私は、1986年8月から約1年間イギリスの国際戦略研究所(IISS)で客員研究員として過ごしましたが、もっとも印象に強く残っているのは、1985年にソ連共産党の書記長になったゴルバチョフが打ち出したペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(透明性)に代表される国内政治の新たな動き、そして、1986年10月にアイスランドの首都レイキャビックで行われた米ソ首脳会談に代表されるソ連外交の新鮮なアプローチでした。当時はゴルバチョフの打ち出す諸政策の斬新性に目が奪われ、数年後にベルリンの壁崩壊、そしてソ連邦自体の空中分解が起こることを予想し得た者はなく、研究所の中でもソ連内外政治の変化に対する期待を込めた熱い議論が行われていたことを懐かしく思い出します。
 ゴルバチョフの死去を受けて、ロシアのニュース専門局『ロシア・トゥデイ』(RT)が長文のゴルバチョフ紹介記事を掲載しました。その内容は抑制のきいたものであるという印象を受けました。抑制という言葉につなげていいますと、ゴルバチョフの失政を原因とするソ連邦崩壊を「大破局」(catastrophe)と断じるプーチンが、彼の遺族及び友人に送った電報では、ゴルバチョフは「世界史で影響ある役割を演じた政治家(a politician and statesman)」とし、「彼は激しい変化並びに対外政策、経済及び社会の巨大な挑戦の時期にこの国を率いた。彼は改革が必要とされていると感じ、諸課題に対して彼自身の解決策を持って立ち向かった」と述べ、批判的な言辞を慎んでいます(8月31日付けタス)。さらに彼は、カリーニングラードに向かう前にゴルバチョフの遺体に告別し、花を手向けました(9月1日タス)。
 クレムリンの報道官であるペスコフは、「彼は極めて複雑で、多面的、時に極めて矛盾した人格だった。いまでも我が社会で時々タフな議論を引き起こしている。しかし、それも含めて我々の歴史である」、「彼は深い足跡を残し、母国の命運に影響を与えた」と批判的と響くコメントを行っています。しかしその彼も、ゴルバチョフが確固とした印象を残すことができなかったのはなぜかという記者の質問に対しては、「歴史の歩みはそれ以上に強いものがあるからだ」と答えた上で、「ソ連邦の崩壊を後悔しないとしたら、それは心がないということだ。しかし、ソ連邦の復活を望むとしたら、それは脳がないということだ」というプーチンの言葉を紹介し、「仮定法の話は専門家の判断に委ねよう」と、やはり抑制的な言葉を連ねています。
 ちなみに、「ソ連邦の崩壊を後悔しないとしたら、それは心がないということだ。しかし、ソ連邦の復活を望むとしたら、それは脳がないということだ」というプーチンの言葉からは、ソ連邦の崩壊を「大破局」だと断じつつも、プーチンが目指すのはその復活ではなく、まっさらな歴史を作ることにあるというプーチンの立ち位置を明確に見届けることができます。
 また、タス通信は、ドイツのメルケル前首相、ポーランドのワレサ元大統領を含め、ロシア内外の政治家の感想を幅広く紹介しています。以下では、RTのゴルバチョフ紹介文の中で私が注目した部分とロシア内外の政治家の感想のを紹介したいと思います。

<RTのゴルバチョフ紹介文(抜粋)>
○ブレジネフ時代:ブレジネフの時代には、経済成長率が10年にわたって2%以下だったとする外国の資料もあったほどで、多くの市民は日常品を買うのに長い列を作って時間を過ごした。完全雇用は保障されていたが、経済における腐敗と無責任が横行した。誰も餓死はしなかったが、生まれたときから死ぬときまで、買えるものは一律で変化はなかった。個人の自由がないということは、それに安住する者もいる一方、息が詰まると感じる者もいた。絶対的貧困からはほとんどの者が解放されたが、普通の市民にとって明るい未来への期待はなかった。ゴルバチョフはこれらの病弊を深く自覚していたし、やるべきことを実行に移す勇気も備えていた。彼はまた、そうすることについて人々からの支持を期待できるし、上からの抵抗が乗り越えられないものではないとも感じていた。
○ゴルバチョフ時代
 就任早々にゴルバチョフが打ち出したのはウスコレニエ政策(加速)であり、経済のオーバーホールと名付けられた。しかし、それはソ連体制の根本的構造的問題に向き合ったものではなく、相変わらずのトップダウンの行政的解決策に過ぎなかった。彼の第二のイニシアティヴは、善意から出たものであったにせよまったくお門違いのアルコール中毒対策だった。結果的には、予算収入は大きく減り、しかも密造者を増やすだけだった。
 ゴルバチョフがペレストロイカに最初に言及したのは1986年5月だったが、瞬く間に時代語になった。はじめは現存の枠組みの中での経済的取り組みを指していたが、まもなくソ連邦の政治的中心を対象とする用語となっていった。1987年1月27日の中央委員会の演説で上からの革命が開始された。この演説の中で、ゴルバチョフはデモクラシーという言葉に70回以上も言及した。ゴルバチョフは自らをレーニンになぞらえたが、彼が提案したことはロシア史あるいはソ連史に前例のないことだった。ソ連邦は権力にあるもののみによって運営される社会だったのに、ゴルバチョフが提案したことは社会の権力の向きを根本からひっくり返すことだった。
