提とする国連安全保障理事会である。
 欧州列強が植民地獲得競争に乗り出し、世界をその版図に組み込む過程で、欧州的基準を満たす国家を欧州国際社会の一員として受け入れるプロセスが進行した。具体的には、アメリカ、オスマン・トルコに次いで、「脱亜入欧」を掲げた日本が欧米列強との不平等条約の改正実現を通じて欧州国際社会に参入することに成功した。
 日本が国際社会の仲間入りしたときの世界は帝国主義全盛期だった。日本にとって不幸だったのは、帝国主義全盛期に近代欧州国際社会に参入したために、階層的国際観をそのまま温存してしまったことである。他方で日本は、主権国家の対等平等性という、近代欧州国際社会を成り立たせる基本原則を看過してしまった。
 第一次及び第二次世界大戦を経て近代欧州国際社会は今日的国際社会へと地理的拡大と質的変化を遂げてきた。第二次大戦に敗北したことは、日本が主権国家の対等平等性原則を確認し、受容する絶好のチャンスだった。しかし、日本は世界的覇権を追求するアメリカ(「丘の上の町」を自認する天動説国際観の国家)に単独占領され、その後、アメリカの対アジア覇権戦略に組み込まれる (サンフランシスコ体制) 形で独立を回復したため、このせっかくのチャンスも活かされなかった。こうして、階層的国際システムにおいて覇権的地位を獲得することを志向する権力政治(パワー・ポリティックス)的アプローチは、「脱亜入欧」から「対米一辺倒(従属)」へと変形された形で温存されてしまった。
 私たちが対米一辺倒外交からの転換という課題を考えるに当たっては、以上の歴史的経緯を踏まえ、階層的・天動説的・垂直的国際観を根本的に清算して民主的・地動説的・水平的国際観を我がものとし、かつ、権力政治(パワー・ポリティックス)的アプローチからの脱却を図ることが大前提となる。なぜならば、ひとり保守政治のみならず日本人はおしなべて「井の中の蛙大海を知らず」であり、階層的国際観と権力政治的アプローチを当然の前提としてしまっているからである。日本ほど対米一辺倒の外交を行う国家は世界的に希有であり、異常を極めているのだが、その事実すら圧倒的に多くの日本人が認識できないでいる。
 対米一辺倒の外交からの転換という課題を考える上では、私たちが如何なる主体性認識に立って日本外交のあり方を考えるのかという問題も避けて通るわけにはいかない。特に問題となるのは、対米一辺倒外交を批判する私たちが「国家」「国民」という概念を忌避し、「市民的立場」を前面に押し出す傾向がいまだに強いことである。これまた、「軍国主義・日本」に痛めつけられた過去を持つ私たち日本人に固有の現象(「羮に懲りて膾を吹く」)である。世界的に見れば、「国家の主権者」としての国民と「市民社会の一員」としての市民という「二足のわらじ」を履くことは常識であり、両者は何ら矛盾するものではない。
 もちろん、「市民外交」という領域は存在し、今後その活動領域は広がっていくだろう。しかし、21世紀以後を見通しても、国家としての外交が今後も国際関係における主軸であり、私たち主権者・国民が日本外交にどのようにかかわっていくかという主体的視座を抜きにしては、日本外交のあり方を考えること自体が成り立たない。特に、「対米一辺倒外交」からの転換を考える上では、私たち主権者・国民が日本外交を自分自身の主題として捉える主体性確立が不可欠の前提となる。その前提に立って、対米一辺倒を転換する「日本の対米外交はいかにあるべきか」という主体的問題意識を設定することが求められているのだ。

1.階層的・天動説的・垂直的国際観の清算

 階層的・天動説的・垂直的国際観は、国際社会を成り立たせる主権国家の対等平等性原則の否定に立つ国際観であるだけではなく、21世紀国際社会の現実・歴史的方向性とも根本的に相容れず、「歴史の屑箱」に放り込まれる運命にある。すなわち、2度の大戦の反省に立つ国連憲章(第2条)は、すべての加盟国の主権平等、内政不干渉、紛争の平和的解決、武力行使(戦争)禁止等の原則を明記し、民主的・地動説的・水平的国際観に立脚している。
