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中国に関する私の見方:疑問・批判へのお返事

2018.08.11.

最近私がコラムで書いた中国関連の認識・判断について、疑問・批判のメールをいただきました。私の考え方に対する丁寧な問題提起であり、また、私の考え方に対して示される代表的な疑問・批判を提起してくださっていると思います。まず、この方のメールの内容を紹介(この方の個人情報にかかわる部分を省きます)し、その上で、私のお答えを記します。さらに多くの方から、疑問・批判をいただければ幸せです。そうしてこそ、中国に対するあるべき認識を皆さんと共有できることになると思うからです。

最近、「中国をどう見るか」という記事を書かれ、考えることができました。現在の日本の論壇、ジャーナリズムで、単細胞的近視眼的な考えが幅を利かせているとは、私も承知しております。
お考えの基本には、「歴史的思考」と「他者感覚」(あと、「個」の確立)があると、理解しています。これが大事であると考えることは、私も同じです。
そのうえで、歴史的思考に立つなら、中国において人権(「普遍的価値であることを認める」と書かれましたが)の広がりは、今、どのあたりにあるのだろう、そして将来はどうなるのだろうということです。たとえていえば、「一国両制」が始まって20年たちました。香港の中国化、だけでなく中国の香港化をも含意すると思うのですが、あと30年後には、香港並みの自由は実現すると考えてよいでしょうか。
最新の記事で紹介された社説にある「中国が最終的に経済的グロスでアメリカを超える」日が来た時には、人権でも世界のトップレベルになる可能性はあるでしょうか。もちろん、歴史の発展が弁証法的であるならば、単純に進むわけではないでしょうが、そのあたりを考えてこそ、講演で先生を批判される方々を納得させられるのではないかと思います。
また、他者感覚ということについて、相手側の思考を内在的に理解することが大事だとは、私も理解しています。その相手にも、「表と裏」があろうかと思います。「裏」とはご承知の通り、内部を意味しますが、中国共産党の公認メディアには載らない、発せられたらすぐ削除されてしまう論説も、中国を知るうえで大事ではないかと思います。最近、清華大学法学院のある教授が、政府に批判的論考を書かれたことを知りました。
なお、「正直言って、私のような者は中国社会では生きていけないだろう。なぜならば、私のような発想・考え方のものが中国社会で自らを貫ける自信はないからだ」と書かれたことは、正直よくわかりません。誰でも生きていける社会でないといけないのではないでしょうか。
なお、「左」の側の方々が中国を批判されるのは、中国だからではなく、社会主義・共産主義の理想に照らしてではないでしょうか。現代中国は、社会主義どころか、「国家独占資本主義」のように見えてしまいます。なお、キューバのような貧乏な国でも医療と教育は無料なのに、宇宙開発にまでのりだしている経済大国の中国でそれができないのか、そして多くの方々が、日本の保険医療にただ乗りすべくやってこられ、日本の保険財政をゆるがしかねない事態に至っているというのは、どういうことなのだろうかと考えてしまいます。
この方の疑問・批判のポイントをまとめると以下の6点ですので、一つ一つに即してお答えしたいと思います。
〇「歴史的思考に立つなら、中国において人権(「普遍的価値であることを認める」と書かれましたが)の広がりは、今、どのあたりにあるのだろう」
 私の尊厳(人権。ただし、私は「尊厳=人権」とは認識しません。立ち入るのはここでは省略しますが、尊厳は普遍的価値、人権はそれを実現・全うするために編み出された法的概念、という理解です)及びデモクラシーに関する基本的認識は、①尊厳(人権)・デモクラシーは普遍的価値として今や国際的に広く承認されている(例:国連憲章及び人権関連諸条約)、しかし、②無政府的国際社会(世界政府が存在しない、主権国家を主要成員とする国際社会)の存在を前提とする限り、尊厳(人権)・デモクラシーに関する認識及びその具体的ありようは、国ごとの歴史、文化、宗教、経済発展段階等に即して様々な「顔」(定義・具体的態様)を持つことを承認しなければならない、ということです。
 国際人権規約が市民的政治的権利に関するB規約と経済的社会的文化的権利に関するA規約から成っていることは皆様も御承知のとおりです。いち早く先進国となった欧米諸国は市民的政治的権利をより重視し、途上諸国及び社会主義諸国は経済的社会的文化的権利をより重視したことを背景として、この二つの人権規約が成立しました。この事実そのものが、人権の概念としての多様性(今日では発展権、環境権、平和への権利の総称である第三世代の人権も登場)とともに、その実現は歴史・文化・宗教・経済発展段階においてそれぞれが独自性を持つ各国ごとに異なる歴史的プロセスをとらざるを得ないことを示しています。
