全国人民代表大会(全人代)が開かれている5月22日、習近平は内蒙古代表団の会合に参加し、発言する中で、「中国共産党の土台は人民にあり、血統は人民にある」「党の根本的な目的は人民が良い生活を過ごすようになることだ」「人民至上を堅持し、人民に緊密に依拠し、不断に人民に幸福をもたらし、人民の中にしっかりと根を下ろす」ことを強調しました。「人民至上」こそは中国共産党の根本の執政理念であると改めて確認したのです。
 同じ5月22日の学習時報(中央党校の機関紙)は、同校マルクス主義学院副院長の辛鳴教授署名論文「人民を中心となすという理論的自覚を堅持する」を掲載しています。習近平発言と同じ日付であることから見ても、この論文が習近平の「人民」及び「中国的民主」に関する認識の所在を明らかにしていると理解して大過ないと思われます。大要を翻訳紹介するゆえんです(強調は浅井)。
 辛鳴論文は、私がこれまで接してきた論文の中で、「人民」及び「中国的民主」とは何ものであるかについてもっとも立ち入った内容を持っています。特に、「人民」が「最大多数」と「一人一人」という二つの次元からなるものであること、「中国的民主」とは「選挙民主」と「協商民主」とのいわば合成物であること、を明確に指摘したことは極めて重要な意味があると思います。
 すなわち、「人民」が集合概念であるだけではなく、「一人一人」という個別概念(君、私、彼)をも含むという指摘は、新しい時代に入って、人々が物質的豊かさだけではなく精神的豊かさをも求めるに至っているという指摘と併せ読むとき、習近平・中国が中国の将来像についても、タブーを設けないで考えている可能性を強く示唆していると思います。
 また、西側デモクラシーの産物である「選挙民主」と、中国デモクラシーの代名詞ともいうべき「協商民主」との関係について、選挙民主を否定するのではなくて基本的に肯定し、その形骸化を防ぎ、「民主」の内実化を図るものとして「協商民主」を明確に位置づけていることも、辛鳴論文の今ひとつの大きな特徴です。5月2日のコラムで、「中国的民主=選挙民主+協商民主」と紹介しました。辛鳴論文はその内容をさらに具体的に、かつ、立ち入って説明するものです。

 中国共産党の人民に関する立場は、歴史及び社会発展の異なる時期及び異なる段階において異なる表し方及び異なる実現形態があった。18回党大会以来、中国共産党はそれを「人民を以て中心となす」("以人民為中心")に凝縮するとともに、中国経済社会発展、政治文化建設さらには外交国防の各方面を統一的に導く、堅持しなければならない基本方針としている。習近平は、経済社会発展を「人民を以て中心となす発展思想を中心にして実行する」、党の文芸工作、新聞世論工作を「人民を以て中心となすことを工作上の導きとする」、哲学社会科学を「人民を以て中心となすことを研究上の導きとする」、国家安全保障、新時代における中国の特色ある大国外交、対台湾工作においては「人民を以て中心となす発展思想を貫徹する」等々と述べている。「人民を以て中心となす」は実践上の基本的より所であって、抽象的かつ難解な概念ではない。しかし、人民を以て中心となすことの理論的含意及び論理を明らかにすることは、実践の中でよりしっかりと貫徹し、具体化する上で非常に意義がある。
<人民を心に抱き、「最大多数」と「一人一人」を終始忘れない>
 人民を以て中心となすことを堅持するに当たって、まず明確にする必要があるのは人民とは何か、人民はどこにあるかという問題である。中国共産党にとって、「人民」は単なる言葉・レッテルであったことはなく、充分に確立した含意と方向性とを併せ持っている。中国共産党の政治字典において、「人民」とは鮮明な政治階級としての属性に加え、二つのカギとなる次元が含まれる。一つは「最大多数」であり、今ひとつは「一人一人」である。
