資本主義再考

2012.01.28

*メーリング・リストで送られてくるイギリスのフィナンシャル・タイムズ(FT)が「危機にある資本主義」(Capitalism in Crisis)というテーマを正面から扱っていることを知りました。同紙の経済問題のchief commentatorであるMartin Wolfは、この企画について「3年前に1930年代以後では最悪の金融経済危機が世界経済を捉えたときに、FTは「資本主義の将来」に関してシリーズものを掲載した。高所得国家における弱い回復を受けて、FTは今回「危機にある資本主義」としてシリーズものを掲載してきた。事態はさらに悪化しているように見える。この事態を如何に説明すべきか。」という深刻な問題意識に基づくシリーズ記事であることを説明しています(1月24日の同紙ウェブ掲載の「(資本主義経済)システムの欠陥を修理する7つの方法」と題する文章)。彼はまた、1月24日付でも「公共財(public goods)に対する世界的渇望」と題する文章を掲載して、資本主義経済システムそのものに本質的な問題提起を行っています。
この二つの文章を読んでまず私の頭に浮かんだのは、日本でおよそこういう本質的な問題意識は日本経済新聞をはじめとする主要紙ではまともに取り上げられてもいないな、という感想でした。「ソ連崩壊(米ソ冷戦終結)=社会主義破産=資本主義勝利=アメリカ絶対」という安易を極める(と私が常々考えてきた)、何らの根拠も説得力もない等式関係がビルトインされてしまったマスコミを筆頭とする日本社会では、こういう本質的な問題意識を提起すること自体が憚られる雰囲気が覆っているのではないでしょうか。
もう一つ感じたことがあります。手前味噌で恐縮なのですが、そして経済関係のことには知識も素養もない私なのですが、私が前から資本主義、特に新自由主義に支配されるようになってからの市場至上主義原理主義に基づく資本主義経済システムについて考えてきたことが的外れということではないというか、むしろ物事の本質を踏まえているのではないか、ということでした。その確かな手応えは、いま読み進めている丸山眞男の発言に一貫している資本主義及び社会主義という経済システムに対する見解において得つつあるのですが、上記のWolfの24日付文章によってもさらに強められました。
ということで、以下においては、私が拙著『ヒロシマと広島』で述べている視点を紹介し、それとの関連性を込めてWolfの24日付の文章を概略紹介し、その上で丸山眞男が資本主義及び社会主義に関してどういう認識を示していたかを紹介しておきたいと思います(1月28日記)。

1. 私の資本主義に関する本質的理解

私は拙著の中で、資本主義、就中新自由主義の市場至上主義原理に支配された資本主義経済システが、人間の尊厳という普遍的価値(座標軸)とは両立し得ないものであるという認識を述べました。

