「中国脅威論」再考:私たちの思想的問題点を考え直す

2015.03.02.

*以下に紹介するのは、昨年8月20日に大阪弁護士会でお話しした「根本から見直す集団的自衛権-まだ何も終わっていない-」と題するお話しの最後の部分と、その後の質疑応答の部分です。
集団的自衛権行使には反対な人でも、「中国脅威論」に対しては肯定的に受けとめる人が多いのが日本の現状です。そして、「中国脅威論」を肯定すると、日本としてはそれに対する備えをしなければ安全が保てないという議論に対して受け身にならざるを得なくなるわけですし、安倍政権は正にそこを利用して集団的自衛権行使を正当化する主張を展開してきているわけです。
私はこれまで、「中国脅威論」の根拠として取り上げられる問題(領土問題、中国の軍事力拡張、大国主義等々)に即して、私たちの認識に誤りがあること、したがって「中国脅威論」は成り立たないこと、という形でお話ししてきました。しかし、そういう議論の仕方は、「中国脅威」は存在するという先入主に囚われている人々に対しては「馬の耳に念仏」で、まったく説得力を持たないことを痛感させられてきました。
そういう苦い経験に基づいて、私は、なぜ私たち日本人は「中国脅威論」を受け入れるのだろうか、ということを考えるようになりました。私は元々、外務省時代の実務体験の中で、中国人の思想と私たち日本人の思想との間には大きな違いがあることを実感してきました。この違いが、日本人の対中観に影響を生むのではないか、というおぼろげな意識が生まれていたのです。そして、以上の苦い経験を踏まえ、私はこの問題について突っ込んで考えることにしました。その過程では、日本政治思想史の丸山眞男だけでなく、日本思想史の相良亨、中国思想史の溝口雄三などから多大な示唆を得ました。大阪弁護士会では、私の認識的な到達点をお話ししてみました。それが以下の内容です。
お話しの後の質疑応答は、そのほとんどが中国にかかわるものでしたので、質疑応答の部分も合わせて紹介する次第です。

 安倍政権がポツダム宣言を根底から否定し、戦後体制を根本からひっくり返そうとする動きを国内向けに正当化する材料として中心に据えているのはいわゆる「中国脅威論」です。そこでお話しの最後として、「中国脅威論」についてお話しさせていただきたいと思います。
実は前回大阪弁護士会で「中国脅威論」についてお話ししたときには、「中国脅威論」の証拠とされて挙げられる具体的な事例について、一つ一つしらみ潰しに潰す内容のお話をしました。しかし、「中国は脅威だ」と思っておられる方には「のれんに腕押し」で何の積極的反応もないということを思い知らされました。
これは何も大阪弁護士会だけのことではなくて、私がこの2年来いろいろなところでお話しして実感したことでもあります。それほどに圧倒的に多くの日本人の頭の中には「中国は脅威だ」という先入主がどっかり座っていて、いくら事実関係に基づいてその先入観念には問題があることについてお話ししても、自分の頭の中で出来上がっている中国に対するイメージをチェックし直してみようと考えてくださる方はほとんどいないというのが私の実感であります。
  そこで私としては、そもそも何故にこれほど「中国脅威論」が国民的に浸透しているのかということを問い直すことが先決だと考えるようになりました。この過程ではいろいろ試行錯誤がありましたし、正直申して、「これだ」という結論に到っているわけではありませんが、「中国脅威論」がかくも広範に共有される根っこには、日本人特有の思考上、認識上の問題があるのではないかという思いを強くするようになりました。具体的には5つの問題があります。
  まず、私がもっとも重要な要素として考えていますのは、日本人の思想には普遍という要素が欠落しているという問題です。「普遍」というのは、要するに普遍的な価値とか、客観的な、俗的にいえば私たちの上に立って絶対的に存在すると認識される正義とか、価値とか、あるいは歴史的法則とか人類史的法則とか、そういうものを指します。
もう一つは歴史意識にかかわる私たち日本人の特殊性という問題です。具体的にいえば、時間という要素をどのように受けとめるかという問題です。
三つ目は、普遍という要素が日本の思想にはないことに基づいて、公と私についての日本人特有の受けとめ方が私たちの思考を支配してきたという問題があります。
  四つ目は、これも普遍という要素とかかわるのですが、日本政治思想史の丸山眞男先生が強調していた「他者感覚」という問題があります。
五つ目も普遍という要素とかかわるのですが、日本人の国際関係のあり方についての見方の特殊性という問題です。
以上の5つの要素のそれぞれについて、アメリカ、中国と比較した日本の特殊性についてお話ししたいのです。その比較に基づいて、「中国脅威論」の下地・底流としてこれらの要素の働きがあるのではないかということをお話ししたいと思います。

