朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)訪問

2008.10.

1.朝鮮訪問

9月20日から24日まで4泊で平壌を訪問しました。7月の下旬に友人を通じて朝鮮対外文化連絡協会(対文協)の方から「浅井先生のような友人と平壌でお会いできれば嬉しく思います」という非公式な打診があり、私としてもかねてから朝鮮を実見してみたいと思っていましたので、すぐにお受けし、今回実現したというわけです。航空便の都合もあり、土曜日出発・水曜日帰国という限られた日数でしたが、「百聞は一見に如かず」を深く実感することのできる旅行でした。それにしても、出発前日は関西空港近くで宿泊、当日は10:05関空発、大連-瀋陽経由で17:05に平壌到着、実に7時間かかるのです。国交が正常化されていればものの2時間程度で行き来できるのにと、政治の異常さを改めて痛感しました。しかも、平壌とソウルの間の距離は200キロ弱というのですから。
一日目(21日)は、午前に錦繍山記念宮殿(かつての金日成主席の執務拠点で、その遺体を安置してある場所)とチュチェ思想塔(その頂上までエレベーターで上り、市内360度見回すことができた)、お昼に黃虎男(ファン・ホナム)局長主催の対文協の歓迎宴(そこでの話の内容の詳細は後述)、午後は万景台(金日成の生家が保存されており、市内を一望できる平壌市民憩いの場所とか。日朝間を往来する万景峰号の名前はここから来ることを教えられました)、モスクワの地下鉄を思わせる地中深く掘ったところにある地下鉄試乗。
二日目(22日)は、板門店(平壌から約130キロとのことで、舗装のよくないハイウェーを走ること約2時間半で着きました。近づくにつれ、検問箇所が3カ所ぐらいありましたが、銃を背にした兵士には緊張感がなく、とにかく凶器が苦手な私は銃を見ただけでも違和感が走るのですが、兵士の穏和な表情にほっとしました)、非武装地帯に所在する開城(ケソン。韓国企業による工業団地を遠望しました)の民俗旅館で伝統料理の昼食を取った後、近くの儒教関係の古い建物(朝鮮語の授業の際に「玉龍館」という名前であることを教えてもらいました)を見学(豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、今から1300年前に立てられた建物が破壊・焼失、その後再建されて500年ぐらいが経っているとか。ここにも日本の侵略の跡を突きつけられました。敷地には樹齢1000年を超す見事な木々が10本近く緑青々と葉を茂らせているのは壮観でした。また、発掘された磁器類は1000年を超す国宝級のものでしたが、無造作(?)に陳列されているのにはあっけにとられました。)。
二日目の夜は、今年が国家創建60周年に当たることから、共和国成立までの歴史と今日そして未来を描き出す壮大な叙事詩「アリラン」を15万人の収容力を誇る5.1スタジアムの一等席(ちなみに150米ドルでした!?)で鑑賞。このための練習及び参加を通じて青少年が「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という精神を身につけていくのです、という対文協の人の意外感を与える説明でほっとする気持ちにはなりました。
三日目(23日)は、午前中に人民大学習堂(図書館の機能を中心に、様々な学習、研修機能を備えた堂々たる建物。試しにベルト・コンベヤー方式で流れてきた日本の書籍3冊を見ましたが、いずれもかなり古いものでした。しかし、教育に熱心な姿を窺うことはできました)を見学した後、軍縮平和研究所の方とお会いし、私が事前に用意した質問に答えていただく形で30分ほどの意見交換ができました。この点についても、後で詳しく紹介します。お昼にこちら側の答礼宴があった後、午後は対文協を表敬訪問し、洪善玉(ホン・ソンオク)副委員長と懇談。