「国際関係についていえば、21世紀に入った今日も相変わらず「力による」平和観(権力政治、新自由主義)が支配しています。これは根本的にいえば、国際関係が今日なお国家を基本的な成員(メンバー)として成り立っており、個人が国家における主権者であることは認められるにいたったとは言え、世界単位での主権者としてはいまだまったく承認されていないという、人類の発展段階がいまだ初歩的な段階にとどまっている歴史的な制約に基づくものだと言えます。つまり、人間の尊厳という普遍的価値が、一国単位では承認されましたが、世界規模ではすべてを律する中心軸におかれることが妨げられているということなのです。特に超大国のアメリカが、人権・民主(デモクラシー)を振りかざしながら、現実の国際関係に関しては旧態依然とした「力による」平和観(権力政治)にしがみつくために、なかなか歴史は前進しないのです。
しかし私は、巨視的に人類の歴史を眺めれば、人間の尊厳を根底に据える歩みは着実に(しかし緩慢に)前進を遂げていると認識しています。国際関係において個人が直接権利(及び義務)の主体として認められる(人間としての尊厳が承認される)流れは今後もますます加速していくでしょう。その流れは、いずれ「力による」平和観に引導を渡し、人間の尊厳の尊重と結びついた「力によらない」平和観を主流の座に置くことにならざるを得ないと私は確信しています。なぜならば、繰り返して言いますが、「力による」平和観は暴力に立脚するものであり、そういうものとして人間の尊厳とは両立し得ない平和観であるのですから。
このようにいうと、いかにも私が夢物語にふけっているように思う向きもあるかもしれません。しかし、一国単位での民主化、その基になっている平和観の巨大な変化の歴史を確認するならば、世界単位の民主化と平和観の変化の可能性についても私たちは基本的に楽観的であることが許されるはずです。もう一度おさらいですが、一国単位での変化の象徴的な起点を1776年のアメリカの独立宣言と1789年のフランス革命に求めることには大方の異論はないでしょう。人権・民主(デモクラシー)がどの国家においても実現されるべきであることを定めた国連憲章ができたのは1945年です。資本主義と社会主義との対決(いわゆる東西冷戦)という過渡期を経て、20世紀末までには人間の尊厳、人権・民主(デモクラシー)が普遍的価値であることについてもはや異論は存在しないまでになりました。時間的に見ると300年に満たないわずかな期間なのです。人類の歴史が数百万年であることを考えるならば、わずか300年弱の間におけるこの巨大な変化は特筆に値する、というべきでしょう。
世界単位での平和観の変化の象徴的な起点は1947年の日本国憲法(前文と第9条)となるだろう、と私は確信しています。…日本国憲法においてはじめて、「力による」平和観を否定し、「力によらない平和」観に立つことによってのみ、人間の尊厳は世界規模で実現されうることが理念として明らかにされたことを確認しておきたいと思います。そして、その憲法が、俗に(アメリカの)「押し付け」憲法といわれるわけですが、私自身としてはそれが何ら恥ずべきことではなく、アメリカの独立宣言の精神を受け継ぐ気概にあふれた人々とのかかわりの中で生まれたことを決して偶然ではないとすら思うのです。
しかも、21世紀の世界の変化について考えるとき、「力によらない」平和観が主流を占める流れにあることを確認することができます。…それは、経済、交通そして通信(コミュニケーション)を通じた国際的な相互依存の深まりであり、環境問題に代表される地球規模の問題の登場です。つまりこれらの前では、「力による」平和観(権力政治、新自由主義)はまったく無力であり、有害以外の何ものでもないことがますますはっきりしてきています。「力によらない」平和観に本気で立つことによってのみ、21世紀の世界が直面する課題に答えを出すことができるのです。」(pp.60-62)

「21世紀の私たち人類にとっての課題は、「力によらない」平和観の全面的な実現を妨げてきた要素をどのようにして克服するかという問題です。もっとも大きな問題は、国家を主要な成員(メンバー)とする「中央政府のない国際社会」という歴史的な現実が今後も長期にわたって存続することを前提にして、「どの国家に生を受けるかによって人間の尊厳の実際的な実現の度合いが異なるという根本的矛盾」に対して正解を見つけるということです。そこでの重要なポイントは、人間の尊厳を基準(モノサシ)とする、政治原理における国家主権(権力政治)から人間主権(人権・デモクラシー)への転換であり、国家の役割・機能の抜本的変化、そして経済原理における市場至上主義(利潤)から人間至上主義(尊厳)への転換を着実に実現していくことです。」(p.183)

2.M. Wolf:「公共財に対する世界的渇望」("The world's hunger for public goods")

