米国の対朝鮮政策と日本の課題

2011.09.06

*9月3日に日朝平壌宣言9周年シンポジウムが行われ、和田春樹・東京大学名誉教授、金志永(キム・ジヨン)・朝鮮新報ピョンヤン特派員とともにパネラーとして出席し、表題について発言しました。簡単なレジュメに即しての発言だったのですが、考えてみると、最近朝鮮問題についてコラムに書いてこなかったことを思い起こし、当日の発言内容を文字にしてみました。
明年(2012年)はアメリカ、ロシア及び韓国における大統領選挙の年に当たりますし、中国でも胡錦濤体制から習近平体制への移行が予想されます。また、2012年は金日成生誕100周年で朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)にとっては「強制大国への年」と位置づけられてもいます。日朝関係では日朝平壌宣言10周年にも当たります。そういう意味で、確かに朝鮮半島情勢にとって新しい転機の年になってほしいという思いは私にも強くあります。
しかし、根拠のない希望的観測からだけでは何も生まれないわけで、私たちは正確な現実認識を踏まえた上で、現実に横たわるさまざまな困難、障害を克服することによって展望を切り開いていくという立場を我がものにすることが求められていると思います。そういう立場からの発言でした(9月6日記)。

1. オバマ政権の対朝鮮半島・朝鮮政策

<オバマ政権の虚と実>

アメリカの対外政策
第二次世界大戦後(即ちアメリカが世界の超大国として君臨するに至った時期)のアメリカ政治を見る場合には、その対内政策と対外政策とにおいて大きな違いがあることを踏まえておく必要があります。対内政策という点では、二大政党である民主党と共和党との間に、福祉重視(大きな政府・民主党)対個人重視(小さな政府・共和党)という力点の置き方の違いが見られました。就任約3年のオバマ政権が内政面で動きがとれなくなっているのは、正にその表れです。これに対して対外戦略においては、正にパワー・ポリティックスに基づくアメリカの国益追求の超党派外交が行われてきています。具体的にいえば、「世界の警察官」を自認する世界的覇権を確保する政策です。
この点において、約3年間のオバマ政権も微動だにしていません。私自身、大統領選挙戦の時におけるオバマを含めた陣営側の発言には「何か変わるかもしれない」と期待を抱いたことはあります。しかし、「核のない世界」を目指すと発言したことで世界的な関心と期待を集めたオバマのプラハ演説(2009年4月5日)を詳細に読んで検討した段階で、私自身はオバマ政権の対外政策は従来の延長線上にあるとしか判断できませんでした。プラハ演説の「虚像」と「実像」を機会あるごとにお話しするようになったのは、そういう私の理解に基づくものでした。一言だけ「核兵器のない世界」というオバマの発言に関していえば、それはあくまで「ビジョン」であり、政策ではないのです。そのことはこの3年間のオバマ政権の「実績」が何より雄弁に証明しています。
米ソ(東西)冷戦終結後特に9.11以後に顕著になったのは、アメリカが露骨に「一国主義(単独行動主義)」政策を追求するようになったことです。具体的には、アメリカを中心にして、アメリカと同調する国々を糾合した「有志連合方式」による軍事力行使をためらわない政策が露骨に追求されるようになりました。この二つの特徴はブッシュ(子)政権で際立ったのですが、既にブッシュ(父)及びクリントン両政権が始めていたことを忘れてはなりません。オバマ政権も、一定の微調整を加えてはいますが、基本的にこの路線を踏襲してきました(例:対アフガニスタン戦争)。

アメリカの対外政策の破産と見直し
 アメリカの以上のようなパワー・ポリティックスに基づく対外政策は、二つの大きな要素によって今後大きな試練に立たされることになることは間違いないと思います。
 一つは国内的要因です。即ち、軍事費のとどまるところを知らない膨張に起因する財政負担及び新自由主義原理の経済政策によってもたらされた経済危機は早晩破綻し、アメリカの財政及び経済が破産することは避けられないと思います。そのことは世界経済に想像もつかない深刻な事態をもたらすことは避けられませんが、しかし、ソフト・ランディングを可能にするような有効な対策は期待薄です。むしろ私たちが考えるべき方向性というのは、その未曾有の危機を歴史的な好機に転じるほかないと思います。アメリカ自身についていえば、パワー・ポリティックスに基づく世界覇権政策はこれ以上維持しようはなく、1950年代のイギリスが行ったような政策の根本的見直しが不可避です。大切なことは、アメリカをしてそういう現実をあるがままに受けとめて行動するようにさせることですし、「世界の警察官」がいなくなったら不安だ、というような短視眼的考慮で他の国々がアメリカに「人工呼吸器」を附けないことです。
 アメリカの財政・経済破産に対しては、国際社会は新しい国際政治経済秩序のあり方を目指す歩みに早急に着手することが不可欠です。そういう方向に舵取りを取ることこそが、アメリカの財政・経済破産をひょっとすると回避することにつながる可能性も生むし、破産が避けられない場合にも、国際的な対処能力を高めることにつながります。新国際政治経済秩序を考える場合の基本は、21世紀以後の人類史的方向性を誤りなく読み切ってその方向性に即した政策体系を国際的に作り上げることです。私個人は、人間の尊厳尊重、地球環境保全(原発廃止を含む)、核兵器廃絶の3点が最重要なガイドラインになるべきだと思います。

