日米同盟の深まる危険と日本国憲法第9条

2007.08.12

*8月3日に行われた原水禁世界大会で行った発言です(8月12日記)。

私は、去年の大会の場でも発言し、日本国憲法の国際的・歴史的意義に関し、三つの点を上げました。一つは、日本国憲法はポツダム宣言の約束履行であるということです。具体的には、軍国主義の徹底した清算、また、軍国主義を生み出した全体主義を清算し、徹底した人権・民主主義国家に生まれ変わることを約束したのが日本国憲法であるということです。二つ目は、憲法が原爆投下をふまえたものであること、「核時代」の憲法であるということです。つまり、核時代における戦争は、核戦争に発展する可能性が極めて高いゆえに、戦争はもはや政治の延長として正当化することは許されなくなったのです。憲法第9条は、正に核時代における平和のあり方として「力によらない」平和観を示しています。三つ目は、日本国憲法こそが21世紀国際社会の指針を示しているということです。日本国憲法が体現する人間の尊厳に立脚する人権・民主、そして人間の尊厳とは両立し得ない「力による」平和観を否定して「力によらない」平和観に立脚する日本国憲法こそが、人間の尊厳を地球規模で、普遍的に実現することが人類的課題になっている21世紀国際社会の拠るべき指針を示しているのです。今回の発言を行うに当たっても、私は日本国憲法の国際的・歴史的意義として、以上の三点を皆様とともに再確認しておきたいと思います。

 ところが日本においては、米ソ冷戦が終結した1990年代に入って、アメリカの対日軍事要求が逆に強められ、21世紀初頭に大統領になったブッシュ政権の時代に入ると、公然と第9条を変えろという要求までが出る状況が現れています。なぜでしょうか。

ソ連脅威論から解放されたNATOが自らの存在理由を模索する中で、ここアジア太平洋では、1993年から1994年にかけてのいわゆる北朝鮮核疑惑をめぐって一触即発の軍事緊張が高まりました。また、1996年には、台湾海峡においても、台湾の独立への動きを牽制する中国の軍事演習が行われて、やはり軍事緊張が高まったのです。このような事態に対して日本がアメリカと一緒になって軍事的に即応することができない(アメリカの要求に応えることができない)実態が浮かび上がり、これを重大視したアメリカの圧力(ナイ・イニシアティヴ)で、対米軍事協力が積極的にできるようにする日米軍事同盟の強化を目指す動きがクリントン、ブッシュ両政権のもとで鋭意進められることになったのです。

 特に2001年に相次いで政権についてブッシュ大統領と小泉首相は、日米同盟の変質強化を全力で進めました。ブッシュ政権が対テロ戦争の名のもとに強行したアフガニスタン戦争(2001年~)及び国際法違反のイラク戦争(2003年~)に対して、小泉政権はそれぞれ対テロ特措法及びイラク特措法をでっち上げて、憲法違反の自衛隊の海外派兵を強行しました。

 それだけではありません。アメリカが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、中国との戦争シナリオを描いており、これに日本が全面協力するための体制づくりも着々と行われてきました。一連の有事法制づくりがそれです。そこでは、アメリカが開始する戦争に協力する日本に対して、北朝鮮、中国が反撃してくることにより、日本が戦場になる事態はもちろん、戦争のエスカレーション次第では日本に対する核攻撃や原子力発電所破壊による核被害も織り込んだ国民保護計画が作られるまでになっています。憲法第9条があるにもかかわらず、日本は既に「戦争する国」になってしまっているのです。私は、有事法制及び国民保護計画の危険性と憲法違反の本質について、機会あるごとに叫んできたつもりですが、残念ながら国民のほとんどは無関心を決め込んできました。この時、私は日本国民の反核感情に対して大きな疑問を持つことを禁ずることができませんでした。

 しかし、アメリカはまだ満足していません。アメリカは、日米軍事同盟が米英軍事同盟並みに機能するようにすることを求めています。そのためには、憲法第9条の存在はどうしても邪魔なのです。アメリカの要求の所在をよく知る日本の改憲勢力は、第9条改憲に一つの狙いを定めた改憲攻勢を強めています。改憲手続き法である国民投票法が強行成立された今、私たち日本国民は、最短では約3年後に改憲提案に対する主権者としての意思表示を行うことを迫られることになっています。