 「最大多数」という次元の意味することは、「人民全体」という点にある。習近平は、『共産党宣言』の「プロレタリア階級の運動は絶対多数による、絶対多数の人々の利益を図る、独立した運動である」というくだりをしばしば引用する。このくだりは、共産党員の政治志向を摘記するとともに、社会主義の政治品性をも明らかにしている。市場経済の環境のもとでは、一つの社会は客観的に、競争を通じて活力を維持する異なる階層及び利益集団に分化するが、一つの国家の人民は、「君たち」「彼ら」「我々」に分かれておのおのが勝手なことを行うということであるべきではなく、また、そうあってはならない。中国共産党にとって、人民は分かつことのできない全体であり、しかも必ずや一つの社会の中における最大多数である。したがって、中国共産党の文献においては、「もっとも広範な人民」「全体の人民」等々の表現が常に使用されることが理解されるのである。中華民族の偉大な復興という長い歴史の道程においては、我々はとりわけ、最大多数の全体としての人民を強調する。習近平の発言の中には、「国家が良くなり、民族が良くなってこそ、みんなが良くなる」という意味深長な言葉がある。「みんな」("大家")とは何か。それはすなわち、人民という旗の下で高度に団結した、共同の利益、共同の夢を持ち、共同で奮闘することができる最大多数の人々のことであり、中国憲法に言う「社会主義労働者、社会主義事業の建設者、社会主義を擁護する愛国者、祖国統一を擁護し、中華民族の偉大な復興に力をいたす愛国者のすべて」のことである。
 人民に対する認識においては、一部分で全体を括ってしまうことも、局部的一時的現象で惑わされることもあってはならないし、一部の人間を以て最大多数に置き換えてもならない。(鄧小平のいった)一部の人を先に富ませることの意義と価値は、「先富が後富を導く」ことにあり、「最終的に共同富裕に到達する」ことにある。先富は手段に過ぎず、共富が目的である。共産党のこの立場は未だかつて変化したことはない。「共同」とは正に社会の中の最大多数のことである。習近平は、「共享という理念の本質は、人民を以て中心となす発展の思想を堅持することであり、その体現するものは段階的に共同富裕を実現するという要求である」と強調している。
 「一人一人」という次元の意味することは、人民の具体化(具体的な人民)という点にある。全体としての人民というのは抽象的な概念ではなく、最大多数の中にいる一人一人のあなた、私、あの人によって構成されている。習近平は、「小康社会を全面的に建設する上では、一人として欠くことはできない。共同富裕への路程においては、一人として遅れることがあってはならない」と強調する。この言葉は中国共産党の人民観の最高の表れである。中国共産党にとって、一人でも小康に到達しない限り、党の人民に対する厳粛な誓約が実現したとは言えない。正確な扶貧、正確な脱貧における「正確」とは、中国社会の一人一人の貧困な人口まで至るということであり、平均値によって大多数をカバーすることはしないし、ましてや貧困な人口を統計上の数値で「小康にさせる」ことはあってはならない。
 我々が「全身全霊で人民のために服務する」という時の「服務」の対象は、「最大多数」と「一人一人」が高度に統一した人民である。「我々は始めから終わりまで人民大衆を心と脳に収める」という際の「収める」対象もまた、この「最大多数」と「一人一人」が高度に統一した人民である。中国共産党は以上のように認識するし、以上のように実践するのである。
<人民のために(活動する)に当たっては、「獲得感」を発展におけるもっとも鮮明な価値志向とする>
 習近平は、「人民の素晴らしい生活に対する志向、これが我々の奮闘目標である」と述べた。人民が思い、予想し、願うことを最高の価値志向とし、中国社会の発展の成果を人民の獲得感、幸福感、安全感に真に転化させること、これこそが中国共産党の初心・使命として自らに課す自覚的任務である。
 発展は人類社会の恒久的テーマである。しかし、発展のための発展であってはならず、発展そのものを目的とすることがあってはならない。中国社会についていえば、発展は正しい道であり、人民のための発展は正しい道の中のもっとも正しい道である。発展の成果が人民の切実な獲得感に転化できず、素晴らしい生活の掛け値なしの改善に体現できないというような発展は意味がないし、持続することもできないし、追求する価値もない。
