*この文章は、ある研究会で報告するたたき台として作ったものです。研究会では、国際的な武力行使に日本が積極的に参加するべきだという立場からの改憲論が勢いを強めている状況を踏まえ、平和憲法を活かす立場に立つ私たちが、国連が関わる武力行使に対してどういう観点を我がものにするべきかいうことを中心にして、私が問題提起することを求めました。
2004年12月に、国連事務総長の諮問委員会が「より安全な世界:我々の共有する責任」と題する国連事務総長に対する報告(副題:「脅威、挑戦及び変化に関するハイレベル・パネルの報告」)(以下「報告書」)を出しました。日本のマスメディアでは、安保理改革の箇所にだけ注目が集まりましたが、この報告書における安保理改革の位置付けはほんの一部分であり、全体の報告書を見ると、国連が国際的な武力行使にどのように関わるか、ということが中心的テーマだったことが分かります。そして重大なことは、報告書が国連安保理の決定する武力行使については無条件で支持する立場から報告をまとめていることです。
容易に推察できることは、日本政府(及びその後にいる保守政治)は、この報告書の武力行使を積極的に容認する内容を、日本の「軍事的国際貢献」を推進することに利用するであろうということです。つまり、安保理決議があるのであれば、「国連中心主義」の立場の日本としては、それに積極的に協力するべきである、という主張です。国連に「弱い」日本人の心情を考えますと、この報告書の内容が日本政府の主張を支持し、補強する役割を果たすことに利用されることが十分考えられるのです。多くの国民の間で信望の厚い緒方貞子氏がこの報告書の作成に加わっていることも、多くの日本人がこの報告書を批判的に読むことをむずかしくしていると思います。
しかし、以下に明らかにするように、この報告書には極めて重大な問題があります。とても無条件で受け入れられる代物ではありません。私は、この報告書を批判的に検討することによって、多くの日本人に共有されている「国連信仰」の危険性を指摘する必要性を感じました。私たちがよりどころにするべきは平和憲法であり、「国連信仰」ではありません。平和憲法を基準にして国連の行動(国連安保理が容認する武力行使)を冷静に判断する必要があると確信するのです。国連といえども、間違った行動を取る場合がある。そのときには、私たちは「国連は間違っている」とハッキリ言うべきなのです。
以下においてまとめたレジュメ的な文章は、以上の立場に立ってまとめたものです。私が研究会用にまとめたレジュメは、第一部として以下の内容を記し、第二部として日本の憲法状況との係わりに言及しました。第二部に当たる部分については、このコラムですでに扱った内容ですので、ここでは省略しました。少し専門的な内容になっていますので、読みづらいかも知れませんが、関心のある方にはそれなりに読み応えがある中身になっているのではないかと思います(2005年1月18日記)。
−国家間紛争の場合
−国内危機の場合
「中央政府が要求しまたは全当事者が同意する場合(人道援助に関するガイドライン(原注:1991年12月19日の総会決議46/182付属のガイドラインの趣旨に従えば、この要求は国家主権の侵害に当たらないし、憲章第2条7項にも矛盾しないと見なされる)は、予防展開が被害を軽減し、暴力を制限・管理することに役立つ場合がある。」(ガリ報告の一節)
*この場合は、それまでのPKO3原則の枠内にとどまっている。
「公平に提供された人道的援助は、安全を維持し、生命を救い、交渉を行いうる安全な条件を作り出すという点で、極めて重要である。」(ガリ報告の一節)
*上記の人道援助に関するガイドラインにおいては、人道援助が人道性、中立性及び公平性の原則に従うこと、憲章に従って主権、領土保全及び国家的統一が完全に尊重されるべきこと、かつまた、人道援助は影響を受ける国家の同意及び、原則として、その国家の要請に基づいて提供されるべきことが定められている。
*人道的援助の「中立性及び公平性」原則、国家主権の尊重が明記されている点で、このガイドラインに従うことが意識されている限りにおいて、国連の活動は人道「援助」の次元で理解できるものであり、この段階ではなお、人道的「介入」の発想にはなっていないことに要注意。
(ロ)平和創造の一環としての「平和強制」の位置付け
−ガリ報告における問題意識の混乱性
−ガリ報告における武力行使の位置付け
−「平和強制」としての武力行使の排除