(1)普遍という要素

まず普遍についてですが、日本の思想には普遍という要素がないのです。これは私の実感としてずっと持っていたことですけれども、日本思想史の相良亨先生は、著書『日本の思想』の中で、「普遍的な法則・秩序を客観的原理的に追究する姿勢が、日本には基本的傾向として欠落している」と指摘しておられます。これは何も相良先生が思いつきで発言したことではなくて、万葉集から江戸時代に至る日本思想にかかわる文献を猟涉された上で、日本には普遍という要素がないと指摘されているわけです。
  丸山眞男先生も「普遍の意識欠く日本の思想」という文章の中で同じことを指摘しています。「日本の知性は魔術的なタブーの前に実にもろい」、「普遍的なものへのコミットだとか、…個性の究極的価値という考え方に立って、政治・社会の諸々の運動・制度を…批判してゆくことが」できないと述べているのです。
普遍という価値尺度(モノサシ)がないと、まず自分自身を客体視する視点を持つことができません。つまり、普遍的なものに照らして自分をどう位置づけるかという、自らを対象化し、批判的に見るという知的な営みは生まれようがないわけです。日本人には「個」を持つ人が極めて少ないのはこのことに由来すると私は考えています。
  また、普遍的な価値尺度があれば、対象を主観的に判断するのではなくて、その普遍的な価値尺度に照らして、それが正しいのか間違っているのかということを判断しようとする知的な営みが可能になります。ところが、そういう普遍的な価値尺度がない日本人は、常に物事を自分に都合のいいように理解しようとします。主観的な判断が優先してしまうということです。
以上の二つの働き、つまり、自らを客観視できず、対象・相手に対しても主観的判断しかできないという私たちの思考が、「中国脅威論」を生む根っこにあるのではないかということを私は言いたいのです。
  それに対して、アメリカ及び中国の思想においては普遍の要素が備わっています。アメリカの場合はキリスト教の神であったし、今日的には普遍的価値(universal values)とされるものです。中国の場合、古代には天という絶対的な存在があると観念され、宋という時代からは理という絶対的存在に変わってくるのですけれども、とにかく、人間の上に立つ客観的正義があるとされてきました。ですから、アメリカ人にしても中国人にしても、普遍的な価値尺度が備わっているのです。
もちろんアメリカ人の間でも「中国脅威論」はあるし、中国人は「アメリカ脅威論」について考えます。しかし、それは日本人のような主観的な思い込みとしての、先験的な「中国脅威論」ではありません。彼らなりの客体認識を踏まえた「中国脅威論」であり、「アメリカ脅威論」なのです。

(2)歴史意識

 次に、歴史意識、あるいは時間に関する感覚という要素について考える必要があります。丸山眞男先生の定式をそのままお借りすると、日本人の歴史意識は「おのずから」「つぎつぎとなりゆくいきおい」という4つの要素によって成り立っているとされます。日本人にとっては今がすべてであって、過去も未来も日本人の意識においては重要な位置を与えられないのです。
常に今が出発点になる。過去の出来事が今につながっているという意識は働かない。ですから、「歴史に学ぶ」という発想は生まれない。過去はいわば「ひからびた事実」でしかない。また、私たちはよく「未来思考」と言いますけれども、それは未来において到達すべき理想に向かっていくという意味での未来思考ではなくて、あくまで「今の延長としての未来」を主観的に表すものでしかない。
  それに対して中国の場合は、「歴史を以て鑑と為す」という、過去によって現在を批判的に照射するという歴史意識・感覚があります。この歴史意識は欧州においても存在していることは、かの有名なワイツゼッカーの「歴史を忘れるものはその歴史を繰り返す」という言葉に示されるとおりです。
  この歴史意識の有無が、靖国参拝とか侵略戦争をどのように位置づけるかということについての日中の対立の根本的な原因となっているのです。日本としては、1972年の日中国交正常化の共同声明で過去について謝ったことで決着済みであり、事あるごとに歴史問題を騒ぎ立てる中国はけしからんという発想になります。しかし、中国からすれば、過去の侵略の歴史から何も学ぼうとしない日本は再びその過去を繰り返す危険があると考えるのです。
  アメリカはどうかといいますと、アメリカは何せ国ができてから300年しかたっていないために、歴史意識はまだ未成熟です。ですから、歴史問題をめぐって緊張する日中、日韓関係に対するアメリカの曖昧模糊とした態度を示すことになります。