 18回党大会以来、我々は「二つの同じ歩み」を堅持している。それはすなわち、住民の収入の伸びと経済発展が同じ歩みであること、労働報酬の伸びと労働生産性の向上が同じ歩みであることをいう。我々はまた「二つの向上」を堅持している。すなわち、国民所得分配において住民所得の比重を向上すること、第一次分配において労働報酬の比重を向上すること、の二つである。我々はさらに、人民のためのより良い教育、より安定した仕事、より満足のいく収入、さらに安心できる社会保障、より高度な医療衛生サービス、より快適な居住条件、より麗しい環境、より豊かな精神文化生活等々に務めており、人民の獲得感は顕著に高まってきている。
しかし、新しい時代に入るとともに、社会の主要矛盾には重要な転換が生じている。「人民の素晴らしい生活上の需要」における内容はさらに広範となっている。すなわち、これまでの「物質文化」における如上の客観的な「ハード面の要求」を全面的に含むだけにとどまらず、この基礎の上で派生してくる、精神文化から政治生活に至る、また、現実の社会的地位帰属感から心理的期待、価値観等々に至る、より主観的色彩を備える「ソフト面の要求」までをも含むようになっている。
 したがって、人民の獲得感について語るに当たっては、「絶対的な」獲得感だけを見るにとどまっていてはならず、また、人民大衆が昨日よりは今日、そして今日よりは明日得るものがさらに多くなるということで満足していてはいけないのであって、「相対的な」獲得感についても力を入れる必要がある。新発展の理念を堅持し、人民の獲得するものを、社会全体の発展進歩及び市場における異なる要素の獲得するものとの間でおおむね協調させ、同じ方向に向かって進むようにさせること、これがすなわち相対的な獲得感の意味するところである。絶対的獲得感の満足から相対的獲得感まで向上させること、この変化が中国社会の発展における価値志向の実際的内容を豊富にし、充実させており、また、中国社会発展の価値志向におけるより高いレベルを提起し、さらには人民を以て中心となす発展思想が含意する価値志向の長期目標を際立たせている。
<人民に依拠し、「当家作主」の堅固な制度的保障を打ち固める>
 人民を以て中心となすことを治国理政において体現するということは、国家のすべての権力が人民に属することを堅持し、人民の主体的地位を堅持し、人民が主人としての身分において国家権力を行使することを堅持するということである。一連の制度的配置と政策設計を通じ、人民の当家作主の権利がさらに充分に保障を得ることは、人民を以て中心となすことにおける最重要事項である。
 人口が14億人以上の大国・中国にとって、政治制度の配置においては、最大多数の人がこの制度を掌握し、この制度を使用することができること、この制度を運用して自己の権利を保障し、自己の権利を行使できることが絶対的必要である。間もなく70年という歴史をもつ人民代表大会という制度は正にその種のものだ。
 中国共産党は、民主なくして社会主義はなく、社会主義現代化もなく、中華民族の偉大な復興もないということを知悉している。一国家の人民の民主的権利というものは、選挙時の投票という権利だけに表されるだけではなく、それにも増して、日常の政治生活の中で持続的に参与するという権利、すなわち民主的意思決定、民主的管理、民主的監督を持つことに表される。真の民主とは、十全な制度上の手続きを必要とするにとどまらず、十全な参与という実践を必要とする。そのためには、民主の形態を豊富にし、民主のチャンネルを開拓し、民主の制度の中国的なプログラムを模索することが必要であるし、人民が選挙以外の制度及び形態を通じて国家生活及び社会生活の管理に参与できるようにすることが必要である。