<オバマ政権の東アジア戦略と朝鮮半島>

オバマ政権の東アジア戦略
オバマ政権の約3年間の東アジア戦略を振り返るとき、その中身はますます「東アジア戦略=対中国戦略」という性格が濃厚になってきたと特徴づけることが可能だと思います。これは、急成長を続け、今や世界第2位の経済大国になった中国の存在を、内外政治においてますます苦境に陥りつつあるアメリカとしては到底無視できないという認識の客観的な表れであり、当然なことであると思います。日本がもう少し「シャンとしていた」ならば、アメリカの東アジア戦略もこれほどまでに単純化されなかったのではないか、とは思いますが、後述する日本政治のていたらくでは、アメリカとしては他の可能性を模索する余地はないというのが実情でしょう。その点で象徴的だったのがバイデン副大統領の中国訪問でした。正に、「中国の協力なしにはいかなる内外問題についても展望を描けないアメリカ」という現実を認めざるを得ない姿が浮き彫りになりました。
ただし、米中協調(G-2)による東アジア政治の運営に対しては手放しの楽観は許されません。アメリカは既に述べたように国益中心主義ですし、かつては「第三世界の一員」を標榜していた中国も、アメリカほどには露骨ではないにしても、ますます自国の利益を中心においた外交政策を強めているからです。 新国際政治経済秩序を展望する上では、国際的規模でのデモクラシーの実現を目指さなければなりません。主権国家が国際社会の基本単位である構図は21世紀において変化する兆しはない以上、国連憲章で定められている主権国家の主権尊重、対等平等、内政不干渉の諸原則は引き続き尊重されなければなりませんし、国家関係の民主化を更に進めなければなりません。同時に、人間の尊厳の尊重を、国家の枠組みを超えてあまねく実現するための取り組みも格段に強める必要があります。
しかし、そのことは大国の国際的な責任をいささかも引き下げることを意味するものではないのです。むしろ、国益中心主義で突っ走るのではなく、自らの行動が国際秩序に及ぼす客観的影響の重大さを自覚した責任ある国際的プレーヤーとしての大国の役割はますます高まるでしょう。そして、アメリカと中国が責任感を自覚した大国として行動するように、東アジア諸国を含めた国際社会は民主的な圧力を強めるようにしていくことが今後ますます重要になります。

オバマ政権の対朝鮮半島政策
オバマ政権の約3年間に及ぶ対朝鮮半島政策を一言で要約するならば、「米中協力」と「米日韓協力」の間で揺れ動いて腰が定まらなかった、ということになります。その最大の原因は、山積する内外の諸課題に埋もれてしまう形で、オバマ政権においては朝鮮半島の政策的順位が低かったということです。したがって、アメリカ独自の政策を打ち出すまでに至らず、中国を議長国とする6カ国協議(5.19合意)による問題解決という基本線に「安住」しつつ、しかし朝鮮に対して強硬政策を推し進めてきた韓国の李明博政権と同調し、また、オバマ政権と同じ年に成立した日本の民主党政権には全く外交当事者能力が欠落しているために政策協調どころではない、という状況で推移してきた、ということになります。
ただし、李明博政権の強硬政策(その集中的表れが韓国艦船沈没及び延辺島「事件」)が明らかに行きづまりを示し、国内的にもハンナラ党が苦境に追い込まれる中で、同政権が2012年の大統領選挙も視野に入れて対朝鮮政策の転換を模索せざるを得ない状況に追い込まれつつあること、米朝対話にも若干の動きが見られることなど、アメリカの対朝鮮半島政策も無為無策のままでは済まされないという状況は見られます。しかし、オバマ政権における対朝鮮半島政策が動きを示すかどうかのカギは、同政権の対朝鮮認識如何にあると思われます。

