「ある自由主義者への手紙」(1950年)から学ぶこと

1.「思想の自由」の日本における現実と丸山の発言へ向けた自らの態度変更

(1)日本における「思想の自由」の現実

「本来、そういうもの(=批判)の活発であるべき学会などというところは存外みな紳士的でーもっともそれだけ陰での悪口は盛んだがー正面切ってお互いに批判しあうようなことは滅多にないし、他方ジャーナリズムの論争はまたこの世界特有の法則に支配されて、すぐハッタリに転化してしまう。だから結局お互いに信頼しあってなんでも口のきけるような少数の人々の中でしか本当の相互批判は行われないのが、悲しいかなこの国の現状だ。…知識人同士がインテリジェンスの次元での共通のルールを守りながら率直に口をききあうことができないようで、どうして思想の自由を守れるか」(p.132)。

(注)50年たった今日においてはどうか? いったんできあがってしまった「長い間の社会的規範意識」(「思想と政治」)は、こういうところにも現れる、ということか!?

(2)丸山の沈黙から発言への態度変更の原因と理由

「去年(1949年)の秋あたりから最近にかけての日本をめぐる内外情勢の推移や新聞の論調などをじっと見ていると、何かしら僕はこれ以上、そうした問題について沈黙していることに耐えられなくなってきた」(p.132)。

「現在知識人は、好むと否とにかかわらず、それぞれの根本的な思想的立場を明らかにすることを迫られていると思う。…それぞれの思想の人々が自分の考えをふせたり避けたりしないで、ギリギリのところまで見解を語り…あってこそはじめて、どういう人間ないしグループとはどの点で一致し、どの点で分かれるかということが各自にハッキリする。こうして次々と直面する現実の政治的問題に対してどの広がりとどの深さで連帯が可能かということが可測的になる。…つまり、…自由人をもって任ずる無党派的な知識人もその主体性を失わないためには、無党派的知識人の立場からの現実政治に対する根本態度の決定とそれに基づく戦略戦術を自覚しなければならない段階が来ているということだ」(p.135)。

(注)中流意識の無党派層が過半数を占める現在の日本、総選挙を迎える日本において、多くの日本人に態度決定が迫られていることを、50年の時日を隔てた丸山が警鐘を鳴らしているという事実!!

2.政治を考察し、論じる場合の基本的な態度

(1)丸山の基本的視点

「非政治的な私的環境(例えば家庭)なり職場その他の生活領域の中に閉じこもって…、政治的状況に対しては、…重大な政治的事件に対して一見積極的な関心や興味を持つ場合でも、結局それを競馬やスリラーに対すると同じ次元で受けとめているような圧倒的多数の、政治的な意味での「非自覚」的な人々がいる。…しかもこの「非政治的」大衆が現実の政治的状況の形成にネグリジブルな要素ではなくして、むしろ直接には非政治的な領域で営まれる彼らの無数の日常的な行動が複雑な屈折を経て表面の政治舞台に反映し、逆にそうした政治的舞台で示された一つ一つの決定がこれまた複雑な屈折を経ながら日常生活領域へと下降していく。この二つの無数の交錯から現実の政治的ダイナミックスが生まれてくるのだ。…概念的なイデオロギー図式の危険性はまさにここにある」(pp.137-138)。

(注)図による説明

(2)日本におけるデモクラシー原則の歪曲

(イ)日本におけるデモクラシーの悲しいまでの表面性

「共産主義者の『公式』を排撃する反共論者の現状観察はしばしばその敵手に輪をかけて概念的であり、驚くほど自己欺瞞に陥っている。…西欧的民主主義の根本的な原則なりカテゴリーなりが、きらびやかな表面の政治的セットの裏の配線の中においてはいかに本来の姿から歪曲されるか。このことのリアルな認識なくしては、僕は日本における政治的状況の真の判断はできないと思う。例えば(自由)民主主義の基本原理の一つとしての自由討議による決定ということをとってみよう。…今の日本において純粋の説得による決定ということがほとんど絶望的なまでに乏しいことを見いだすに難くないはずである。…形だけは民主的な討議のように見えて、その構成員の具体的な人間関係と行動様式を見るならば、およそ自由な相互説得たることから遠いような『会議』が日本中…において日々何百回となく開かれて、そこでの決定が『民主的』な決定として通用しているのが現実ではないか」(pp.139-140)。

(注)日本の国会の運営状況から、下線部分を確認する。

(ロ)真の意味の「自由討議による決定」とは

「自由討議ないし説得による決定という考え方は、当然に、そこで定められたルールが一様かつ平等に構成員を拘束するという、いわゆる「法の支配」の観念と論理的に牽連している。そうしてさらにその背後には、そのルールの執行を委託されている人間ないし機関は、その団体の一般構成員に対してなんら実体的な優越性をもつものではなく、また真理とか正義とかの価値を独占するものではないという重大な前提がおかれている。彼に執行のための強制力が与えられている場合も、その強制力の妥当性はそれが一定の合法的な手続きによって与えられたという点にあるのであって、その強制力が必ずしもそれ自体として正義を内包しているということに基づくのではない。何が実質的に正当かという判断を各人の内面的良心に委ねているからこそ、自由討議による決定ということが意味を持つのだ」(pp.140-141)。