 18回党大会以来、人民代表大会を堅持し、十全にするという基礎の上で、我々は社会主義協商民主を積極的かつ効果的に推進し、人民の当家作主にとっての制度的保障を増加した。協商民主は選挙民主以外の権利の空白を埋めるものである。すなわち、選挙の時に公約を並べ上げるが選挙後には誰もそのことを問いたださないという現象が出現することを防止し、現代の西側民主制度における「権利のレーム・ダック化」現象を効果的に解決することができる。協商民主は選挙民主の根本的な意義を否定するのではなく、選挙民主の実践上のパラドックスを直視し解決するものである。すなわち、選挙民主を行うと同時に、協商民主によって補い、衆知を集め、民主的意思決定を行うことを通じて、全社会の意向及び要求を探し出すという最大公約数の基礎の上に選挙民主を築き、民主の結果が民意と民心をより良く反映するものとなるようにする。中国社会主義制度の下においては、物事は協議し、衆人にかかわることは衆人が協議し、協議においては当家作主、協議のあとは権利行使すること、これこそが人民民主の要諦であり、それこそが真の意味における人民を以て中心となすことなのだ。
<人民に服務し、自覚的に人民大衆の歴史創造の「道具」になる>
 人民を主人として心の中で最高の地位におくということは、絵空事ではないし、絵空事にすることがあってはならず、そのもっとも本質的な表れは、中国共産党が自覚的に人民大衆の道具となるということである。毛沢東は7回党大会において、「大衆は実践の中で自分たちの領導の道具、自分たちの領導者を選択する。選ばれるものが、仮に自分はたいしたものだと考え違いし、自覚的に道具とならないとするならば、それは間違いだ。我が党が人民をして勝利させるためには道具となるべきであり、自覚的に道具となるのだ。…これが唯物主義の歴史観である」と指摘した。鄧小平は8回党大会でさらに明確に、「プロレタリアの政党は人民大衆を自分の道具とするのではなく、人民大衆が特定の歴史段階において特定の歴史的任務を完成するに当たって、自らをそのための一種の道具と自覚的に認定する」と述べた。18回党大会以来、全面的に従厳治党という戦略的配置を行ってきたのは、畢竟するに、人民大衆がより使い慣れた、より使いやすい道具で歴史を創造し、世界を変えるようにするためであり、人民大衆が中国共産党を通じて歴史を創造する、真正にして現実的な力を持つようにするためである。
 中国共産党が自らを「パイオニア(前衛)」と位置づけることそのものが、道具という身分における役割の自覚である。中国共産党規約は明確に、「プロレタリア階級及びもっとも広範な人民大衆の利益を除いて、自らの特殊な利益を有しない」「党及び人民のために何時でもすべてを犠牲にする準備をする」ことを提起している。この一連の要求は、中国人民のために犠牲、闘争をいとわない鋭い武器を作りだし、「我無我にして、人民に背かない」という、勝利を収める決め手を作り出す。このような名実ともに具わった政党があり、このような党が領導する国家及び政府があることにより、人民大衆はさらなる力、方法、手段を以て市場、資本等の外的力との闘いにおいて主動的地位を占め、自らの意思に基づいて市場を作り出し、資本を制御し、市場及び資本を「掌に用い」、「主客逆転」させないことができるのだ。
 共産党員及び領導幹部は、人民の前で「人よりも優れている」とか「専業に基づく分業」などと絶対に口にしてはならない。党員幹部のもっとも基本的な身分は勤務員であり、もっとも本職の仕事は人民に服務することである。人民大衆の声に耳を傾け、人民大衆の訴えを理解し、基層に入り込んで大衆と職住労働をともにする過程の中で大衆の訴えを理解することこそが、真に本分を尽くすことであり、専業に徹することなのだ。
 人民に歩み寄り、大衆に近づくということは、人民に服務し、人民のために仕事し、人民のために幸福を図ることである。しかしそうすることによって、中国共産党員の収穫はさらに多く、さらに豊富に、さらに尊いものとなる。心と心をあい交わすことにより、自ずと肝胆相照らすことになる。我々が心の中に人民を据え付ければ、人民もその心の中に我々を据え付けるだろう。我々が人民を身内とすれば、人民も我々を身内とするだろう。人民大衆が後ろ盾となれば、如何に大きなリスク・挑戦・困難をも克服することができる。中国共産党はなにゆえに世界でもっとも強大な政党になることができるのか。我々はなにゆえに世界にもまれなる発展とガヴァナンスにおける奇跡を創造することができるのか。それは、我々の背後に「歴史の創造者」が立っており、我々が「世界の歴史を創造する動力」を擁しているからである。