(3)公と私

 三つ目の「公と私」という問題につきましては、まず「公」の方からお話しします。
歴史的に公の頂点に位置するのは、中国では皇帝、日本では天皇ですが、両者の位置づけが中国と日本とではまるきり違います。天理という普遍的な価値尺度・モノサシが存在する中国においては、皇帝といえども絶対的な存在ではありません。中国においては、天理に背いた皇帝は打倒することが当然であるとされてきました。ところが普遍的な価値尺度を持たない日本では、公としての天皇、お上は絶対的存在として立ち現れるのです。
  それでは「私」についてはどうでしょうか。日本においては、私というのは、公と私という支配・被支配の関係概念において位置づけられるに過ぎません。お上の目が光っているところでは個々人はかしこまり、萎縮する以外にない。ただし、お上の目が届かないところでは自分勝手に振る舞い、欲するままに行動する。それが日本でいう「自由」ということでありました。今日でも、日本では相変わらず「お上」意識が私たちをがっちり縛っています。
しかし、アメリカの場合、独立宣言に端的に表明されているように、個人としての「私」は、「公」としての国家・政府と独立しており、国家・政府が主権者である人民の意思に反する存在となるときは、これを変える権利を有すると位置づけられています。 日本とアメリカとの間のこの違いを考える上では、「公共の福祉」という概念について考えると分かりやすいと思います。アメリカにおいては、個人の人権は他者の人権、尊厳を傷つけ、犯さない限りにおいて認められるということが当然の了解としてあります。人権相互の調整原理が「公共の福祉」と日本語に訳されているpublic welfareなのです。
ところが、日本にはパブリックという概念がもともとありませんから、public welfareの意味が理解できない。したがって有事法制を議論した国家の論戦では、政府側は「公共の福祉」とは国益のことと平然と言ってのけたのです。「公共」ということを伝統的な「公」つまりお上と考えていることがはしなくも露呈されたのです。
  中国には「天下の公」という概念があります。中国思想史の溝口雄三先生の著作『中国思想のエッセンス』によりますと、「天下の公」という概念の意味内容は歴史的な変遷をたどったわけですけれども、明、清の時代になって「人々の私を集合したもの」という意味において捉えられるようになりました。そこでは、自分が好き勝手にしていいということではない、他者とのかかわりにおいて自らの存在も考えなければいけないという認識が共有されるのです。そういう意味では、アメリカのpublic welfareと中国の天下の公という二つの概念は接近していると言えるのです。少なくとも日本人の「公と私」という関係概念の仕方とはまったく違うのです。
  私は、日本において理屈抜きの「中国脅威論」が強い背景には、「お上」に弱く、「個」が欠ける日本人の周りに流されてしまう傾向も強く働いているのではないかと思います。