その後は金日成総合大学を訪問し、ここで学んだ金正日総書記の足跡を展示してある何室もの部屋を見学しました。ここではじめて私として分かったことは、金正日は、大学に入ったときから金日成の後継者となるべく英才教育を受け、在学中も金日成の各地への視察旅行に度々同行し、指導者としての才覚を身につけていったということでした。そして、大学を卒業すると同時に、最高指導者たるべき才能に磨きをかけていったのです。折から彼の病気説が流れる中、金正日の息子たちのことがほとんど取りざたされていないわけですが、金正日がなるべくして指導者になったのとは異なり、金正日の後継者問題は、簡単に息子の誰かがなるというわけにはいかないのではないかと思ったりしながら、説明に耳を傾けておりました。
以上、今回の旅行は、私にとって1991年以来2度目のものであり、しかも前回は宿泊したのが人里離れた山の中の招待所だったので、平壌市内を見ることもままならなかったわけで、実質的には初めての本格的な朝鮮訪問ということであり、見学したのは本当の入門編といったところでしたが、私としては大きな収穫を得て帰ってきました。

2.対文協指導者との懇談

ファン局長とは2度の宴席で、また、ホン副委員長とは表敬訪問に際して意見を交わし、私としては初めての対面であったにもかかわらず、とても率直な意見を聞くことができ、認識を深めることができました。また、私のウェブ・サイトをよく見ていることが理解される発言が繰り返され、私としては意外なところに読者がいるものだと感じました。
<私の朝鮮問題に関する基本認識についての確認>
 まず確認できたことは、私がウェブ・サイトの「コラム」で度々朝鮮にかかわって書いてきた朝鮮問題に関する分析や認識が基本的に的外れではないということでした。私は、折に触れ朝鮮の外交的一貫性ということを指摘してきました。そういう意味では朝鮮外交は見やすいともいえるということも書いた記憶があります。したがって、交渉においては強力に自国の利益を保全する立場からタフな外交を展開することは当然です(対米追随で自主性のない日本はむしろ国際的には異常かつ例外であり、自国の利益を保全することが原則であるのはどの国も同じ)が、アメリカに対するにせよ、日本に対するにせよ、また6者協議においてにせよ、朝鮮は約束したことは必ず守る(守らなければたちどころにアメリカにつけ込まれ、たたかれる)ということです。しかし、相手側が約束に違える行動に出るときには、朝鮮はそれに即して自らの対処ぶりを決めるということになります(6者協議の行き詰まりに関しては後述)。特に「行動対行動」という原則が中心に座る6者協議に関しては、この点が明確に出ることになるわけです。二人との意見交換を通じて確認できたのは、彼らもそういう私の分析・認識を高く評価し、その通りであると強調していたことでした。
<私のこれまでの想定を上回る厳しい対日認識>
 次に、植民地支配の過去を清算する意図も全くなく、虚妄の「北朝鮮脅威」論をでっち上げて日米軍事同盟の変質強化(それ自体が朝鮮にとってはとてつもない脅威となっている)に邁進し、日朝平壌宣言の完全履行による日朝国交正常化についても、いわゆる拉致問題をあげつらうことによって制裁措置まで仕掛けている日本政府の行動に対して、私は、朝鮮側が非常に憤慨していても当然だ、と思っています。その点について、二人から異口同音にきわめて厳しい対日批判の認識が表明されたことは、予期していたこととは言え、その私の予想をも超える厳しさと率直さだったことに、改めて朝鮮が如何に日本の言動に傷ついているかを思い知ることになりました。特に、朝鮮側は約束したことはしっかり守ってきているのに、日本政府が日朝平壌宣言で約束したことを平気で破り、しかもそれが一回や二回だけでなく、度重なるものであるということについて、二人が怒り心頭に発しているということがビンビンと伝わってきました。「日本には政治家はいない、みんな政治屋だ」という冷め切った対日認識が根底に座っていると痛いほど感じました。こういう経験は、中国との間でもかつて遭遇した覚えがありません。日朝国交正常化の道のりは、日本側の姿勢が根本的に正されない限りむずかしいのではないかと思わされました。