 尊厳(人権)及びデモクラシーという概念を生み出したのは古代ギリシャ文明、古代ローマ法、キリスト教を共有する欧州です。したがって、欧州(及びアメリカ)が市民的政治的権利(「自由」)を重視するのは理解できることです。しかし欧米諸国でも、市民的政治的権利を享受する層は、経済的社会的発展に伴って広がっていったことは歴史の客観的事実です。もっと言うならば、これら諸国においても、資本主義体制(特に今日の新自由主義的資本主義体制)のもとで貧富の格差が拡大しており、経済的社会的文化的権利の実現の必要性が再び指摘される状況にもなっています(「福祉国家」論、日本における憲法第25条問題)。
 中国について言うならば、世界第2位の経済大国であると同時に、世界有数の途上国であり、また、ソ連亡き後の最大の社会主義国でもあります。中国は、A規約を批准しています(2001年3月27日)が、B規約については署名している(1998年10月5日)けれども、批准していません。中国の人権に関する基本的考えを乱暴に私なりの表現でまとめれば、「中国のような途上国においては、すべての人間が生存する権利を確保するようにすることが先決かつ最重要課題であり、その課題実現に障害とならない範囲で言論の自由(市民的政治的権利)を認める」ということです。ちなみに中国は、尊厳(人権)及びデモクラシーが普遍的価値であるという欧米諸国の「常識」を受け入れているわけでもありません(後述参照)。
 「人権の広がりがどのあたりにあるのだろう」という問いかけは、特定のモノサシを前提にしていると理解されます。しかし、問題は何をもってモノサシとするかです。欧米的人権概念(B規約)をモノサシとするならば、中国は「人権後進国」のカテゴリーに入れられるでしょう。しかし、生存権及び発展権(A規約)の実現をモノサシとするならば、中国はかつて2億人以上と言われた絶対的貧困人口を2017年には5500万人にまで減らし、2020年までにはこれをゼロにすることに取り組んでいるわけで、脱貧困においては国際的に高く評価されている事実を無視することはできません。したがって、以上の問いかけ自体、私はあまり意味があるものとは思われません。
ちなみに外務省WS(本年6月29日現在)によれば、B規約を批准していないアジアの国としては他に、ブータン、ブルネイ、マレーシア、ミヤンマー、オマーン、サウジアラビア、シンガポール、アラブ首長国連邦があります。他方アジア諸国の中で、国際的に市民的政治的権利の実現状況について厳しい批判があるアフガニスタン、バーレーン、カンボジア、イラク、朝鮮、クウェート、ラオス、シリア、ヴェトナム、イエメンがB規約を批准しています。したがって、B規約の批准の有無で特定の国の「人権の広がり」について判断すること自体、あまり意味があるとは言えません。むしろ中国に関して言えば、国際条約批准の「重み」(条約遵守義務)を十分に踏まえているからこそB規約を批准しないのであり、途上国である中国としては経済的社会的文化的権利の実現を優先するという基本的立場を反映していると受けとめるべきでしょう。
〇「「一国両制」が始まって20年たちました。香港の中国化、だけでなく中国の香港化をも含意すると思うのですが、あと30年後には、香港並みの自由は実現すると考えてよいでしょうか」
 はじめに確認しておく必要があるのは、「一国両制」(あるいは「一国二制」)という言葉の含意です。これは、鄧小平が最初に唱えたもので、その意味は、香港(イギリスの植民地)、マカオ(ポルトガルの植民地)の中国への復帰をスムーズに実現するため、中国本土では社会主義制度を実行するが、香港及びマカオにおいては資本主義制度を含め高度の自治を行うことを認めるということです。つまり、「一国二制」とは優れて経済体制のあり方に関するもの(中国大陸では社会主義制度を行うが、香港、マカオでは資本主義制度を行うことを認める)であって、人権そのものに即した概念ではないのです。
確かに鄧小平(及びその後の中国指導部)は、将来的に台湾の中国への復帰をにらんでおり、アケスケに言えば、「中華民国」という看板さえ外すことに同意すれば、香港及びマカオに対して許容している以上の自由(市民的政治的権利)を保障し、台湾の現状(立法・司法・行政における現状維持及び独自の軍隊を持つことまで含む)をそのまま認める、としています。しかしその場合でも、「分離・独立の主張は認めないし、許容しない」ということです。