 また、米ソ冷戦終結後の国際社会のあり方をめぐっては、アメリカを中心とする西側一極支配を目指す勢力と、国際的相互依存の不可逆的進展を背景に急速な経済発展を遂げつつある大多数の新興国・途上国を中心とした、民主的多極的国際社会の実現を目指す勢力との角逐が顕著である。しかも、歴史的方向性としては後者の勝利が確実視される。
 階層的・天動説的・垂直的国際観にどっぷりつかったままの日本・日本人は以上の21世紀国際社会の現実及び歴史的方向性に対して恐ろしいまでに鈍感である。私たちには、この鈍感を克服し、鋭敏な歴史感覚に立った民主的・地動説的・水平的国際観を我がものとすることを第一課題として設定する主体的自覚が求められている。その自覚を国民的共有財産とする私たちの努力は、対米一辺倒外交を空気のごとく受け入れている日本人の意識を呼び覚ますことをはじめて可能とするだろうし、「市民」意識に対するこだわり故に世論的辺境に追いやられている私たちの運動エネルギーにダイナミックな活力を持ち込むことを可能にするだろう。

2.権力政治(パワー・ポリティックス)的アプローチからの脱却

 すでに述べたように近代欧州に成立した国際社会は主権国家の対等平等性原則に立ちつつ、中央政府なき国際社会の平和と安定を図る制度的要素として大国及びBOPの機能を、いわば必要悪として受け入れた。しかし、二度の大戦を経て世界最強国となったアメリカは、東西冷戦期及び脱冷戦期を通じて一貫して世界の盟主を自任し、世界を自らのデザインに基づいて作り替える戦略を追求してきた。
 客観的にいって、アメリカ主導で作られた市場経済及び自由貿易の原則に立つ国際経済システム(GATT・IMF体制。冷戦終結後はWTO・IMF体制)が様々な障壁を取り除くことを通じて、多くの新興国・途上国(まとめて非西側諸国)の経済開発を助長・促進し、国際経済全体のパイの拡大に貢献してきた事実は肯定的に評価するべきだろう。もちろん、地球温暖化、食糧危機、エネルギー問題等の深刻な地球規模の諸問題を生み出した元凶もこの戦後国際経済システムであることはしっかり抑えておく必要がある。
 圧倒的経済力を誇ったアメリカの経済的覇権は長続きせず、1971年の金・ドル交換停止(ニクソン・ショック)、1972年の日米繊維協定を皮切りに、アメリカは次第に自国経済・産業保護への傾斜(保護主義)を深めていくことになる。他方でアメリカはレーガン政権のもとで新自由主義を打ち出し、イギリス・サッチャー政権及び日本・中曽根政権との三頭立てで国際経済特に国際金融の自由化を積極的に推進した。この政策は、アメリカの放漫財政運営を支えるドルの垂れ流しと相まって、金融投機主義が世界経済を支配する今日の異常な局面を生み出すことにつながっている。
 その結果、アメリカにおいては、金融経済の空前の繁栄のもとで国内産業の空洞化が進行する経済の二極化が進行し、政治問題化した。これがトランプ政権及びバイデン政権による「アメリカ・ファースト」の保護主義的経済政策の採用・強行につながっている。
 それはとりもなおさず、アメリカ自身がかつて推進した自由な国際経済システムを自ら否定するに等しく、国際経済全体が方向性を見失い、未曾有の挑戦と試練に直面する事態を生み出している。また、アメリカが保護主義をがむしゃらに追求する結果、多国間協調があってはじめて可能となる地球規模の諸問題の解決もままならぬ深刻な試練に直面している。
 戦後日本は、GATT/WTO・IMF体制のもとで経済大国として復活し、1980年代以後の新自由主義の潮流にも順応した。しかし、トランプ政権時に突如として開始され、バイデン政権になってからは同盟・友好国にも同調を強要するに至った、露骨な「アメリカ・ファースト」・中国排除の経済政策を前にして、日本は未曾有の試練に直面している。ところが安倍・菅・岸田政権は、中国敵視を優先する安易な政治的考慮から対米一辺倒に終始し、経済活動の長期低迷、国民生活へのしわ寄せ、国家財政における借金体質の深刻化という三重苦にも手を打つすべがなくなっている。