<日朝国交正常化の基礎は平壌宣言>
二人の発言からは、日朝国交正常化は平壌宣言に基づいて、という認識が明確に伝わってきましたし、宣言に盛り込まれている原則に双方が従うことによって国交正常化は可能になる、という意味で、平壌宣言は今後とも日朝双方が基本に据えるべきものという認識であることも、当たり前といえばその通りなのですが、明確に確認することができました。
<個人の請求権問題>
私が「コラム」で書いたことがあるように、日朝国交正常化に当たっての最大の問題は日本による過去の清算です。この問題にかかわって、私はこれも「コラム」で書いたことですが、朝鮮が賠償・補償の要求を取り下げ、1965年の日韓方式である経済協力形式に応じたことは重大な「妥協」「譲歩」であり、日本及び日本人が過去と真摯に向き合う機会を客観的に失わせるものであると指摘しました。これに対する先方の発言は次のようなものでした。
つまり、いわゆる従軍慰安婦、強制連行などによる個人の請求権は経済協力によってカバーされる対象には含まれない、というものです。先方の発言から想像したのですが、この平壌宣言における「妥協」「譲歩」には、朝鮮国内でもかなり議論の対象になってきた可能性があります。特に、いわゆる従軍慰安婦、強制連行という日本の国家を挙げての巨大な犯罪である拉致行動には無視・だんまりを決め込んで、ひたすら朝鮮側の拉致をあげつらう日本側の対応を見て、朝鮮側としても、日本側に釘を刺す必要を感じるに至ったのかもしれません。私は、そういう考え方(経済協力には個人の対日請求権は含まれないという考え方)は日本政府に対して伝えているか、と聞きましたが、ハッキリ伝えている、という答えに接しました。
<いわゆる拉致問題>
いわゆる拉致問題に関する私の認識は、これも「コラム」で書いてきたことですが、平壌宣言の内容は、朝鮮は二度とそういうことを行わないと約束したことに尽きているわけで、日本政府が主張するような「拉致問題の解決なくして日朝国交正常化なし」とする論拠は宣言のどこからも出てきません。もちろん、まだ生存している被拉致者がいるのであれば、その人たちの返還を要求するのは当たり前ですし、そのための調査をする(それを実現するための外交交渉を含む)ことも当然のことです。しかし、それは、日朝平壌宣言の枠組みには含まれていませんから、別途の枠組みで交渉すべきことであり、日朝国交正常化交渉の障害に仕立て上げることは、宣言に立脚する限り、許されることではありません。日本政府がこのように基本姿勢を平壌宣言に即して正さない限り、私は拉致問題の進展は望めないだろうとの思いを、二人の発言から再確認しました。

3.平和軍縮研究所幹部との意見交換

私は朝鮮に平和軍縮研究所という機関が存在することを最近まで知りませんでしたが、ちょっとしたきっかけでその存在を知り、是非とも関係者にお会いしたいと思い、対文協に実現することを強く希望しました。はじめはすんなり実現しそうだったらしいのですが、6者協議を巡ってアメリカの「国際基準に基づく検証」(後述)という新しい要求が出されることによって暗転した米朝関係を背景に、研究所側はアメリカべったりの日本からの訪問者である得体も知れぬ私との面会を渋ることになり、対文協は多いに苦労してやっと面会をセットすることに成功したという苦労話を聞かされました。対文協には感謝感謝です。
 お会いした責任者は、用意してきたペーパーにしたがって、核問題を巡る現状を説明した上で、私があらかじめ提出しておいた質問に、これまた用意してきたペーパーに基づいて答えるという慎重な姿勢でした。
<冒頭発言>