 以上の事実を踏まえた上でご質問に対して答えるとすれば、「香港の中国化」という言葉は「一国二制」に対する正しい理解を反映したものとは言えません。ましてや、「中国の香港化」などということは、中国のいう「一国二制」の中にはまったく含意もされていません。
〇「最新の記事で紹介された社説にある「中国が最終的に経済的グロスでアメリカを超える」日が来た時には、人権でも世界のトップレベルになる可能性はあるでしょうか」
 私たちがまず踏まえておく必要があると思うのは、中国は古代から様々な政治思想が花開いた(諸子百家)国ですが、様々な政治思想を通じて貫いているのは「生きた生身の人間に対する関心」であるということです(孔子『論語』:「季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死」)。一方、尊厳(人権)・デモクラシーの思想は、すでに述べたように、古代ギリシャ・ローマ文明、キリスト教、ルネッサンスを背景とした欧州に起源があります。そういう思想水脈の歴然とした違いを踏まえるとき、中国が「経済的グロスでアメリカを越える」日が来たときでも、中国が人権に関する欧米的モノサシをそのまま受け入れるかどうか自体がそもそもクエスチョン・マークです。「人権でも世界のトップレベルになる可能性があるか」という問いは、明らかに欧米的モノサシに即してのトップクラスになるのかということでしょうが、その問いは中国に対しては的外れであるとしか、今の私には言えません。
この関連で素人ながら興味深く観察しているのは、イスラムに基づく「宗教的デモクラシー」を標榜しているイランにおいては、尊厳(人権)、デモクラシーについて違和感なく論じられる現実があるということです。私はイスラムに関してはずぶの素人であり、何も有意なことを言えませんが、一神教であるイスラムとキリスト教(さらにはユダヤ教も?)においては、神と人間が一対一で相対する点における根源的共通性が関係しているのかな、と漠然と考えたりすることもあります。
〇「他者感覚ということについて、相手側の思考を内在的に理解することが大事だとは、私も理解しています。その相手にも、「表と裏」があろうかと思います。「裏」とはご承知の通り、内部を意味しますが、中国共産党の公認メディアには載らない、発せられたらすぐ削除されてしまう論説も、中国を知るうえで大事ではないかと思います。最近、清華大学法学院のある教授が、政府に批判的論考を書かれたことを知りました」
〇「「正直言って、私のような者は中国社会では生きていけないだろう。なぜならば、私のような発想・考え方のものが中国社会で自らを貫ける自信はないからだ」と書かれたことは、正直よくわかりません。誰でも生きていける社会でないといけないのではないでしょうか」
この二つの提起については、関連するので、まとめてお答えします。中国社会におけるいわゆる「体制批判」の知識人や言論人さらには人権派活動家が共通して主張するのは、中国においても政治的自由が認められるべきであるということであり、要すれば欧米的モノサシでいう人権を無条件かつ即時に中国社会で実現すべきであるということです。 私が「私のような者は中国社会では生きていけないだろう」と述べたのは、私は尊厳(人権)及びデモクラシーの普遍価値性を確信し、今日の日本を前提とするとき、市民的政治的権利も経済的社会的文化的人権もすべての国民に保障されるべきである(現実はそうなっていないので改めなければならない)と確信するものであり、したがって、中国における「体制批判」者と同列・同質であるから、中国社会では生きていけない、という判断を述べたものです。
しかし、私は冒頭で述べたとおり、無政府的国際社会(世界政府が存在しない、主権国家を主要成員とする国際社会)の存在を前提とする限り、尊厳(人権)・デモクラシーの具体的ありようは、国ごとの歴史、文化、宗教、経済発展段階等に即して様々な「顔」(具体的態様)を持つことを承認しなければならない、と認識していますので、中国におけるいわゆる「体制批判」の人々の考え・立場については、他者感覚を働かせるまでもなく理解できますが、彼らが体制による批判・弾圧の対象になることについても、他者感覚をフルに働かせれば、十分に理解できるのです。
なぜならば、人権の含意に関するモノサシが体制側と「体制批判」者とではまったく違っており、両者には接点がない、また、途上大国である中国における最大かつ喫緊の人権上の課題は今日なおA規約分野に属する人権の実現であるという体制(「表」)側の主張には説得力があることを認める必要がある(語弊を恐れずにいえば、いわゆる政治的「自由」はまだ今日の中国では贅沢に属するし、これを仮に認めた場合、中国は収拾の付かない混乱に陥る可能性が大きく、国家そのものが空中分解する可能性だってある)からです。