(4)他者感覚

四つ目の他者感覚の問題ですが、中国には、丸山眞男先生が言いだした「他者感覚」に相応する「換位思考」という言葉があります。他者感覚というのは、歴史を研究する場合にも、あるいは国際問題を考える場合にも、あるいは対人関係を考える場合にも、常に働かせることが求められる感覚です。他者が物事をどのように考えているかを徹底的に理解してのみはじめて意味のある人間関係が成り立つし、相互理解に立つ国際関係も成り立つし、歴史問題に主観を持ち込んで恣意的に解釈する危険性から解放されるのです。
ちなみに、私たちはよく「相手の立場になって考えてみろ」と言いますが、それだけでは他者感覚を身につけているとは言えません。相手の立場に立ったとしても、自分の考え方、いわば頭の配線構造を持ち込んでいるとしたら、それはしょせん自己中心の考え方であることに変わりはないわけです。
他者感覚の他者感覚である最大の所以は、限りなく他者になりきる努力をする知的な営みということにあります。歴史問題を扱う時には、その時代の価値基準を踏まえて物事を考える。国際問題、例えば中国問題を考えるときは、中国人になりきる努力をし、中国人の価値観、思考回路に基づいて、彼らの目で物事を見る努力をするということです。人間関係においては、限りなく相手になりきる努力をして相手をその内側から理解するということです。丸山先生はこのことを「他者を他在において理解する」と表現しています。
  中国の場合は、皆さんは「中華思想の中国人がまさか」と思われるかもしれませんけれども、他者感覚に相応する換位思考ということにすごくこだわっています。日中関係を考える場合にも、彼らの目線で一方的に決めつけるということではなく、日本は何を考えているのか、日本人は何を考えているのかということを、彼らなりに一生懸命考え、理解した上で、その日本とどうつき合うかということを考えています。
  ところが日本人には他者感覚が欠ける人が圧倒的に多く、何ごとにおいても「自分が正しいに決まっている」わけですから、何かいざこざが起これば相手が悪いということになってしまいます。その具体的な表れが「中国脅威論」の横行ということになるわけです。
  アメリカの場合は、普遍的価値というモノサシを備えてはいますが、他者感覚に関しては、歴史意識と同じようにまだ未成熟です。と言うよりも、アメリカは自らの価値観が世界的に正しいものだと思い込んでおり、その価値観を世界に広めるのが自分の使命だと確信しています。そういう先入主が他者感覚を育むのを妨げているのだと思います。
  ただし、私はアメリカもいずれ、イギリスが1957年に世界帝国の夢を捨てたように、パックス・アメリカーナの夢から醒めるときは来ると思います。現実に、シリア問題、イラク問題、ウクライナ問題、そして南シナ海問題、東シナ海問題等々、世界の至るところでアメリカの世界戦略は行き詰まっていますし、アメリカの国力は確実に衰えていますから、アメリカが自己を再認識しなければならなくなるときが必ずや遠からず来ると思うのです。そのときにはアメリカの思想には普遍的な価値尺度の備えがありますから、他者感覚を身につける可能性は、普遍を欠く日本人より大きいだろうと思います。