 現在米朝関係は10.3合意(注:2007年10月3日に第6回6者協議第2セッションで合意された「共同声明の実施のための第2段階の措置」のこと)に支障がもたらされることによって難関を迎えている。10.3合意では、朝鮮半島の非核化のための第2段階の措置が規定されている。朝鮮側は「2月13日の成果文書に従って、すべての核計画の完全かつ正確な申告を行う」ことになっており、アメリカ側は北朝鮮をテロ支援国家リストから削除することになっている(浅井注:原文の該当箇所は、日本の外務省の仮訳によれば、「アメリカ合衆国は、朝鮮民主主義人民共和国のテロ支援国家指定を解除する作業を開始し、朝鮮民主主義人民共和国に対する対敵通商法の適用を終了する作業を進めることについてのコミットメントを想起しつつ、米朝国交正常化のための作業部会の会合におけるコンセンサスを基礎として朝鮮民主主義人民共和国がとる行動と並行してコミットメントを履行する」)。朝鮮は、6月26日に申告書を提出することによってその義務を履行した。しかしアメリカは、申告書の検証問題が合意されなかったということを理由にして、朝鮮をテロ支援国家リストから外す義務を履行しようとしていない。
 明確なことは、検証問題については6者協議においても、米朝間においても合意されたことは何もないということだ。アメリカの要求するような、テロ支援国家リストの削除の前提として検証を受け入れるというような合意はどこにも存在しない。検証に関して存在する唯一の合意は、2005年9月19日に出された第4回6者協議における共同声明で、朝鮮半島の非核化の最終段階で6カ国が受け入れることが決まっていることだけである(注:共同声明第1項は、これも日本外務省の仮訳によれば、「六者は、六者会合の目標は、平和的な方法による、朝鮮半島の検証可能な非核化であることを一致して再確認した」という表現で検証に言及している)。
 ところがアメリカは、「国際基準に基づく検証」という要求を持ち出してきた。それが意味することは、任意のところで試料を採取するということ、朝鮮国内の津津浦々を探し回るということだ。しかし、朝米両国は交戦状態にある。北朝鮮はNPT、IAEAの加盟国でもない。アメリカの魂胆は、朝鮮の一方的な武装解除を強いるということであり、イラクで行ったような家宅捜索を朝鮮に対しても行うということで、敵視政策をあらわにしたものに他ならない。
これに対して朝鮮は、8月14日に無能力化の作業を中止した。そして寧辺(ニョンビョン)での原状復帰を作業中だ。また、9月19日には外務省スポークスマンがアメリカによるテロリスト支援国家リストからの削除を「願ってもいないし、期待もしていない」という声明を出したところだ。
(私の質問に対し)「国際基準」の狙いはあらゆることを調べるということであり、1990年代初めにアメリカが持ち出した特別査察と同じことだ。アメリカは、イラクに対する戦争を始める前にこの「国際基準」で虱潰しに調べ、しかもその後に戦争を仕掛けた。先ほども述べたように、朝鮮とアメリカは交戦状態にあるのだから、その相手に軍事施設まで見せるわけにはいかない。
(私から、アメリカが当初求めていたのは、シリアに対する核技術移転及びウラン濃縮疑惑にかかわる2点だったと理解してきたが、「国際基準」ということは要求をさらにエスカレートしてきたということなのか、と質問したのに対し)シリアに対する協力はかつてもなかったし、今もないし、これからもない。その点は政府の名において明らかにした。ウラン濃縮疑惑についていえば、2002年にケリー次官補(当時)が言いだしたもので、1994年の枠組み合意を破棄する責任を朝鮮に押しつけるために作り上げたねつ造である。質問について言えば、アメリカの要求がエスカレートしたということである。
(私から、ライス国務長官やヒル国務次官補は6者協議を前進させたいと考えていると思っており、今回のアメリカ側の動きはタカ派の巻き返しによるものではないかとも思うが、と指摘したのに対し)朝鮮を圧殺しようという魂胆、社会主義制度を目の上のたんこぶと考えている点では、ライスやヒルもチェイニー以下のネオコンと同じである。社会主義に敵対するという目的では彼らは同じで、方法に違いがあるに過ぎない。今後誰が大統領になろうとも、我々の態度は終始一貫しており、朝鮮に対する敵視政策を止め、共存する用意があるというのであれば、我々としても対応する用意があるということだ。