 しかし、保護主義は第一次及び第二次世界大戦の導火線になった。その歴史的破産は自明と言わなければならない。日本の対米一辺倒外交からの脱却と自主独立は焦眉の急である。私たち主権者・国民は、この事実を危機感を持って受け止めることが求められている。  国際安全保障の分野においては、バイデン政権は中国を最大の脅威と措定し、ロシアを当面の脅威と位置づける、時代錯誤も甚だしいパワー・ポリティックスを全面的に復活させている。そこから台湾問題をめぐる軍事的緊張がもたらされ、ウクライナ危機・戦争が引き起こされている。
 詳述する余裕はないが、アメリカが台湾・蔡英文当局の「独立志向」を助長せず、ウクライナ・ゼレンスキー政権のNATO加盟願望を煽っていなければ、今日の事態が生み出されることはなかったことには議論の余地はない。中国は「一国二制度」の実現について「百年河清を待つ」用意がある。ロシアは、独仏も参加して成立した「ミンスク合意」をウクライナが履行(ドンバスに高度の自治を承認)しさえすれば、ウクライナの独立を尊重することを確約していた。要するに、諸悪の元凶はアメリカであり、日本を含む西側諸国が中国とロシアを「悪者」扱いするのは根本的に間違っているということである。
 ところが、日本では文字通り朝野をあげて中国及びロシア非難一色に染まる異常を極める状況となっている。そのために、岸田政権の際立った対米一辺倒外交の醜悪さ・無能さに目が行くことが妨げられている。  本年は日中国交正常化50周年の節目の年である。中国は自民党内「ハト派」と目された岸田首相、日中議連会長を務めた林外相に期待を寄せた時期もある。しかし、反中・嫌中が支配する世論を背景に、バイデン政権の対中強硬政策に前のめりな岸田政権は中国が発するシグナルをことごとく無視した。「台湾海峡有事は日本有事」(安倍元首相)とする言説が世論をも飲み込む未曾有の状況が現出しており、安倍政権末期以来どん底に陥った日中関係を打開するせっかくのチャンスが失われている。
 極東・シベリアの経済開発を重視するロシアも日本との経済協力の進展、良好な日ロ関係を望んでいる。しかし、西側報道が垂れ流す「ウクライナ=善、ロシア=悪」のイメージが日本社会に浸透したのを背景に、岸田政権はウクライナ危機に際して安倍政権以来の対ロ対話路線と決別し、「西側の一員」として強硬な制裁措置を発動した。ロシアはこれに猛反発し、日ロ関係も最悪の状態に陥っている。
 要するに、日中関係がかつてなく険悪化し、日ロ関係が最悪の状況に陥ってしまったのも、岸田政権(自民党政治)の対米一辺倒の外交に原因があるのだ。私たち主権者・国民は、以上の諸事実関係を正確に認識し、対米一辺倒の外交からの転換が急務であることを認識することが求められている。

3.対米一辺倒を転換する「日本の対米外交はいかにあるべきか」という問題意識

 以上に述べたことから明らかなとおり、日本外交は今日、経済及び安全保障という二大領域のいずれにおいても未曾有の試練・難局に直面している。両者に共通するのは、伝統的な対米一辺倒外交を根本的に転換しない限り、この試練を克服し、難局を乗り越えることはできないということである。私たち・主権者の自覚と奮起が今ほど求められているときはない。
 経済に関しては、幸いなことにすでに国際的にコンセンサスが得られた目標が存在する。すなわち、2015年9月の国連サミットにおいて全会一致で採択された持続可能な開発目標(SDGs)であり、この目標の実現に資する国際経済システムの構築である。
 しかし、SDGsに関して採択された基本文書「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(以下「アジェンダ」)は、アメリカを含む全会一致で採択されたことからも明らかなとおり、すべての国々が同意できる諸目標を網羅的に盛り込んだものであり、諸目標達成のために克服・解決するべき課題・問題には深く立ち入っていない。対米一辺倒外交からの転換を目指す私たち主権者としては、明確な視点・方向性を指摘することが不可欠であることを認識しなければならない。ただし、紙幅が限られているので、原則的問題提起に限られることをお断りする。
