21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

中国をどう見るか

2018.07.26.

7月26日付朝日新聞朝刊に、元中国総局長の藤原秀人氏の「"礎"失い 迷走続く日中」と題する文章が掲載されていました。特に私が違和感を覚えたのは習近平外交に対するステレオタイプな次の評価です。

最高指導者となった習が繰り出す外交はトウ(鄧小平)やその後継者たちとは異なる、強硬なものだった。
 習は「中華民族の偉大な復興」とのスローガンを掲げ、大国の位置を固めようとしている。最優先する米国との関係を慎重にコントロールしつつも、南シナ海、東シナ海、そして太平洋への勢力拡大をはかる。
 97年、トウの死去を北京の日本大使館専門調査員として迎えた東大教授の高原明生は「習氏は大きくなった国力を駆使したいのだろう」という。一方、対中外交に深く関わった元外交官は「習氏は国を任されてから、党独裁を維持するのに神経質になっている」と、余裕のなさを見て取る。
 米中が通商問題で鋭く対立するなか、習指導部は尖閣諸島をめぐる対立で冷え切っていた日本との関係改善を試みている。日本側も中国が進めるシルクロード経済圏構想(一帯一路)への協力を表明するなど、雪解けムードが強まる。
 平成の30年で、日中の国力や世界における影響力は様変わりした。外相兼国務委員として中国外交を担う元駐日大使の王毅は「日本側がこの現実を率直に受けとめないと、中日関係を発展させるのは難しい」という。
 しかし、戦争の記憶に基づく中国人の被害意識と、いち早く経済成長を遂げた日本人の優越感は大きくは変わらない。平成に続く時代、両国関係のビジョンを描くのは容易ではない。(中略)
トウは経済を改革したが、政治は改革しなかった。しかし、民主化を進めない限り、世界とぎくしゃくした関係は今後も続くだろう。
 中国は大国化の道を大股で、音を立てながら歩む。
 中国が異形の発展を続けるなかで、日中関係にどういう指針をつくれるのか。双方で心底考えなければ、と思う。
私はすでに7月8日のコラムで、習近平外交の本質について、その最大のポイントが脱パワー・ポリティックスを目指すことにあることを指摘しました。外交に限らず、中国の内政に関しても、日本国内では、右から左まで、中国のことを批判的に観る人が多いことを私は実感しています。
 最近も、ある小さな学習会的な集まりで、北東アジア情勢と日本外交(安倍外交批判)をテーマにお話しする機会がありました。話の中心は朝鮮半島情勢でしたが、今年に入ってからの朝鮮半島情勢の急展開について、①主役は金正恩、②かくも劇的なドラマが成立したのは、勇猛果敢の金正恩、剛毅木訥の文在寅、そして猪突猛進のトランプという役者がたまたま揃ったことで可能となった(誰一人が欠けてもこのドラマは成立しなかっただろう。歴史は偶然の産物。しかし、歴史の法則性は自らを貫徹する)、③ドラマを演出した陰の立て役者は習近平・中国、とお話しした機会に、7月8日のコラムで書いた習近平外交の特徴(脱パワー・ポリティックス、歴史観・大局観・役割観を明確に意識する戦略的アプローチ、理想主義的リアリズム、2018年~2022年という中国の歴史的節目を明確に意識した外交展開)をかいつまんでお話ししたのです。
 私の発言に対しては、予想どおり、強い疑問の声が寄せられました。一つは、中国の人権状況を考えると、中国を手放しで肯定的に見ることはできないというものでした。こういう批判はいろいろなところで常に接するものです。この疑問に対する私の答えは次のようなものです。
 正直言って、私のような者は中国社会では生きていけないだろう。なぜならば、私のような発想・考え方のものが中国社会で自らを貫ける自信はないからだ。
 しかし、人権の歴史を踏まえるとき、欧米社会でもすべての人権が一気に全面的に承認され、実現したわけではない。最初は資産のある白人成人男性に限って人権は認められたのだ。経済発展に伴い、人権を認められる層が広がってきた。したがって、人権は普遍的価値であることを認める。しかし、その実現は、無政府的な国際社会という現実を踏まえるとき、各国において歴史的過程を経る必要があることを承認しなければならない。各国の発展段階を無視して、先進国のモノサシを一方的に当てはめ、そのモノサシを満たしていないからといって、批判することは人権の歴史を無視するものだ。
中国について言っても、世界第2位の経済大国ではあるが、その発展は地域によって大きな違いがあり、また、都市部と農村部・山間地帯とでは大きな格差が存在する。しかも、中国は鋭意絶対的貧困の解消に取り組んできたが、今日なお5500万人の絶対的貧困層を2020年までに貧困から抜け出させることを国策として取り組んでいる現実もある。このような国にあって、個々人の政治的市民的権利の無条件な実現を要求することには無理があることを認める必要がある(すべての人間に生存権を保障することが先決)。
 もう一つの声は、中国が実際にやっていることは、南シナ海にしても、軍拡にしても、対日アプローチにしても、パワー・ポリティックスそのものであり、到底素直には受け入れられない、とする批判でした。正直に言いますが、その発言内容は新聞・赤旗の中国関係報道を彷彿させるものでした。
 私がこの人に対して述べた要点は次のようなものです。いわゆる「左」の側からの中国批判の根底・出発点にあるのは、「中国は人権弾圧をするからけしからん」という判断であり、そこから中国のやること、なすことに対してはどうしても批判的に見ることになってしまっている。しかし、すでに述べたとおり、「中国は人権弾圧をするからけしからん」という点については、以上に述べたように、人権の普遍的価値性を承認するとともに、人権の普遍的実現は各国において歴史的過程を経る必要がある(世界政府がない無政府的国際社会においては、一国毎に人権を実現していく以外にない)ことをも承認する必要がある。したがって、「中国はけしからん」とする様々な事例については、「人権という色眼鏡」を外して、個別の問題について実事求是で評価する必要がある。南シナ海の問題については、中国がその海域の島々に対して領有権を持つことは1970年代までアメリカを含め広く承認されていたのであり、中国の拡張主義を云々することは間違いだ。尖閣について言えば、1972年に「棚上げ」することで日中間に合意ができたのに、そのような合意はなかったと言いはじめたのは日本であり、中国の主張に分がある。中国の軍拡について言えば、米日の圧倒的な軍事力に対するデタランス構築を目指すものである。このように、中国の大国主義・拡張主義の具体的証拠として指摘される問題については、すべてそうではないことを明らかにすることができる。要するに、私たち日本人は色眼鏡を外して中国を見ることが必要なのだ。

私はこの数年、緊迫し、緊張を増してきた朝鮮半島情勢に対する関心から、朝鮮半島問題を集中的にコラムで取り上げてきました。しかし、朝鮮半島が平和と安定に向かう上では、中国の役割は不可欠です。そういうときに、日本国内では、中国に対して「右」も「左」も批判的な見方が圧倒的であるということは、朝鮮半島情勢に関する見方でも偏りを生むことになってしまう可能性が大きいと思います。
 したがって、これからは、中国に関しても私なりに実像を提供していきたいと感じるようになりました。習近平外交に関するコラムはその第一弾と位置づけられます。もともと私の専門は中国でしたので、遅まきながら中国をも射程に収めるということになります。そういう問題意識で、このコラムと相成りました。