 ゴルバチョフは、公開討論、後にグラスノスチとして知られることとなったものを抜きにしたデモクラシーはあり得ないことを知っていた。こうして社会革命が始まった。多くの人々は前例のないレベルの個人的自由を歓迎した。注目すべきは、旧体制の擁護者であるKGBや党幹部がブレジネフ時代の共産主義を守るべく介入しようとしなかったことである。当時、ゴルバチョフに対する支持の裾野は広く、彼の諸決定は有望かつ論理的と思われた。しかしその結果、ソ連国家のガチガチの構造は制御不能なまでに緩んでいくことになった。
 ゴルバチョフは、1989年7月に欧州理事会で演説し、「それぞれの人民が自らの社会システムを選択する主権的権利」があることを宣言した。この年、ソ連は東欧諸国の高価な基地を放棄し、戦車を引き上げた。11月にベルリンの壁が崩壊したとき、ゴルバチョフはたたき起こされることもなく、緊急会議も行われなかったという。ゴルバチョフ自身が「欧州の不自然な分割」(1990年のノーベル平和賞受諾演説)と形容した東西ドイツは終わることとなった。そして、ソ連崩壊を導く民族的緊張が頻発することとなった。
 すなわち、ゴルバチョフがグラスノスチ及び民主化の諸政策を明らかにすると、多くの人種グループが民族感情を表明するようになった。ソ連の政治システムは全体主義であり、ナショナリズムに対する自由な議論の余地はなかった。また、「プロレタリア国際主義」という概念が深く浸透していたので、人々はナショナリズムを政治的自由の闘争の一環として捉えるようにもなった。1968年2月にゴルバチョフは共産党総会で、社会主義各地域は自らの社会的システムを選択する自由があると発表し、民族主義者も当局者もゴー・サインが出たと受け止めた。ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの紛争、1989年春にはジョージアの民族紛争が起こった。軍隊が出動して暴動を鎮圧しようとして19人以上が殺害されたが、ゴルバチョフはこの件に関する責任を頑なに拒んだ。
 1990年2月の中央委員会総会は、大統領制を採用してゴルバチョフが就任するとともに、共産党の権力独占をも解除した。この結果、1990年のリトアニアの独立宣言を筆頭に、各地で分離独立への動きが加速することとなった。結果的に言えることは、ゴルバチョフのグラスノスチで鼓舞され、また、ソ連邦の先行きが見えたことで、各共和国は自らの主張を強めることとなったということである。
○ゴルバチョフに対する評価:ゴルバチョフがクレムリンを去ってからの30年弱の間に、彼に関する歴史は何度も書き換えられてきた。民族主義者であると共産主義者であるとを問わず、国家の権力を信奉するものは、ゴルバチョフの時代を酷評する。パシフィズム及びデモクラシー、理想主義と平等に対するコミットメントを評価するものは、ゴルバチョフの中に評価すべき多くのものを見いだす。
<内外政治家の評価>
(ロシア)
○連邦評議会(ロシア上院)コサチェフ副議長:ゴルバチョフ死去は国家にとり、また、彼のおかげで生活が良い方向に変わったすべてのものにとって悲劇である。ソ連の崩壊及び彼のかつての同国人が被った困難はともかくとして。もともと間違っていたシステムを打ち破ったのはゴルバチョフであり、この国の人民のために正しい方向への道を整えたのも彼である。ゴルバチョフの活動の結末には議論があるが、彼は尊敬と記憶に値する。
○自由民主党スルツキー党首:ゴルバチョフは間違いなく彼の時代ではもっとも優れた政治家だった。しかし、ソ連で生まれたものすべてにとって、彼は複雑で議論がある歴史的人物だ。ソ連の崩壊はペレストロイカとグラスノスチの時期に始まり、ソ連を世界の政治地図から抹殺しようとしたものたちの術中にはまってしまった。
○ラブロフ外相:西側の人物は、世界政治におけるゴルバチョフの役割を褒め称えるとき、二重基準であり、地政学的目的を追求している。1年半ほど前にゴルバチョフは、彼の妻はウクライナ人(浅井:ゴルバチョフの母親もウクライナ人)だが、自分にとっては関係がないとし、ウクライナ特にウクライナ東部は常にロシアの領土だったし、ウクライナが国家的な要素を備えたのもソ連邦の一部としてである、と述べた。彼はまた、クリミアは歴史的に、そしてすべての正義の法に照らしてロシアのものだ、と強調した。ところが、西側の人物は、彼の世界政治に対する貢献を褒める際に、ゴルバチョフが以上に述べたことを無視している。しかし、ゴルバチョフが述べたことはプーチンの分析と軌を一にしているのだ。
(欧米)