オバマ政権の対朝鮮認識・政策
 オバマ政権の対朝鮮認識における「関心の低さ」に関しては、その対イラン認識の所在と比較することによってよく理解することができると思われます。ポイントは大きくいって三つあります。
まず、アメリカにとっての朝鮮の地政学的重要性の低さです。イランは、イラク問題、アフガニスタン問題さらには中東問題一般・テロ対策において、アメリカが到底無視できない存在です。しかもイランは世界第2位といわれる石油埋蔵量を誇るエネルギー大国でもあります。これに対して朝鮮は、米、中、露、日に囲まれた小国であり、アメリカの対外政策においてほとんど無視しうる存在です。
次に、アメリカにとって唯一の重大な問題は核問題ですが、この点でもイランと朝鮮はアメリカにとって違いがあります。即ち、イランはあくまで原子力の平和利用の権利を主張する一方、核兵器開発の意図は否定しています。オバマ政権にとっては外交的解決を模索する余地が残された相手と認識されています。これに対して朝鮮は既に核兵器開発に踏み切ってしまっており、オバマ政権としてはその非核化を実現するという点にポイントがあります。しかし、朝鮮半島非核化の基本であるいわゆる5.19合意が規定しているのは「朝鮮半島の非核化」であり、「朝鮮の非核化」ではありません。つまり、朝鮮が非核化するとともに、アメリカは韓国(及び日本に対する)拡大核抑止力(政策)をやめなければなりません。このハードルは、オバマ政権にとって決して低いものではないのです。
もう一つのポイントは、アメリカ国内政治における朝鮮問題の位置ということです。即ち、イラン問題は、イスラエルとのかかわりで重大な国内問題でもあります。特に「ジオニスト政権批判」を公然と行うイランに如何に対処するかは、ユダヤ人が大きな影響力を持つアメリカにとって重要な国内問題でもあるのです。イランとは異なり、アメリカ国内の関心を引き起こす要素を持たない朝鮮は、オバマ政権にとってますます関心の低い対象にならざるを得ないのです。
もう一点加えるとすれば、5.19合意の「履行」ということは、朝鮮半島の非核化とともに米朝国交正常化を約束しています。これまた、オバマ政権にとっては単独で意思決定できる類の問題ではなく、韓国(及び日本)との政策のすりあわせを必要とするでしょう。
以上のように考えますと、オバマ政権が対朝鮮政策を改めることは決して簡単なことではないことが理解されると思います。

2. 日本にとっての問題点

<民主党政権の外交当事者能力の欠落>

私は、民主党政権にとっての基本的問題は、朝鮮問題に限らず外交一般について指摘せざるを得ないことですが、政策云々以前の外交当事者能力の欠落ということだと思います。私は自民党政権時代の日本外交にも厳しい批判を行ってきましたが、民主党政権に関しては、自民党政権と比較しても次の諸点で更に重大な問題があるということを指摘しないわけにはいきません。
まず、自民党政権時代には、戦後60数年政権にあったことにより、「それでもまだ歴史的蓄積という外交的暴走をためらわせる歯止めが曲がりなりにもあった」のですが、民主党政権にはそういう歴史的蓄積がゼロで、したがって「何でもあり」だということです。その典型は中国漁船の尖閣事件に対する同政権の対応でした。非核三原則の見直しに対する「腰の軽さ」も、戦後政治における核問題の歴史的蓄積を分かっていない民主党政権の危うさを示しています。要するに、何らの外交哲学・座標軸をも持たない民主党政権の日本外交には、「何をしでかすか読めない」という不安感がつきまといます。A級戦犯を始めとする日本の過去の歴史に関する野田新首相のこれまでの発言も、前原元外相らいわゆる松下政経塾出身者の怪しさを伺わせます。
以上と関係しますが、自民党の中には、少なくとも対アジア外交に熱意を持つ政治家が存在していました。しかし民主党の中には、アジア問題に確かな見識を持つ政治家がまったく見当たりません。朝鮮問題に関していうならば、「拉致」問題以外に関心がない民主党政権ということは致命的です。

<6カ国協議の進展に重大な阻害要因となっている日本>

このような民主党政権のもとでは、仮に今後6カ国協議が再開に向けて動き出すとしても、日本が協議の進展を妨げる障害になる可能性が大きいのです。この点では、二つの大きな問題があります。
一つは、5.19合意に明記されている朝鮮に対する他の5カ国による石油提供義務をまったく履行していないのは日本だけであるという問題です。日本が石油提供義務を履行しない限り、5.19合意を前進させることはできません。少なくとも、合意を何らかの形で見直さない限りはそうです。日本政府は、拉致問題に関する前進が見られない限りはこの義務を履行しないとしているのですが、このようなことは、5.19合意には一切記載がないことです。
もう一つの問題は、「「拉致」問題の解決なくして国交正常化なし」とした安倍内閣時代の日本政府の政策・立場です。このような政策・立場は日本政府が勝手にかつ一方的に言い放ったことであり、国際的には何らの正当性をも備えていないのです。民主党政権は、この自民党政権時代の政策・立場には口を閉じて黙りを決め込んでいますが、この点を明確に改めない限り、日本の当事者能力は回復されません。