(5)国際関係規律原理

 五つ目の国際関係規律原理に関しては、日本の場合は普遍的なモノサシがありませんから、自己中心の世界観しかありません。これを私は天動説的国際観と呼んでいます。その際の拠りどころはもっぱら「力」であり、「力=正義」ということになります。したがって、日本より力がある存在に対してはへりくだり、それに近づこうとするのです。江戸時代までは中国、明治維新以後は欧州列強、そして第二次大戦に敗れてからはアメリカというように。
アメリカの場合も、国際関係の規律原理の中心に座るのはパワーです。しかし、「裸の力」を信奉する日本と違うのは、アメリカなりの普遍的価値による裏付けを伴ったパワーであるということです。
このように力・パワーを中心にして国際政治を考える立場、つまり権力政治の発想から必然的に出てくるのが、いわゆる「脅威」認識です。日本の場合は「目障りな存在」である中国を脅威として捉える傾向が強い。アメリカの場合は、アメリカの世界支配に挑戦しかねない存在としての中国を「潜在的脅威」として捉えることになります。
  それに対して中国はどうかといいますと、国際関係規律原則の中心に平和共存5原則を置いています。中国は歴史的に中華思想の権化でしたけれども、その思想の中心に座っていたのは「武」ではなく、「文」でした。また、アヘン戦争以来、欧米列強に半植民地化され、国際社会における底辺に突き落とされた中国は、パワーの支配する世界・国際社会を批判的に見る目を養ったのです。そして、中華人民共和国成立以後、平和共存5原則というものを打ち出しました。その根幹に座るのは国際関係を民主化するということです。ちなみに、このような国際関係に関する見方を、私は「地動説的国際観」と名づけています。
それはまさに国連憲章にも具現化されている内容です。主権国家の独立・主権は尊重しなければいけない、内政には干渉してはいけない、武力行使をしてはいけない、対等平等な国際関係を営むべきだ、話し合いによって問題を解決しようということです。この平和共存5原則は中国憲法にも明記されています。したがって中国はあくまでアメリカのパワー、権力政治に対峙するものとして平和共存5原則を考えています。
  もちろん中国は大国になっている。したがって皆さんは、そんな口先だけのきれいごとではないかとおっしゃるかもしれないけれども、平和共存5原則を、例えばこの前プーチンが中国を訪問したときの中ロ共同宣言で明確に確認しているのです。むしろ中国、ロシアは、今の国際関係を「やくざの世界」にしかねないのはアメリカの支配であると警戒しています。したがって、国際社会を「やくざの世界」にしないために中国、ロシアが努力していかなければならないという問題意識です。それが平和共存5原則ということになります。
  もちろん、中国においても、日本及びアメリカを脅威として捉える認識がないわけではありません。しかし、少なくとも中国からすれば、「喧嘩をふっかけてくる日本(及びアメリカ)」を警戒して、身構えるということです。中国は、権力政治の発想は国際的相互依存が不可逆的に進行する21世紀の国際関係規律原理としての意味を失っていることを強調し、平和共存5原則に基づく民主的な国際関係をつくっていこうと呼びかけています。
  したがって私が申し上げたいことは、「中国脅威論」ということを考えなければ気が済まない私たちの認識のほうに問題がある可能性が大きいということです。むしろ、中国の備えている物事の考え方は、客観的に言って、人類史の歩みに即しているということです。そういうことを改めて考えていただきたいと思います。

(6)終わりに

 お話しのまとめとして、私たちの歴史意識における特殊性ということと私たちの憲法論のあり方の間にも関係があるということを指摘させていただきたいと思います。
私たちの歴史意識の特殊性、つまり常に今しかなく、今が出発点になってしまうということ、それが最初にお話しした、私たちが日本国憲法、集団的自衛権を考える場合にも憲法第9条が出発点になってしまって、ポツダム宣言が出発点にならないということの根底にあるのではないかと思うのです。なぜならば、私たちにとってポツダム宣言は過去のものであって、下手に触ると、いわゆる「押しつけ憲法論」とか、領土問題とかの都合が悪い問題が出て来てしまうからです。
  しかし、例えば領土問題をとりますと、ポツダム宣言の第8項は日本の主権の及ぶ範囲を本州、北海道、九州、四国に限定し、ほかの諸小島の帰属については連合国が決定すると明記しているのです。つまり、ポツダム宣言の当事国であるアメリカ、イギリス、中国、ソ連、今のロシアが決めたら、それで終わりなのです。
日本はそのポツダム宣言を終戦詔書で受け入れ、降伏文書でこの宣言に盛り込まれている条項を誠実に履行すると約束したのです。ですから我々にとっては固有の領土であろうとなかろうと、私たちが口出しすることではないのです。ポツダム宣言は、日本国憲法を考えるときのモノサシ、基準であるし、領土問題を考えるときのモノサシ、基準でもあるということです。   今皆さんがいろいろ議論される西沙問題、南沙問題についても、ポツダム宣言及びその前のカイロ宣言に基づいてその帰属先を考える必要があります。ポツダム宣言を無視して作られた対日平和条約でさえ、日本は南沙、西沙についての権利を放棄すると規定しています。そして、日本が中華民国政府と結んだ日華平和条約の中で日本は、南沙、西沙に対する権利を放棄したことが確認されると規定しているのです。なぜ中国相手の条約にそれを書かなければいけないのか。それは南沙、西沙がずっと中国のものだったことを日本は認識しているからです。そのことに対してアメリカも何も言っていません。
  ですから、中国からすれば、もともと中国領である南沙、西沙の島々に、後からヴェトナムやフィリピンなどが勝手に侵入を試みてきたということなのです。中国・ヴェトナム、中国・フィリピン等のいわゆる領土問題というのは1970年代以降の産物です。
  ですから国連海洋法条約で中国は、歴史的、法的に明確にされている中国の権利については妥協しないという留保条項を入れています。中国にしてみれば、南沙、西沙でアメリカや日本がヴェトナム、フィリピンなどの肩を持つのはおかしいということなのです。私は、中国が主張していることに無理はないと思います。「中国の言っていることはけしからん」、「中国はやっぱり拡張主義だ、侵略主義だ」という議論の方が、国際法的に問題があるということを、私ははっきり申し上げておきたいのです。 このように、ポツダム宣言に立ち返れば多くの問題について皮を剥ぐように問題が見えてくる、論点が見えてくるのです。それは集団的自衛権の問題もそうであります。
  以上でお話を終わります。