 この文章は、「公共財は文明の基本構成要素である。経済的安定そのものが公共財(=公的善)である。安全保障、科学、きれいな環境、信頼、誠実な行政及び言論の自由も公共財だ。(公共財の)リストはもっと長いものになるだろうが。」という書き出しに始まります。彼の定義するところに従いますと、「公共財」とは、「排除・除外することが許されないもの」(non-excludable)及び「張り合う(競争する)ことが許されないもの」(non-rivalous)のことです。この定義だけでは分かりにくいので、彼は、「支払いを行わない者が諸利益を享受することを妨げてはいけないということ」が前者であり、「ある者の(権利の)享有が他者の犠牲においてなされないこと」が後者であるという説明を加えています。この定義はユニークだと感じますが、さすが「自由」の元祖の国の論者の言だと感じます。と言いますのは、後者はそのまま「自由」の定義だからです。文章はユニークですが、その言っていることには無理がありません。また彼は、「経済が安定していれば、すべての者がその利益を得るし、その利益を奪われる者はいない」と続けることによって、彼の物事の判断基準があくまでも一人一人の人間にとっての善悪であることを明らかにしています。我田引水の嫌いはありますが、ここに私は、「人間の尊厳」を基準にして物事を判断する私の考え方との根源的な同質性を見る思いがしました。
彼によれば、公共財の十分な供給を確保することがむずかしいが故に、公共財が(上記のように)多岐にわたるということは重要なことです。しかも、公共財がグローバルなものになるとともに、その供給はますます難しくなるし、厄介なことに、私たちが豊かになればなるほど、私たちが必要とする公共財はますます複雑になっていく、という現代における公共財をめぐる困難さは時とともに増していることは彼の指摘のとおりなのです。したがって、「この(公共財を充足するという)挑戦に対処するという人類の努力こそが今世紀の典型的な物語になるだろう」という彼の結論はきわめて重く、また説得力があります。
そして、2008年のリーマン・ショック以来のFT紙上での論争が如何にして金融不安定を回避するかという問題を中心に行われてきたことについては、Wolfにとってもそのこと自身は正しいのです。なぜならば、「金融不安を回避すること自体が公共財である」からです。彼が問題にするのは、「市場システムの中で動いている連中は公共財を提供して反公共財を回避するというインセンティヴに立って行動していない」ということ、平たくいえば「私利私欲に基づいて行動している」ということでしょう。そして彼は、「エコノミストは、市場経済が本質的に安定していると想定する傾向があった。そうだとすれば安定は自動的に提供されるということになるのだが、不幸にして現実はそうではない。自由市場経済はコストゼロで際限なくクレジットを拡大することができる。というのは、通貨の供給は私的なクレジットにかかわる決定に対する負債に過ぎないのであるから、経済というケーキの中に不安定が焼き込まれていることになるからだ。故に、経済的安定という公共財は極めて供給することが難しいのだ。」と指摘しています。
Wolfはさらに進んで、「文明の歴史は公共財の歴史である」と切り出し、「文明が複雑になればなるほど、必要とされる公共財は多くなる。そして我が文明は、人類がかつて発達せしめたもっとも複雑な文明である。…歴史的に公共財を提供してきたのは国家であるが、今日の国家が我々の必要とする財を提供できるかどうか、また、そうすることが許されるのかどうかははっきりしない。」と議論を展開しています。彼の歴史認識が確かなことは、産業革命及びデモクラシーの登場を公共財及び国家の役割とかかわらせて論じる点において確かめることができます。ちなみに、産業革命及びデモクラシーの歴史的意味については、丸山眞男も屡々言及しています。