*ソマリアにおける平和強制部隊展開(詳細は後述)の失敗(1992年12月の安保理決議794による多国籍軍の軍事介入は、1993年5月以後は国連(事務総長が責任を担う)の平和強制部隊となるが、1993年10月にアメリカ軍兵士虐殺を受けた米軍撤退を受けて、1994年2月の安保理決議897で活動を大幅に縮小、最終的に1994年11月の安保理決議954によって、1995年3月31日をもって終了)の経験もあり、現在の国連のHPにおける説明では、「平和創造とは、紛争当事者に敵対行為を止めることを説得し、紛争を平和的に解決するよう交渉する外交的手段の使用を意味する」とし、「平和創造には、敵対行為の終結を一方の当事者に強制するために武力を行使する、平和強制と称せられる行為を含まない」ことを明記(http://www.un.org/Depts/dpa/prev_dip/fr_peacemaking.htm)することによって、ガリ提案のこの部分(平和強制としての武力行使)については、もはや葬られたと見ることができる。
(3)憲章第7章と国家間紛争:報告書の立場(第193 ̄8項)と問題点
(イ)問題の所在
−21世紀の国際社会にとっての中心的課題
−報告書の問題提起
−報告書における非軍事的措置の扱いと武力行使の位置付け
−安保理に広範な権限を認めることは正当か
*報告書の立場:ある国家が他国または国際秩序に対して脅威を構成する場合に関する「第7章の文言は本質的に十分に広義であり、かつ、十分に広義に解釈されてきているので、安保理が、『国際の平和と安全を維持し又は回復するために必要である』と見なすときには、その国家に対して軍事的行動を含めたいかなる強制的措置を認めることを許してきた。そのことは、脅威が現実に、切迫した未来に、あるいはより遠い将来において起こる場合において然りである。」(第193項)
*国連憲章における「国際平和」の当初の考え方は、国家間における武力紛争がないことを意味していた。したがって、「国際平和に対する脅威」という伝統的な概念は、ある国家による他の国家に対する侵略の脅威という客観的な存在またはそれ以外の形による国際的な武力紛争の危険性ということを前提にしていた。つまり、国連憲章は主権国家からなる国際社会に基礎をおいているのであり、憲章の最大の目的は、国家間のいかなる武力行使をも不法にすることによる現状維持であった。集団安全保障の仕組みは、この現状維持に対する脅威及びその破壊に対応し、国家の主権を警護するために作られたものである。憲章の作成者にとって、国内紛争や人権侵害を国際平和に対する脅威と見なす意図はなかったことはしっかり確認しておくべきことである(デンマーク国際問題研究所(DUPI)メHumanitarian Intervention. Legal and political aspectsモ(1999) 62頁参照)。
*ここで問題となるのは、以上の憲章起草者の意図にかかわらず、「平和に対する脅威」という概念が本質的に曖昧であるというそれ自体は否定できない事実について、今日の私たちはいかなる立場で臨むべきか、ということである。
報告書もDUPIも、その解釈は、安保理の裁量に委ねられているという立場を取っており、したがって、安保理が近年において武力行使を安易に容認・許可する傾向をおおむね肯定する立場を取る(ただし、DUPIは、国家間紛争についてではなく、国家内紛争に関してであるが、安保理決議という明確な手続きを踏まない人道的介入の合法性(道義性や正統性についてはともかく)については、むしろ消極的な立場で臨んでいる)。
しかし、本来的に政治的機関である安保理に、「平和に対する脅威」についての包括的な法律的解釈権を認めることが、上記の如き国連憲章の本来の主旨に照らして妥当であるか、という基本的な問題があることに、私たちはもっと注意を向ける必要がある。特に、安保理に武力行使についての大幅な裁量権を認めることが、「国際の平和と安全」を確保するという目的に照らして妥当といえるかという問題については、もっと本格的な検討を行うべきではないだろうか(これは、国家間紛争に関してだけではなく、国内紛争に関してもいえること)。
−第7章の下での集団的措置として予防的武力行使を認めることが許されるか
−予防的行動の正統性という問題
−予防的行動の合法性という問題
−安保理の権威性という問題
−安保理の可能性という問題
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