万が一、過半数の国民が改憲提案を受け入れてしまう場合、戦後徹底して憲法をネグって来た自民党をはじめとする保守政治のために、私達がポツダム宣言受諾で国際社会に対して約束した軍国主義・全体主義の徹底した清算、人権・民主国家のへの生まれ変わりは履行できないことになってしまいます。また、第9条が変えられてしまうことにより、第9条が代表する、核時代の戦争はあり得ないという人類史的認識も根本から挑戦を受けることになります。21世紀国際社会の拠るべき指針を示している第9条を含む日本国憲法が姿を消すことは、アメリカ(及び日本)を先頭とする「力による」平和観の横行を許し、人間の尊厳に立脚するべき21世紀国際社会の前進を大きく妨げることになるでしょう。

このように考えてきますと、日米軍事同盟の暴走を許すか許さないか、第9条を含む日本国憲法の改悪を許すか許さないかは、ひとり日本国民だけの関心事ではなく、核兵器廃絶を目指し、戦争のない社会の実現を希求する世界の人々すべてにとっての共通の関心事であることが分かるはずです。したがって私は、この国際大会が、日米軍事同盟の再編強化を許さず、第9条を含む日本国憲法のかけがえのない価値を確認することを強く望みたいと思います。

私は、最近の日本国内における核兵器にかかわる新しい動きについても、若干の意見を述べさせていただきたいと思います。

2006年10月に北朝鮮が核実験を行った直後、日本国内では中川政調会長が核武装議論容認発言をし、麻生外相も核保有問題に関する「言論を封殺するという考え方には組みしない」と言いましたが、安倍首相は両者の発言を咎めようとはしませんでした。また、2007年6月30日に久間防衛相が長崎に対する原爆投下を「しょうがない」としてアメリカの原爆投下の責任を問う気持ちはないことを明らかにした際にも、安倍首相は、当初、久間発言は「アメリカの立場を説明したもの」として、その責任を追及しようとしませんでした。久間発言が特に問題であったのは、国際情勢如何によってはこれからも核兵器の使用はあり得るという認識を明らかにした点にあります。最終的には、久間防衛相は、参議院選挙に対する影響を理由に辞任しましたが、最後まで自分の行った発言の重大性を認めることはなかったのです。

私はまず、日本政府・与党の最高幹部たちのこのような発言が飛び出てくることを、単なる失言とか、ものの弾みとかとして見逃すことは絶対にあってはならないことだと思います。彼等のこのような発言は、例えば20年前、30年前であれば、およそ考えられなかったでしょう。逆に言うと、この20年のうちに起こった変化が彼等をしてこのような発言をしても許されるという気持ちを生むことにつながっている、ということです。その変化とは、既に述べたように、1990年代から今日まで続く、北朝鮮脅威論や中国脅威論を正当化理由にした日米軍事同盟強化の動きであり、そして今や改憲までをも政治の具体的日程にまで乗せてきた政府・与党(及び民主党)の政治攻勢が大きな国民的抵抗に直面することもなく、政府・与党のペースで進んできたということです。

より直截にいえば、核攻撃・核被害を想定した国民保護計画に対して国民の側からほとんど声も上がらないという状況は、政府・与党をして、国民の核アレルギーはもはや大したものではない、という判断を生んだのではないでしょうか。北朝鮮脅威論を振りかざされると、国民の中には「日本も核武装が必要かも知れない」、「アメリカの核の傘は必要だ」という「現実」論が生まれていることは否めない事実です。

私たちは、このような厳しい現実から何を教訓としてくみ取ることが求められているでしょうか。私としては、主に二つのことを申し上げたいと思います。最初の点は、国際的な課題です。第二の点は、優れて日本の私たちにとっての課題です。

第一に、核兵器廃絶を妨げ、核兵器拡散を招いている最大の原因はアメリカの核固執政策にあることを正確に見据え、アメリカに対してその政策を改めさせることに全力を傾けることです。その場合、アメリカが核政策を正当化する最大の拠り所が、「広島、長崎に対する原爆投下は正しかった」とする原爆神話に多くのアメリカ国民がしがみついていることにあることを考える時、これからの私たちの運動の矛先をアメリカ世論に対する働きかけに向ける、という方向性をしっかりと我がものにすることが必要ではないでしょうか。

第二に、私たちは「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」を原水爆禁止運動の原点に据えてきたのはどういうことか、について改めて考え直す必要があると思います。中川発言や久間発言を許してしまった私たちの核兵器、核戦争に対する認識の弱まりを痛切に自覚し、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」にもう一度魂を吹き込むことが求められていると、私は強く思います。それは具体的には、非核三原則を徹底的に守る日本にすることであり、アメリカの「核の傘」にはいることを含めた日米軍事同盟を清算するべく、この国のあり方を根本から改めさせることでなくてはなりません。「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」を貫く私たちは、日本政治の根本的転換を目指す必要があると思います。

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