即ち、「産業革命は、数え切れない分野で国家の活動を拡大させた。それは、本質的に経済そのものの必要によるものだった。市場自身は、教育ある人口や大規模なインフラを供給できないし、知的財産権を保護したり、環境や公衆衛生を保全・保護したりもできない。諸国家の政府は、供給者及び規制者として、また、助成者及び課税者として、介入を余儀なくされ、あるいは進んでそうした。これに加え、デモクラシーの到来によって、労働者の不安に応えるという意味もあって、再配分に対する需要が高まった。こうして現代の国家は、かつて存在したいかなる国家よりもはるかに強力となり、その活動領域及び規模を爆発的に拡大させてきた。」のです。
そこで考えるべき問題は、「この流れを逆転させるのか」ということです。「政治改革=小さな政府の実現」という主張(民主党政府であるとかつての自民党政府であるとを問いません。)が自明の理と見なされてしまっている今の日本では考えられないことですが、Wolfの答えは明快に「ノー」です。彼の言によれば、この流れが今後も「うまく働くか」という点がポイントであり、「それは良い問いである」ということです。
しかし、彼はこの問いについて答えを出す前提として、人類史の方向性について考えるという視点を提起します。ふたたび手前味噌になりますが、この視点も正に私が拙著で提起したことと相通じるものです。即ち、「経済と同じく、人間性ということのインパクトはますます世界的になっている。経済の安定は世界的な公共財である。そして核兵器の時代においては、安全保障もまた世界的な公共財である。また、重要な点において、組織的犯罪、偽造、知的所有権侵害そしてなによりも環境汚染の取り締まりも公共財である。ある地で起こったことはすべての者に影響を及ぼすし、時とともにますますそうなる。世界的な経済崩壊が起こらなければ、我が文明において必要とされる公共財のますます多くのものがグローバルとなり、あるいは世界的な意味合いを持つこととなる。」ということです。この指摘の正しさは誰も否定できないはずです。 以上のことを確認した上で、Wolfは先ほど提起した問いに対する彼としての回答を示すのです。即ち、「国家は自分だけでこれらの公共財を供給することはできない。彼らとしては協力することが必要である。…我々の世界は広範囲にわたる公共財の供給を必要とする、ますます世界的になっている文明である。安全保障から気候管理にいたる公共財の供給を人類が依存している諸国家は、人気がなく、手を広げすぎており、しかも行き詰まっている。我々に必要なことは、そういう世界を如何に管理するかを考えることだ。そのことは途方もない創造性が要求されている。」ということです。
この答えに接すると、「何も答えになってはいないではないか」という気持ちが頭をもたげる向きもあると思います。しかし、私には、これ以上の答えを求めることはおかしいと思うし、彼は十分に重要な問題提起をしていると思います。即ち、今求められているのは、国家の役割の否定ということではなく、人類史的課題のもとで国家の機能的役割を認めつつ、諸国家の協力の緊要性という極めて重要な方向性を認識し、そういう方向で物事を考える視点を我がものにすることです。ギリシャその他の財政危機に協力して対処することもできないでいるEUの憂うべき現状はもちろんですが、そのことも含めて国際経済の深刻を極める状況に対して国際協力が遅々として進まないどころか、各国が自国の利益を保全することだけに汲々としている状況もまた、彼の指摘の重要性を確認させるものだと思います。
日本では、「国家」という要素については、古くさい国家主義の立場からの時代錯誤を極める主張(その典型は27日に大きく報道された超国家主義者の石原慎太郎を担ぎ出す「石原新党」結成の動きです。)が幅を利かす一方、いわゆる多くの「市民派」を名乗る人々は、「忌むべき」国家を飛び越して「世界市民」に傾くという、極めて日本的な状況が支配しています。それだけに、Wolfの以上の問題提起の重要性は正当に認識されず、見すごされてしまう危険性が高いと思いますが、かねて「国家」という要素をもっと正面から考える必要を提起してきた私から見ますと、彼の指摘は極めてまっとうと思われるのです。