(質疑応答)

○司会 はい、どうもありがとうございました。
  ポツダム宣言の問題、中国に関する認識の問題提起、いろいろ、かなり論争的な議論をしていただいたかと思います。 ○浅井 私は論争ではなくて、国際法に基づいてお話ししています。
○司会 それではお聞きになっている方で疑問などを抱かれた方もいらっしゃると思いますので、ご質問などございますか。   もしどなたもいらっしゃらなかったら、私のほうから質問いたしますが、よろしいですか。はい、どうぞ。
○質問者 どうもありがとうございました。
  ご説明いただいた中で、国家の自衛権か主権者の自衛権かという議論がありましたね。先生のお話だと、主権者の自衛権という立場に立てば集団的自衛権はあり得ないのだということを言われていたのですけれども、そこの点をもう少しご説明いただいたほうがいいかなと思いました。もう少し詳しく教えていただけたらと思います。
○浅井 この点は、私は単純に考えておりまして、アメリカの独立宣言にしても、フランス革命にしても、あるいは民族自決権、人民の自決権にしても、あくまでも自分自身で自らの意思決定・自決を行うということであり、他者、即ち他の民族、他の人民の意思決定・自決に協力することは一切含まれていないわけです。自らの国家を持つとするのが自決権であり、国家を持った暁に自らを自衛するというのが自衛権ですから、人民主権、民族自決権、人民の自衛権は法的に1つの線上にあるわけです。ですから、人民主権、自決権、自衛権においては、他者を守る権利というのは出てきようがないということです。それが集団的自衛権という「他者を守る権利」を考える余地がないということの意味です。
○質問者 それぞれの民族が自分たちを守ることはできるけれども、他の民族を日本人が守ることはできないと、そういう意味ですか。
○浅井 はい。それは他民族に対する干渉になってしまうということですね。いわゆる人道的介入という考え方が非常に論争を呼んでいるのは、「他者によかれかし」ということでありさえすれば何をやってもいいのかということですね。それも私は根本にさかのぼれば、人民あるいは民族がみずからの運命を決めるときに、他者の助けを借りるということはあり得ないというところから来るのではないかと理解しています。
ですから、人民の自衛権というときには、ナチス・ドイツに対して戦ったポーランド人とかフランス人とかのレジスタンス、あるいは戦後で言いますと、フランスに対して戦ったアルジェリア人民の戦いとか、ヴェトナム戦争におけるヴェトナム人の抗米戦争とかが当たると思います。また、日中戦争においても中国人民が抗日戦争を戦ったのも自衛権行使であるということです。
日本に関して言えば、例えば日本にアメリカが攻め入るときに、第9条で私たちは一切の抵抗権を放棄したということにしてしまうと、それはちょっと違うのではないのかという私の素朴な疑問がもともとありまして、そこからこういう考え方にたどり着いてきたということでもあります。
○司会 よろしいでしょうか。
  ほかの方、どなたかいらっしゃいませんか。そしたら私のほうから聞かせていただきます。
  先生の議論は2つのポイントがあって、ポツダム宣言の問題と中国認識の問題が2つあるのですが、そのうちまずポツダム宣言のほうからお聞きしたいのですけれども、非常に一般的にあまり国際法とかは私も通じていないのですが、そういう人の場合、ポツダム宣言というのはしょせんは戦争をどうやって終わらせるかということで、その段階で終わっているのではないかと。あと、日本が国際社会に復帰するときにはサンフランシスコ平和条約があったから、その後についてはもう平和条約で決まっているのではないかというような理解が比較的あるかと思うのですが、ポツダム宣言の国際法的な効力、それとサンフランシスコ平和条約との関係についてはいかがでしょうか。
○浅井 その点に関しては非常にはっきりしていることがあります。つまり中国やロシアは、自分たちはサンフランシスコ平和条約の当事者ではない、したがって日中、日ロ関係を規定する基本的な国際法はポツダム宣言であるということを明確にしているのですね。