 私の30年以上の親交のある中国人夫妻(両者とも党員であり、かつて大学教員でした)が最近話してくれたことを参考までに紹介します。特に文化大革命でつらい日々を過ごした夫人の方は、かつて中国共産党による支配そのものに厳しい批判を持っていました。しかし、最近、私が「習近平を特別扱いすることは、個人崇拝に直結するし、行きすぎではないか」という疑問を口にしたとき、その夫人が、「浅井の言うことは分かるし、個人的には確かに疑問もある。しかし、中国人の性格(魯迅「一億の砂」)を考えるとき、中国社会がまとまりを保つことは絶対に必要であり、中国共産党による統治のもとでのみ中国社会の今日に至る発展と人民生活の向上が可能となったし、今後数十年もその状況は変わらない」と述べたのです。改革開放のもとで40年を過ごした彼女の認識の大きな変化を実感したのでした。
〇「「左」の側の方々が中国を批判されるのは、中国だからではなく、社会主義・共産主義の理想に照らしてではないでしょうか。現代中国は、社会主義どころか、「国家独占資本主義」のように見えてしまいます。なお、キューバのような貧乏な国でも医療と教育は無料なのに、宇宙開発にまでのりだしている経済大国の中国でそれができないのか、そして多くの方々が、日本の保険医療にただ乗りすべくやってこられ、日本の保険財政をゆるがしかねない事態に至っているというのは、どういうことなのだろうか」
 最後の点(「多くの方々が、日本の保険医療にただ乗りすべくやってこられ、日本の保険財政をゆるがしかねない事態に至っているというのは、どういうことなのだろうか」)については、私としてははじめて聞くことであり、事実関係も承知していませんので答えられません(私の理解では、中国の富裕層が優秀な日本の医療を受けるのにカネを惜しまない、ということです)。
 「「左」側が批判するのは中国だからではなく、社会主義・共産主義の理想に照らしてではないか」というご指摘に関しては、二つ疑問があります。一つは、「社会主義・共産主義の理想」と言いますが、そもそもその「理想」とは何かということです。中国自体が、中国の現状を厳しく自己認識して、「小康」社会の実現を目指していると言っているのに、「日本の「左」側の人々が仮に曖昧模糊たる「理想」をモノサシにして批判しているとすれば、それは非科学的社会主義と言わざるを得ないし、あまりに酷というものではないでしょうか。
 もう一つの疑問は、中国(及び朝鮮)については声を大にして批判するのに、同じく社会主義を標榜しているキューバ、ヴェトナム(及びラオス)についてはほとんど批判に接しないことです。ご指摘のとおりにキューバでは医療と教育は無料であり、それは立派なことですが、欧米基準のモノサシで言う人権実現度は、アメリカ国務省によれば、キューバと中国は同類視されています。
なお、13億の中国でも義務教育は無料ですし、医療に関しては、改革開放政策のもとで医療保険制度が整備されてきているという事実があります。先ほど紹介した友人夫妻の夫人は地方出身者ですが、その地方の農村ではかつて医者にかかること自体が不可能であったのに、今日では誰もが安心して医者にかかることができるようになった、と述懐していました。成績については何も言わず、問題点だけを指摘するというのは「あら探し」と同じではないでしょうか。
 また、中国(及び朝鮮)に対する「左」側の批判の厳しさは、かつて日本共産党と中国共産党(及び朝鮮労働党)が厳しい対立状態にあった(朝鮮労働党とは今日も続いている?)ことが「尾を引きずっている」ということがないでしょうか。私が憂慮するのは、「左」側の批判の出発点が「中国(朝鮮)嫌い」にはないとしても、結果的には、多くの日本人を根拠なく支配している「中国(朝鮮)嫌い」と共鳴し合い、増幅し合うことになってしまっており、日中(日朝)友好実現に必要な人民レベルの裾野形成が妨げられていることです。  最後に、「現代中国は、社会主義どころか、「国家独占資本主義」のように見えてしまいます」というご指摘に関しては、私は経済学については暗いので、まずネットで検索した限りでの様々な定義をまず確認したいと思います。
〇ブリタニカ国際大百科事典小項目事典:「国家が経済に介入する度合いが高まった第1次世界大戦後の資本主義に関するマルクス経済学の用語。国家独占資本主義は,独占資本が独占利潤の追求とその存立の基盤である資本主義体制の維持を目的に,国家権力を従属させ経済社会に支配力を確立している資本主義で,資本主義の最高の発展段階である独占資本主義の高度な形態であるといわれている。資本主義はその発展の過程で資本の集積と集中を進め,19世紀後半からは独占資本が優位を占める独占資本主義の段階に入ったが,さらに第1次世界大戦以降資本主義体制が動揺しはじめたのを契機に,独占資本主義は国家独占資本主義への転化の過程に入り,1929年に始る世界大恐慌がこの転化を決定的にしたとされている。」