<私の質問事項に対する回答>
① 朝鮮が核兵器開発を決定するに至った最大の理由は何か(注:私がこの質問をした趣旨は、朱室長に対する質問状にも記しましたが、核兵器の開発は一朝一夕にできるものではなく、長期にわたる研究開発の上に可能になるものであることを踏まえた上で、現実に核実験にまで踏み切るに当たっての最大の直接的な原因は何かを尋ねることにありましたが、以下の回答は私がこれまで考えてきたとおりの内容でした。)
 そもそもの発端は、アメリカが南に核兵器を持ち込み、北に対して敵視、威嚇の政策をとったことにある。すなわち、1957年7月に南にいた米軍は核武装化着手を公言し、1958年9月には核兵器持ち込みを公式に発表した。また、チーム・スピリット以下様々な軍事演習を行ってきているが、どれも核先制攻撃のためのものだ。そして、ブッシュ政権になってさらにエスカレートし、朝鮮を先制攻撃リストに載せた。特に2期目に入った2005年には、朝鮮の圧政を終わらせることが目的とまで表明した。6者協議の中でもそういう意図をあらわにして、朝鮮の一方的な武装解除を迫ってきた。2005年9月19日の共同声明直後には金融制裁を発動し、朝鮮を経済的に窒息させようとした。その結果、1年近くも6者協議は膠着したが、朝鮮としてはアメリカの日増しに増大する脅威に対して手をこまねいているわけにはいかず、2006年10月に自衛のための核実験を行った。要するに、朝鮮が核兵器を保有するに至ったのは、アメリカの敵視政策の産物だということだ。
② 将来朝米平和協定が成立し、国交が正常化されるときには、朝鮮は核兵器を放棄する用意があるか(注:「コラム」でも指摘してきたように、私は、朝鮮の核兵器保有は自己保全のためのぎりぎりの選択だった、ということであり、自己保全が保障される状況、すなわちアメリカの朝鮮敵視政策の確実な放棄が実現すれば、朝鮮は非核化に応じると判断するに十分な根拠があるということで、その点を確認したかったのですが、朱室長の以下の回答は私の予想通りのものでした)。
 前記の9.19共同声明に基づいて朝鮮半島を非核化するという意図に何らの変更もない。国交が正常化され、信頼関係が醸成されれば、核兵器は必要なくなる。我々をして核兵器保有に突き進ませた原因を除去すれば、核兵器を保有する必要はなくなる。
③ 自らの核兵器保有の根拠として「核抑止力」という考え方に立っているか(注:私は前に「コラム」で書いたのですが、1964年当時の中国及び2006年の朝鮮の核実験と核兵器保有について、果たして伝統的な「核抑止力」という考え方で理解することで良いのか、という疑問を持つようになっています。潜在的なライバル関係を強めている米中関係における核兵器については、米中双方が核抑止力という考え方に立脚していることは疑問の余地がありませんが、アメリカの敵視政策の廃棄との見返りに非核化に応じるはずの朝鮮の核兵器保有というのは、「抑止」というよりも「緊急避難」なのではないか、と思うのです。ただし、朱室長は、以下のように明快かつ断定的に抑止力だと答え、私の思いは空回りでした)。
 その通り。朝鮮の核兵器は、圧殺的なアメリカの核攻撃を抑止するために作られた。戦争抑止力としての使命は変わっていない。

4.朝鮮訪問の印象

初物づくしの朝鮮訪問でいろいろ印象に残ることがありましたが、思いつくままにそのいくつかを書き留めておきたいと思います。