  それともう一つは、その中国、ロシアからすれば、サンフランシスコ平和条約というのは明らかにポツダム宣言から重大な逸脱をしているということなのです。つまり、サンフランシスコ平和条約は日本の再軍備を認めたのですが、ポツダム宣言においては日本の軍国主義勢力の徹底した無害化を要求したのであって、それは明らかにおかしいではないかということです。
ですから中国、それからロシアも最近かなり明確に言い出してきているのですが、来年の2015年がポツダム宣言70周年、つまり反ファシズム戦争勝利70周年、中国の抗日戦争勝利70周年、国連憲章成立70周年という非常に重大な年なのです。中国とロシアはそのときに大々的な記念行事を国際的にやろうということを明確に提案しています。今年、ノルマンディ上陸作戦記念行事を西側諸国が祝ったのと同じように、いや、それ以上に大々的に行おうとしています。
  そこには、明らかに日本の今の安倍政権による軍国主義復活を目指す動きというのが念頭にあるわけです。同時にアメリカに対して、アメリカが戦後進めた対日政策は誤っているではないかという問題提起の意味が明らかに込められていると思うのですね。ですから、私は来年にかけて、アメリカに対しても中国、ロシアからいろいろな働きかけ、例えば国際的な行事にはアメリカも参加しろという要求が当然出てくると思いますね。そういうときに、ポツダム宣言の主たる起草者であったアメリカがどういう態度をとるかによって、アメリカの本質があぶり出されるかもしれない。日本ももちろんですけれども。そういうような状況が来年2015年にかけて起こるだろうということだと思います。
○司会 ほかの方、特に質問はございませんか。
  そしたら、引き続き私から。次に、中国脅威論に移ってもいいかと思うのですけれども、西沙、南沙の件についてお話しいただいて、尖閣についてはこの前来ていただいたときにお話しいただいたと。中国脅威論の一つの根拠として、いわゆる第1列島線、第2列島線というようなことを中国が言って、それでどんどん自分の覇権的な海域を延ばしているのではないかと、これこそ中国の覇権主義の典型的なあらわれだと、そういう議論があるのですが、その点、先生はどういうご意見でしょうか。
○浅井 個々の中国の行動をとると、そういう解釈をすることは可能だと思います。しかし、最近中国は、アメリカのアジア・太平洋に対する軍事的プレゼンスに対して挑戦する意志はまったくないということをはっきり言っています。中国がやっていることは、アメリカが南沙・西沙問題、尖閣問題でごり押しをしてくることに対する自衛的措置という位置づけですね。
私は、今のアジア・太平洋における軍事力バランスからいったら、中国の言っていることは正しいと思います。実際、アメリカだって現在の中国の軍事力が自分に対して脅威になっているとは言っていないのです。今後も今のペースで軍事力を増強していったら、中国は恐るべき存在になるという位置づけです。したがってアメリカとしては、アジア・太平洋に対する軍事プレゼンスを強化することによって、アメリカの圧倒的な軍事的優位性を維持していかなければならないと言っているわけですね。そのことはアメリカ側の文献を見ていただくとわかるわけです。
ですから第1列島線、第2列島線という、そういう個別の議論をすると中国はけしからんという話になってしまうかもしれませんけれども、本質問題として、アメリカと中国の軍事バランスがどうなっているかということをよく見るべきだし、アメリカが本当に冷静にどう認識しているかというところを見ることが大事だと思いますね。
○司会 あと、こういう形で集団的自衛権が解禁されたというか、そういう形になっていて、一方で今後中国とも何らかの形で関係を改善しなければいけないと、そういう動きも出て、首脳会談もできないかというような動きがありますけれども、今後、特に中国との関係改善をするためにどうしたらいいか、何が必要でしょうか。