3. 丸山眞男の資本主義に関する指摘

 私の丸山眞男の著作や発言に関する読み進めはまだ途上にあります(『丸山眞男集』『丸山眞男手帖』が終わって、いま『自己内対話』に入っています。今後まだ、『自由について 七つの問答』を経て、『丸山眞男講義録』に挑戦し、『丸山眞男座談』にも目を向けたいと考えています。)。しかし、これまでの作業によっても、ここでの主題である資本主義及び社会主義に関して、丸山が実に豊富で示唆に富む発言を行っていることを確認できる思いがしています。そうした彼の見解はもちろん経済学者としてのそれではありません。彼は政治学者、政治思想史の専門家としての立場から、そしてなによりもまず、人類史の進歩に確信を持つ立場から、様々な機会に発言しているのです。そういう彼の見解は、ふたたび手前味噌になりますが、私自身のこれまでの考えの歩みの方向性が間違っていないことを確認してくれますし、Wolfの見解の基本的正しさを裏づける意味も持っていと思います。以下では主なものを紹介します。

<政治と経済とを切り離して考えることは根本的な誤り>

 丸山はすでに1953年という早い時期に、政治におけるデモクラシーと経済における寡頭支配(即ち独占資本主義)との根源的な非両立性を指摘しています。

 「政治的デモクラシーの進展と経済的寡頭制によって引き裂かれた近代社会の矛盾は、結局デモクラシーの理想を経済組織にまで及ぼすか、それとも、いっそ政治の面でもデモクラシーを切り捨ててしまうかしなければ、縫い合せられないのですが、その後の方のやり方がとりもなおさずファシズムの途にほかなりません。」(集⑤ 「ファシズムの現代的状況」1953.4.)

 「企業全体の運転の努力目的が私的利潤の増大ということにある為に、企業の内部が徹底的に合理化され、計画化され、組織化されているに拘らず、企業の対社会的な責任ということになると少しも考慮に入れられない。‥対内的合理性と対外的非合理性と無責任制との矛盾が極点に達する‥。…現在の問題は、こういう巨大な組織を依然として、私的権力体として放っておくか、それともそれを社会的なコントロールの計画の下におくかという、ここに現在経済組織のいちばん根本の問題があるのであります。
 ‥現在の民主主義化は選挙権の拡充といったような方向で、いくらかでも政治的社会の民主化は出来たけれども、‥経済的にはかえってますます寡頭政的な(民主主義と逆の)傾向が増大してきた。これはどっちかの犠牲において埋め合せなければならない。政治社会の方も民主化を犠牲にして寡頭支配にするか、それとも経済社会の寡頭支配ということを民主化して政治社会の方に適合させるか、どちらかの途しかない。政治社会の寡頭支配はいわゆるファシズムであり、政治社会における民主主義を逆に経済社会に押し及ぼそうじゃないか、というのが社会主義の根本の考え方に他ならないのであります。」(集⑥ 「現代文明と政治の動向」1953.12.)

<人類史的視点で資本主義・社会主義を位置づける必要性>

 丸山の歴史的な視野は、すでに見たWolfの考えをさらに根源的、思想的に深めた内容を備えていることは、下記の文章において明らかです。丸山のすごさ(と私が感じざるを得ないの)は、このような認識がすでに1957年の時点で示されているということです。

 「啓蒙的な進歩の理念はさまざまのニュアンスを含んでいるが、大ざっぱにいってそこには三つの契機が含まれている。第一は文明化であり、第二は技術化であり、第三は平等化である。この三つの契機に照応して歴史はそれぞれ、(1)人間の知性と教養の向上による因習と偏見の駆逐、(2)科学の適用による自然の征服、および労働組織の発達に伴う生産力の発展、(3)教育と社会制度の改革を通ずる政治的隷属や社会的(人種的)不平等の打破という過程を辿ると考えられる。そうしてその根底には人間性の開発についての無限の可能性‥と、「人類」の理念が横たわっている。…しかし啓蒙主義が社会主義にまで発展したのは思想史的に見ても決してスムーズな直線的な過程を通じてではなかった‥。啓蒙における文明主義と進歩主義はルソーによるその激烈な否定を媒介としてはじめてプロレタリアートの立場と接続することができたのである。十八世紀の啓蒙は現実に宮廷貴族の「サロン」と結びついていただけでなく、論理的にも知的貴族主義をともなわざるをえなかった。…ところがルソーは‥まさに文明の洗練と人工性のうちに人間性と社会のもっとも深い頽廃を読みとったのである。…彼をつうじいまや価値のヒエラルヒーを根底から顚倒するエトスが形成された。進歩と見えるものがむしろ堕落であり、農民大衆の無智と粗野がかえってこの虚偽を「下から」くつがえすエネルギーとなった。フランス革命の指導理念のなかにはこうして「進歩の観念」から来た歴史的楽観主義とルソーのそれへの反逆とがともに流れこんだわけである。ここに内在する「精神(知性)の進歩」と「大衆の反逆」との矛盾はやがてヘーゲル左派において新たな段階で爆発する運命をもった。」(集⑦ 「反動の概念」1957.7.7.)