○欧州委員会フォンデライオン委員長:ゴルバチョフは信用のある、尊敬される指導者だった。彼は冷戦を終結させ、鉄のカーテンを下ろすことに決定的な役割を果たした。そのことが自由な欧州への道を開いた。この遺産を我々は忘れないだろう。
○イタリア・ベルルスコーニ元首相:デモクラシーのチャンピオンが去った。ゴルバチョフは20世紀の歴史を変えた人物だ。彼の洞察力と冷静な思考は、国際政治が困難な今特に必要となっている。
○イギリス・ジョンソン首相:ゴルバチョフの死去を聞いて悲しい。冷戦の平和的終結を導いた彼の勇気と誠実とを私は常に立派だと思っていた。
○イギリス・トラス外相:彼は西側指導者とともに冷戦を終結させるために働き、世界の安全と安定に大きな貢献を行った素晴らしい政治家である。
○国連グテーレス事務総長:歴史の道程を変えた政治家だった。彼は、冷戦の平和的終了をもたらすことに他のいかなる人物よりも多くのことをした。彼は1990年のノーベル賞授与の際、「平和は類似性における団結ではなく、多様性における団結である」と述べた。彼はこの洞察力を実行し、交渉、改革、透明性、そして軍縮の道を歩んだ。
○フランス・マクロン大統領:平和のチャンピオンであり、彼の選択がロシアの平和への道を開いた。彼の欧州平和へのコミットメントが我々共通の歴史を変えた。
○アメリカ・クエール元副大統領:彼は20世紀におけるもっとも影響力のあるリーダーの一人だった。グラスノスチとペレストロイカという彼の哲学は鉄のカーテンの幕を上げ、冷戦終結への道を整えた。彼の政治家としての手腕、リーダーシップそして人類に対する関心が惜しまれてならない。
○アメリカ・ベーカー元国務長官:歴史は、祖国をデモクラシーに導いた巨人として彼を記憶するだろう。彼はソ連帝国を保つために軍事力を使用しない決定を行うことで、冷戦の平和的終結に枢要な役割を果たした。彼は正直な交渉相手であり、国内的圧力にあっても彼の言葉は信用できた。
○スエーデン・リンデ外相:1985年にゴルバチョフが世界ユース・フェスティバルで演説した際、数千人の若者の中に私はいて、抑圧と冷戦から離れる別の世界への希望を聞いた。そして彼はそれを実現した。
○モルドヴァ・ルチンスキー元大統領(1990-91年にソ連中央委員会政治局委員):私は彼を若いときから知っていたし、その時からの友達だ。彼は20世紀の歴史を変えるという巨大な足跡を残した。彼についてはこれからも議論があるだろう。自由をもたらしたという者もいるし、国家を滅亡させたと非難する者もいる。しかし、彼の意図は真剣そのものだったし、ソ連を現代的で強力な国家に変えようという野心を追求したことは、私ははっきり理解している。しかし、彼がペレストロイカに乗り出したとき、ソ連の状況がどれほど複雑であるかについて彼は想像していなかった。
○アメリカ・キッシンジャー元国務長官:彼は偉大な貢献をしたが、自分のビジョンすべてを実行することはできなかった。
○NATOストルテンベルグ事務総長:彼の歴史的改革がソ連の解体を導き、冷戦終結を助け、ロシアとNATOのパートナーシップの可能性を開いた。よりよい世界をという彼のビジョンは前例として残るだろう。
○ポーランド・ワレサ元大統領:我々は何度も会ったし、彼を素晴らしいと思っていた。もっともよく理解できなかったが。彼は共産主義を救おうとしていたが、私はそれが可能だとは考えなかった。共産主義は優れた基盤を持っているが、それを実行することはできない。実践家として、私はそれが不可能だと知っていた。彼を人格として素晴らしいと思っていた。彼は偉大な出来事にかかわった。我々はしばしば話を交わした。彼が好きにさえなった。しかし、彼がどうして共産主義を信じているのかはどうしても分からなかった。
○ドイツ・メルケル前首相:彼はユニークな世界的政治家だった。彼は世界史を書き上げた。彼は一人の政治家が世界を良い方向に変えることができることを証明した。ゴルバチョフは私の人生をも根本的に変えた。私はそのことを決して忘れないだろう。ゴルバチョフのグラスノスチとペレストロイカを追求する勇気がなかったならば、東ドイツの平和革命はなかっただろう。今日になっても、1989年に東ドイツの多くの人たちが抱いた恐怖を覚えている。1953年に戦車が押し寄せてきたように、今回もそうなるのではないかという恐怖。しかし、戦車は押し寄せず、発砲もなかった。ゴルバチョフは東ドイツの人々の平和を求める声にもはや反対しなかった。それだけではない。彼は、統一ドイツがNATOの一員になることを認めた。
○ドイツ・ショルツ首相:彼の政策はドイツの統一と鉄のカーテン崩落を可能にした。ロシアがデモクラシーをセット・アップできたのは彼のおかげだ。欧州及びドイツのこれまでの発展にとって彼がいかに重要だったかを知っている。
○ベラルーシ・ルカシェンコ大統領:彼は国際緊張の緩和と核軍縮に大きな個人的貢献を行った。彼は、グラスノスチの諸原則に基づいて社会を再建できると正直に信じていた。彼の人生すべては我々共通の祖国の命運と結びついている。