〇世界大百科事典:「独占体(市場を独占的に支配している巨大企業)が国家権力・機構と密接に結びついた資本主義経済体制。19世紀末から資本主義はいわゆる帝国主義段階へ移行する。この段階の特色は,これまでの自由主義段階に比較して,国家と経済活動の関係がいっそう密接になったということである。その一つの理由は,世界資本主義の軸をなしていたイギリス資本主義に対するドイツをはじめとする後進資本主義諸国の世界市場における競争力の強化に,国家の政策的介入が必要であり,有効であったからである。」
〇日本大百科全書(ニッポニカ):「資本と生産を高度に集中した少数の独占資本が支配するに至っている資本主義の独占資本主義の段階においては、戦争や長期不況などの経済体制の「危機」を管理するために、全面的に国家の制度的・政策的な介入が行われるようになった。このようにして成立した国家と資本主義体制との「融合」体制を国家独占資本主義という。国家独占資本主義ということばは、第一次世界大戦下の資本主義体制の発展傾向を示すものとして、ロシアの革命家レーニンによって、「戦時国家独占資本主義」体制という意味で用いられた。さらにソビエト社会主義体制の出現、1930年代の長期不況などにより、資本主義体制の解体と動揺が進む一方で、いわゆるケインズ的経済政策など資本主義経済への政策的介入や補整が広く制度化されていくに伴って、国家独占資本主義体制が先進資本主義経済の一般的な特徴となっていったのである。つまり国家独占資本主義とは、私的市場経済を基本制度とする資本主義が、その独占的発展段階において、資本主義的市場体制の(戦争や不況という)危機的状況を克服するために、国家の政策的介入と補整を全面的に求めた結果として登場する公私混合的な二重経済体制の、マルクス経済学からする命名なのである。
 ここから国家独占資本主義とは、資本主義の全般的危機の時代に、独占資本の支配体制を維持・存続するために採用される国家の権力と経済力の利用形態とみなされ、その究極的な本質は、国家財政や金融政策などの国家の政策機能や制度による独占利潤の確保にある、とされる。そしてまた国家独占資本主義は、すでに「死滅しつつある資本主義」としての独占資本主義の政策的延命策である限り、その体制のもとでは国民大衆に対する支配と収奪が強まり、軍事経済化と経済活動の停滞化と腐朽化が進むと批判される。
 資本主義体制のもとで国家による経済への政策的介入や規制などの制度化が広く進展したのは、第二次世界大戦以降である。しかし、以上のようなマルクス経済学の大方の予想に反して、戦後の資本主義経済は持続的に成長したという現実を背景に、今日、国家独占資本主義概念は再検討を迫られている。まずこのような国家独占資本主義説では、戦後の日本などの非軍事的経済発展の事例を説明できないし、戦後の経済成長によってもたらされた物質的豊かさも正当に説明できない。
 より根本的には、レーニン流の「独占資本主義(=帝国主義)論」だけでは、現代の資本主義の産業構造や企業組織の多面的な発展形態を十分に解明できないように思われるし、また現代の政策や介入の諸制度のもつ役割を「独占資本の利潤実現の手段」と一面的に規定しえないという問題もある。国家の経済機能が私的独占資本のために役だっていることは否定しないとしても、他面では福祉的改良や経済安定の制度として機能している側面もあることは無視できないであろう。[吉家清次]
『『さしせまる破局、それとどうたたかうか?』(レーニン全集刊行委員会訳『レーニン全集第25巻〈1917〉』所収・1957・大月書店) ▽大内力著『国家独占資本主義』(1970・東京大学出版会) ▽正村公宏著『現代の資本主義』(1977・現代の理論社) ▽大内秀明・柴垣和夫編『現代の国家と経済』(1979・有斐閣)』」
いずれの解説にも共通している国家独占資本主義の本質・特徴は、「独占資本が自らの支配を確実にするために国家権力を利用し、支配する」という点にあります。その特徴・本質に即して見れば、中国の現実が国家独占資本主義とは無縁であることは直ちに分かります。なぜならば、1949年以後の中国は資本主義の残滓を清算し、社会主義経済制度の実現を目指してきたのであり、改革開放政策を採用した1978年以後も、資源配分における市場経済制度の合理性を承認し、また、基幹産業部門における国有企業を中心とした混合経済システムを採用していますが、いわゆる「独占資本」なるものは存在する余地がありません。あるいは、中国共産党自体が「国家独占資本」であるとおっしゃりたいのかもしれませんが、それは客観的根拠を備えない、いわゆる「レッテル貼り」に等しい非科学的態度だと言わざるを得ません。