<私たちの問題点>

 私は、地理的名称としては「北朝鮮」「南朝鮮」と呼ぶことに異存はありません。しかし、国名としては、「大韓民国(以下「韓国」)「朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮)」と呼ぶことにしています。「韓国」と呼ぶ場合、それに対応するのは「朝鮮」であり、「北朝鮮」ではありません。この点は、ピョンヤンを訪れた際に、朝鮮側の責任者から指摘され、私はそれまで「韓国」「北朝鮮」を並列的に無造作に使用してきた自らの認識の曖昧さ及びその曖昧さの根底に巣喰う私の感覚のいい加減さ(社会的習慣力に知らず識らず毒されている自らのいい加減さ、とも言えるでしょう)、自らの無意識の内に潜む、そしてそれだけに深刻な差別感の存在に改めて気づかされました。人によっては、国家承認していないから「北朝鮮」と地理的呼称を使うのであって、別に深い意味はないと言うでしょう。しかし、「北朝鮮」という言葉を使う中で蓄積されてきた差別観、侮蔑感の存在は否定のしようがないし、朝鮮がそれを意識していることを私たちは重く受けとめなければならないと思います。
 私は外国語では英語と中国語しか解しません。中国では「朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)」「大韓民国(韓国)」であり、地理的には「北朝鮮」「南朝鮮」と呼ぶこともあります。アメリカの場合、略称として長年、North Korea、South Koreaを使ってきたし、国名を呼ぶ場合にも近年ではROK(Republic of Korea)、DPRK(Democratic People's Republic of Korea)とするようになっています。ともに日本におけるような差別的区別を行っていないのです。
 そういえば、日本はかつて中国のことを「支那」という蔑称を長年にわたって使っていました。習慣というものはこわいもので、今でも「支那そば」というのれんを堂々と掲げているラーメン屋を見かけることがあります。右翼にはことさらに「支那」というものがいます。そして、「韓国」といいながら「北朝鮮」ということに何らの違和感を抱かない日本人が多い現実に、私は、明治以来権力によって国民意識にすり込まれてきた「中国蔑視」「朝鮮蔑視」さらには「アジア蔑視」の感情が相変わらず根を張り、はびこっている現実を感じるのです。
 それは考えすぎだ、そんなに根のある話ではない、と一笑に付す向きもあるでしょう。しかし、第二次大戦後かなり長い間(今でも一部のアメリカ人の間には)日本(人)のことを軽蔑感(ときには憎しみ)を込めてJapと呼んだ(呼んでいる)現実があります。心ある日本人であるならば、こう呼ばれることに怒りと屈辱を感じた(感じる)でしょう。そのことさえ思い出し、気づく最低限の感覚を持っている人であるならば、朝鮮の人たちが日本人に「北朝鮮」と呼ばれることに、また中国人が日本人に「支那」と呼ばれることに如何に複雑な思いを味わわされてきたか(いるか)は、分からなければおかしいというものです。
 ましてや、一人一人の人間は、国民(無国籍の人はしばらくおくとして)であると同時に、いやその前に他の何ものによっても代えることのできない、かけがえのない「個」としての尊厳を持つ人間存在です。自らの尊厳を他のいかなる者が冒すことを私たち一人一人が拒否するように、私たちもまた他のいかなる一人一人の他者の人間としての尊厳を冒すことは許されてならないはずです。他者を他者としてその内側から理解する目、「他者感覚」こそは、一大部落共同体・島国日本にどっぷりつかってしまってきて私たち日本人にこそ、切実に訓練によって我がものにすることが求められている感覚・目なのです。  他者感覚の欠如する人間には、まっとうな歴史観も国際観も育ちようがありません。自分に都合の悪い歴史・過去は「水に流して」恬として恥じることがない私たち日本人。国際関係においても、天皇中心からアメリカ中心に切り替わっただけの天動説的国際観で、上下関係でしか国際関係を捉えられない日本人。戦争責任を頑として否定する日本人の救いがたさは、このような歴史観と国際観の集中的産物であるのです。

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