 以下における、資本主義の需給関係は社会的必要ではなく、「持っているものの需要」だという指摘も、Wolfの見解と軌を一にするものであることはすぐ確認できると思うのですが、丸山はそこから「原理的に考えてご覧なさい。利潤原理と市場原理だけで、OKなのか。」という極めて重要な本質論的な指摘に進んでいます。

 「本来、言葉からいうと一九世紀の終わりまでは民主主義と社会主義という言葉は同義なんです。むしろ、自由民主主義、リベラル・デモクラシーという言葉は、非常に後からできた。立憲主義が社会主義の勃興に直面して、ウェルフェア・ステート、福祉国家の原理を取り入れた後にはじめて自由民主主義、リベラル・デモクラシーという言葉ができたのです。
 冷戦で忘れられてしまったのですね。冷戦でアメリカとソ連の対立になっちゃったでしょう。そこで、今度はナチに対して用いられていた全体主義という言葉を、ソ連に対して用いるわけです。その場合の民主主義というのは、西側の民主主義です。西側の民主主義対全体主義。全体主義の中に共産主義体制はみんな入ってしまったのです。これは歴史的にいうと違うのですね、実際は。民主主義と社会主義が同義だった、むしろ。それがそうではなくなったというのは、やはりロシア革命なのです。だから、ロシア革命は歴史に残る偉大な成果なんだけれども、歴史の皮肉なんですね。いちばん立憲主義の伝統、自由主義の伝統、民主主義の伝統がなかったところに社会主義が行われた、そういう意味で。」
 「資本主義の受給供給関係-需要というのは社会的必要ではないのです、購買力のある需要なのです。これを持っているものの需要なんです。…
 世界的に見たら資本主義ですから、何十万人の幼児が一方では餓死している。他方では、余剰米を焼いているわけです。それは資本主義原理だからです。こんな矛盾はないじゃないですか。どうしてその余った米を飢えている子供にやれないのですか。これは資本主義だから、やれないんです。こういう体制がどうしていいと言えますか。僕は根本的な矛盾をはらんでいると思いますね。‥原理的に考えてご覧なさい。利潤原理と市場原理だけで、OKなのか。」(手帖33 「中国人留学生の質問に答える(下)」1989.6.26.)

 また丸山は、社会主義が資本主義の矛盾に対する答えとして出てきたという歴史的意義は、資本主義の矛盾に対する答えが出ていない以上、今日的になお否定し去ることはできないという認識を示しています。

 「なんで社会主義というのが出てきたかという、その問題が解決したのかという、極端に言えば、社会主義の答えが全部まちがっていても、社会主義が出てきた問題は解決していないんですよ。つまり資本主義の問題が。その問題の方から言わないで、結果論からみんな言うんだ。しかも、ソ連の崩壊即社会主義の崩壊と短絡している。…ソ連・東欧を生んだ根本の原因である資本主義の矛盾が一向に解決していない。むしろ、ある意味では、南北問題などのかたちで、もっと格差がひどくなっている。これが、今までの資本主義では解決能力がない…。
 だから、結果論とか答えじゃなくて、今、どういう問題が出ているのか、その問題が解決しているのか、どうか。地方にある、それ一つ一つをとれば無数な、非常に無力な市民運動とか住民運動とかは、そのために出てきている。」(手帖42 「丸山眞男先生を囲む会(下)」1993.7.31.)