 第一、アメリカの保護主義に正面から立ち向かい、克服すること。アジェンダは「WTOの下での普遍的でルールに基づいた、差別的でない、公平な多角的貿易体制を促進する」(17.10)ことを提言している。自由、無差別、公正はWTOの拠って立つ基本原則であり、今や世界的に受け入れられた普遍的経済原則と言える。自主独立外交の日本を唱道する私たち主権者は、この原則に立って保護主義アメリカ批判の国際的先頭に立つ覚悟を持つべきである。
 第二、国際経済関係のあり方に関しては、WTO・IMF体制を基軸とし、新興国・途上国を含むG20による大国的機能を活かす、21世紀にふさわしい国際経済システムを構築すること。アジェンダも、求められる国際的な経済環境として「首尾一貫した、互恵的な国際貿易、 通貨・金融システム及びより発達した地球規模の経済ガバナンス」(63)の重要性を強調している。バイデン政権(イエレン財務長官)は、WTO・IMFを迂回する、西側主導の新たな国際経済システム構築を言い出している。私たち主権者は、こうしたアメリカの動き(これに追随する日本の保守政治)に対して、「待った」をかける先頭に立つ気概を持たなければならないし、「太平の眠り」の中にある広範な国民各層を啓蒙する役割を担わなければならない。
 第三、国際秩序のあり方を含む広義の安全保障に関しては、覇権的一極的秩序の主張と民主的多極的秩序の主張とが対立しているが、日本は後者に与すること。
 アメリカを先頭とする西側諸国が唱えるのは「ルールに基づく国際秩序」という名の覇権的一極的秩序であり、中ロ両国を含む非西側諸国が提唱するのは国連憲章・国際法に基づく国際秩序、すなわち民主的多極的秩序である。
 アメリカが「ルールに基づく国際秩序」を主張するのはバイデン政権以来であり、当初は「ルールを守らない中国」を批判するのが主眼だった。しかし、ロシアがウクライナに対する武力侵攻を開始してからは、ロシアに対しても標的を向け、アメリカの言いなりにならないイラン、シリア等をも標的に含めている。
 しかし、広く指摘されているように、「ルールに基づく国際秩序」における「ルール」が具体的に如何なる内容であるか、アメリカ以下の西側諸国は一度として明確に説明したことがない。有り体に言えば、弱肉強食の世界を認めろ、西側支配の旧秩序にこれからも従え、と言っているに等しい。
 これに対して非西側諸国が対置するのは国連憲章及び確立した国際法という普遍的なルールに基づく国際秩序である。実はアジェンダも非西側諸国の主張を支持している。すなわち、「目指すべき世界像」として、「人権、人の尊厳、法の支配、正義、平等及び差別のないことに対して普遍的な尊重がなされる世界」(8)を提起し、アジェンダの原則として、「国際法の尊重を含め、国連憲章の目的と原則」(10)を確認し、「領土保全及び政治的独立」として「国連憲章に従って、国の領土保全及び政治的独立が尊重される必要があることを再確認」(38)している。
 ちなみに、非西側諸国の主張に「人権、人の尊厳、法の支配」が含まれるという指摘には異論があるだろう。ここでは、「人権」「尊厳」「法」という概念に関する理解は様々であり、いわゆる西側的理解だけがすべてではないことを指摘するにとどめる。
 岸田首相はことあるごとに「ルールに基づく国際秩序」の重要性を強調する。これほど岸田首相の見識のなさ、というより無知をさらけ出すものはないし、対米一辺倒外交の醜悪を示すものもない。しかし、日本国内にはそのことを指摘するだけの成熟した世論も不在である。実は、そのことこそが真の問題の所在なのだ。政治の貧困と世論の未熟が相乗作用を起こし、「井の中の蛙大海を知らず」の日本が再生産され続けている。
 私たち主権者には、ここでも保守政治批判の先頭に立つ覚悟と世論啓蒙の役割を担う先達者としての自覚が求められている。任務・責任の重大さの前にたじろぐのか。それとも、そのことに日本・日本社会の可能性を見いだし武者震いするのか。それは正にひとりひとりの政治的意思決定にかかっている。