 まずはっきりさせておきたいことは、私の朝鮮に対する関心の所在は、朝鮮半島に再び戦火が起これば直ちに日本に波及し、私たちは戦争(有事)に直面するということです。しかも、その戦争(有事)は朝鮮が発動することはあり得ず、アメリカの先制攻撃によるものに限られるということなのです(朝鮮が戦争を仕掛ければ、次の瞬間にはアメリカの報復攻撃で朝鮮は灰になることを朝鮮自身が一番よく知っている)。そのような戦争は、日本がアメリカの言いなりなる場合にのみ起こるわけで、私たち日本人がアメリカの言いなりにならない決意さえ持てば未然に防ぐことができるということが決定的に重要です。朝鮮の南北の人達と私たちがアメリカの勝手な戦争で途方もない犠牲を受けるようなことがあっては断じてなりません。そういう不測の事態が起こらないように、私としては、これからもささやかであっても「コラム」でなるべく正確な情勢判断を示して、読者に注意喚起をしていきたいと思っています。そのためには、朝鮮をよく理解することが不可欠です。これからも機会があれば、何度も訪朝し、朝鮮に関する私自身の認識を確かなものにしたいと改めて強く思ったのでした。
 次に、私は朝鮮の内政に関して積極的に発言するつもりはないということも、この際はっきりしておきたいと思います。もちろん、私は人間の尊厳を私のあらゆる思考の原点に据えていますし、あらゆる物事を判断する際の私のモノサシは「人間の尊厳」ということです。そして、私がこのモノサシに基づいて朝鮮問題を見るとき、私の最大の関心は人間の尊厳をもっとも極限的な次元で損なうことになる戦争を絶対に起こさせてはならないということです。私の朝鮮問題に関する発言はこの一点を軸にして行っています。日本国内では、独裁体制で朝鮮の人々の人権を限りなく脅かしているという評価が朝鮮についてつきまとっていますが、私としては朝鮮内部の問題は朝鮮の人達自身によってその進路を決定するのが筋道であり、私はいわゆる「人道的介入」などには与することはできません。ましてや、かつての軍国主義・日本が朝鮮半島で行った国家を挙げての拉致政策(いわゆる従軍慰安婦、強制連行)については口を閉ざし、もっぱら朝鮮の拉致問題をのみあげつらう今の日本の状況には、私は到底与するわけにはいきません。
 私は今回初めて平壌市内を見ることができましたし、見学先では様々な人間関係についても目にすることができました。私がそれらから得た最大の印象は、実は当たり前のことですが、ごく普通の人間関係が営まれているということでした。確かに全般的に見れば「貧しさ」を印象づけられました。しかし、市内では元気な子どもたちの姿に接することができましたし、談笑しながら道を歩く人々の群れもいました。私たちを各地で案内してくれた人々もリラックスしていて、不自然さはまったくありませんでした。「ありらん」を鑑賞した後家路に向かう人達は、いかにも公演をエンジョイした後の興奮に包まれているように見受けられました。要するに普通の人々の普通の生活が営まれているということでした。農村を見たわけではないので、あくまで平壌とケソンからの印象ですが、今年は米もよく実っていることが移動の道すがら確認することもできました。
 最後に、朝鮮の食事のおいしさということです。私は正直まったく期待していなかった(1991年の訪朝の際は招待所に閉じこめられて、まずい食事に閉口した記憶が生々しい)のですが、本当に予想外のおいしさでした。しかも、在日の方が出資しているレストランもあります(個人経営の出店も散見された)。更にびっくりしたのは、平壌ではもちろんのこと、ケソンでも外貨がそのまま支払い手段として通用するということでした。
 一つ気になったことといえば、入国に際して携帯電話が取り上げられるのはいかがなものか、と思いました。日本製の携帯は朝鮮では使えないのですから、取り上げる意味がありません。実は、私も出発寸前にそのことを聞いたとき、のり子にメールで「そんなことがあるって」となにげに知らせたのですが、直ちに返信メールがあり、個人情報が取られる恐れがあるから、携帯を持っていってはダメだよ、と忠告されて、やっと事柄の意味に気がついた次第です。私は携帯をのり子に送って出かけたのですが、朝鮮入国に当たっては、携帯を潜ませていないか、鞄の底まで念入りに調べられました。この問題については、是非朝鮮側には再考して欲しいと思います。

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