○浅井 中国からいえば明確です。つまり、歴史認識を改めるということですね。具体的には靖国参拝はあり得ないということを明確にすること。それから領土問題については、中国はポツダム宣言のことをはっきり言っているのです。ポツダム宣言に基づいて、尖閣は中国のものだと。固有の領土云々の議論の前に、もう法的決着がついているという立場です。しかし、それでは日本も落としどころが探せないでしょうということで、それがまさに中国一流の他者感覚だと私は思うのですけれども、いわゆる棚上げの次元にまで戻る用意はあるということをちらつかせています。
  ただし、棚上げという場合にも、1972年当時の日本が完全な実効支配をしているときの状況ではもうないのですね。というのは、2010年から今日までに中国の艦船も入り込んで来る状況も出てきたし、中国の飛行機も飛んできている。そういうのが既成事実としてあるわけですから、中国としても実効支配を実行するようになっているとしているわけです。ですから、再び棚上げに戻るとしても、その中身をどうするかという具体的な問題はあります。
  しかしそこは、私はまさに外交の出番だと思うのですね。どこで着地点を見つけるかというのは、すぐれて外交の知恵だと思います。1972年当時まで戻るということは中国としてはあり得ない。しかし、何とか共同開発というのを前面に押し出すとか、そういうことによって争点化しないとか、そういうことは可能だろうと思うのですね。あるいは暗黙の了解でお互いに尖閣の近辺には立ち入らないとか。そういうような工夫はいくらでもできると思うのです。だから、私は外交的に対処可能なことだと思います。
  とにかく歴史問題、領土問題、この2つだと思います。その点について安倍政権が、中国が耳を傾けるような内容のことを言い、あるいは行動しない限り、仮に今回の秋のAPEC首脳非公式会合で、習近平が安倍首相と会うとしても、それは問題解決につながらないということは明確です。その点は、実は8月15日の人民日報系の環球時報の社説に明確に書いてあります。だから、両国首脳が会いさえすれば、関係改善のきっかけになるなんて思ったら大間違いということです。
○質問者 もう1点よろしいですか。
  今の議論との関連で、中国と韓国が今大分接近していますよね。あれは国際情勢から見てどう評価されていますか。
○浅井 韓国の朴槿恵政権は今サンドイッチ状態だと思います。明らかに歴史認識の問題、領土問題では中国と非常に立場が近い、もう同じだと言ってもいいでしょう。しかし他方で、いわゆる「北朝鮮脅威論」によって、米韓同盟をもっと強化しなければいけないとも考えています。今ウルチ・フリーダム演習というのが行われていますけれども、それはまさに北に対して先制攻撃をする予行演習です。これは明確にアメリカが言っていることです。朝鮮が戦争を仕掛ける兆候が出たら、それに対して機先を制して攻撃するというのです。その予行演習です。朝鮮からしてみたら本当に身の毛がよだつような演習をしているわけです。それを朴槿恵政権は進んでやっているわけですね。ですから、韓国の立場は非常に微妙です。
  例えばこの前習近平が韓国を訪問しましたけれども、そのときに習近平は仕掛けているのですね。来年の70周年を一緒にやりましょうと。そのとき朴槿恵は即答を避けているのです。しかし、習近平が帰る日に朴槿恵がもう一度会っているのですね。そこで朴槿恵は、70周年にかかわって中韓でどういうことができるか検討しましょうというような言い方をしています。ですから、まったくのゼロ回答ではない。
  他方、アメリカのオバマ政権は2009年の就任以来、「北朝鮮脅威論」を押し出す手法でアジア・太平洋における軍事プレゼンスの強化を正当化してきました。その後、中国に対する牽制というアジア回帰の戦略が加わったわけですけれども、大上段に振りかざすのは「北朝鮮脅威論」ですね。ですから、アメリカとしては朴槿恵政権が中国にすり寄るようなことは絶対認められないという気持ちがあります。そういうことで、朴槿恵政権は、アメリカと中国の間でサンドイッチ状態なのです。
○質問者 今言われた点が28番に書いてある、韓国の去就が一つのポイントということですね。
○浅井 そうですね。