 丸山が晩年に至るまで現実に深い関心と凝視の姿勢を持ち続けていたことは、次の発言にも十分に窺われると思います。しかも、市場経済を歴史的視野の中に位置づけ、批判する視点はきわめて明確です。

 「『毎日』の「市場を疑う」という企画は非常に良い-、みんなが"市場経済万歳、万歳"と言っている中で。ところが、これが基本概念がおかしいんだ。一つは政治学者がだらしがないのか、一般の概念の混同があって、自由主義と自由市場というものがほとんど同一視されている。経済の優位、それから学者だから、てめえの専門の優位ね、経済学者から見ている。それにはもう一つ原因があって、俗流マルクス主義が残した最も悪い影響-つまり、経済が社会の基本で政治はその上部構造という考え、したがって、例えば経済的自由主義が自由主義の基本で、政事的自由主義はその上部だという考え方なんだ。発生史的に見たって違うんだ。政治的自由主義の古典を書いたジョン・ロックの頃は……。(-アダム・スミスを距たること約百年……。)しかも経済自由主義はアダム・スミス以後ですからね。十九世紀の後半ですから、いわゆる市場的自由主義、エコノミック・リベラリズムは。同時にJ・S・ミルもマルクスも出て来て懐疑的に……。
 そうすると政治的自由主義と経済的自由主義を全く同一視し、しかも経済の方が根本であると見てるものだから、自由主義論で全く抜けているのは、例えばロックで言えば、一つは寛容ですね。政治的自由主義の最も重要な問題って寛容でしょ。寛容ってのは経済では出て来ない。今、ジャーナリズムで見てごらんなさい。ほとんどないでしょ、寛容の問題。まさに今切実じゃないですか、中近東も含めて、未だアラブ世界は寛容以前の宗教戦争だから。自由主義の最も基礎の寛容の問題は出て来ない。全部アダム・スミス以後の問題になってしまっている。アダム・スミス自身も全く……。(-そうです。スミスの『道徳感情論』とか、彼のソーシャルなモラリティの哲学を抜きで。)『道徳感情論』と『国富論』はどう関係するかというのが、いわゆる「スミス問題」で、しれが核心なんで……。
 結局、市場経済主義と自由主義をほとんど等視するというのはね。それから社会民主主義でいうと、かつては社会改良主義、社会政策主義と言われたものが、今、社民主義と。そういう意味で"社民リベラル"って変な言葉が……。この記事にも「社民リベラルという奇怪な自家撞着的なネーミングが横行している」と。ところが、社民リベラルって、今使っているおかしさと、社民リベラルがあり得ないかということとは全然別でしょ。リベラルの発展したのが社民なんだからね。…社会主義を通過した自由主義、-それをリベラル。社会主義だけだと労働組合官僚主義になっちゃう。それに対して自由-リベラルということを言うんですね。したがってそれが現代自由主義で、古典的なロック時代の自由主義になかった問題。」(手帖6 「伊豆山座談(下)」1994.8.10.)

 以下の文章は前にもコラムで紹介したことがあると記憶するのですが、私にはきわめて痛快なものとして、もう一度紹介します。社会主義が決して過去のものではなく、豊富な可能性を持っているという認識がにじみ出ていると思いませんか。

 「社会主義といわれると、広い意味では賛成でしたね。それは今でもそうです。だから、このごろ腹が立ってしょうがない、社会主義崩壊とかいわれると。
 「どこが資本主義万万歳なのか」ってね‥。日本というのはひどいね、極端で。二重三重のおかしさですね。第一にソ連的共産主義だけが社会主義じゃないということ。第二にマルクス・レーニン主義は社会主義思想のうちの一つだということ、それからたとえマルクス・レーニン主義が正しいとしても、それを基準にしてソ連の現実を批判できるわけでしょ、それもしていない。ソ連や東欧の現実が崩壊したことが、即、マルクス・レーニン主義全部がダメになったということ、それから今度はそれとも違う社会主義まで全部ダメになったことっていう短絡ぶり、ひどいな。日本だけですよ、こんなの。」(集⑮ 「同人結成のころのこぼれ話」1992.6.)

RSS