(注1)日本の国会でよく行われる「議長裁定」「委員長の職権」のまやかし

(注2)丸山は触れていないが、ここでも根底において働いている原理は「自己責任における意思決定能力」という意味での「自由」が前提とされた「自由討議」であることを確認しておこう。

(ハ)日本における「自由討議」の実態

「しかし不幸にしてこの国では、それがいかに『常識』から遠いことか。ここでは最もしばしば強制力を把持する上級者が実質的な価値の体現者ないし決定者として現れることによって、『自由討議』の原則だけでなく『法の支配』そのものを空虚化する。つまり彼はメンバーに対して『権限』ではなくて『権威』をもって臨む。だからこそ、彼の行動や主張に対する批判は容易に『反逆』という烙印を押されるのだ」(p.141)。

「こういう自己欺瞞はむろん日本のインテリだけのことではない。…しかしとくに日本の場合には、…本来自由民主主義は日本人の身体から出たものではなく頭から入ってきただけにいっそう意識と無意識とのギャップが大きいという意味において、(また)日本の圧倒的に強大な前近代的人間関係の中では、上位者の権威の無言の圧力、『にらみ』の実質的な暴力性が隠蔽され、それへの内面的な畏怖からの服従が容易に近代的な同意の偽装をとりうるという意味において(より強調する必要があるだろう)」(p.142)。

(注)私たちの身の回りにおける事例で、丸山の指摘を検証しよう。

(二)日本的な支配・抑圧の形態

「独裁者は民主主義をいわば外から公然と破壊し、ボスはそれを内部から隠然と腐蝕させる。…ボスは家族関係の擬制とか成員の心理的惰性を利用して支配するから、露骨な権力的強制は伝家の宝刀として背後に秘めておくことができる。またボス的支配は社会の日常的伝統的な価値意識や習慣的な思考様式に支えられているから、特に『宣伝』や『アジ』をする必要がない。部下や被支配者が意のままに動かない場合、独裁者はかしゃくなく直接的抑圧を加えるが、ボスは小出しにいびりあるいはしばしば「江戸の敵を長崎でとる」。この場合、抑圧は時間的に延長されることによって、当然集約性を減ずるから、即時の直接的抑圧のように、下位者に急激な反感を起こさせない。こういう風に考えてくると、ボス的支配が、人民の自由な批判力の成長を強靱に阻んでいながら、その腐蝕性がいかに看過されやすく、その権力に対する下からの有効なコントロールがいかに困難であるかは思い半ばに過ぎるものがあろう」(pp.142-143)。

(注)選挙における「公認」制度の実際の運用。東大・日大時代の経験。外務省での体験。

Q1:こういう日本的な支配・抑圧の形態に対する私たちの対応はどういう形をとることになるか?

Q2:こういう支配・抑圧の形態と日本的な無責任体制とはいかなる関係に立つと考えるべきだろうか?

(3)日本の社会関係の民主化を引き留めている人間の上下関係

「日本の歴史は階級闘争の歴史よりもむしろはるかに多く、被抑圧者が陰でブツブツ言いながらも結局泣き寝入りしてきた歴史(注1)である。…家族主義に基づく『和』の精神が日本的統治の麗しい伝統だという例の国体史観も、歴史的現実のある面を映し出していると思う。ただその『和』というのが平等者間の『友愛』ではなく、どこまでも縦の権威関係を不動の前提とした『和』(注2)であり、したがって、いやしくもこの権威に不敵にも挑戦し、もしくは挑戦の怖れありと権威者によって認定されたものに対しては、たちまち『恩知らず』として恐るべき迫害に転化する…。こうして『和』と『恩』の精神は大は国家から小は家族まであらゆる社会集団にちりばめられて、福沢のいう『権力偏重関係』を合理化することによって、それぞれの社会における支配者・上長を果てしのない偽善ないしは自己欺瞞に陥らせた(注3)。…大衆の自発的能動性の解放が執拗に阻まれて、その結果として生じたレヴェルの低さとか自暴自棄とかがまた逆に解放尚早の根拠付けとされるという恐るべき悪循環は今日依然として断ち切られていない(注4)」(pp.144-145)。

(注1)酒の席での「無礼講」。 cf.住民運動・市民運動の新しい動向とその内部の関係

(注2)「権力の偏重」を前提にした「和」。「先輩と後輩」。 cf.新しい労働関係

(注3)「太っ腹」「面倒見がいい」。 cf.あくまで上下関係を前提にした発想

(注4)「恩義に頼る」→「卑屈さ」→「抑圧の移譲」/「自暴自棄」→「政治的無責任性」

(4)日本の民主主義の現状と展望

(イ)日本におけるデモクラシーの課題

「日本社会のどこに『防衛』するに足るほど成長した民主主義が存在するのか(注1)。…当面の問題は、既存の民主主義の防衛ではなく、ようやく根の付いたばかりの民主主義をこれから発展伸長させてゆくことなのだ(注2)。…民主主義的な憲法や法律が整備すれば、そのとたんに実体的な社会関係までも民主的になったかのように考えるウルトラ形式主義者か、あるいは、大日本帝国下の『自由』…で十分満足し得た重心・既成政党・資本家の流れを汲む『立憲主義者』か、さもなければ巧みに偽装を凝らした正真正銘のファシストにとってのみ、『民主主義』は新たなる『全体主義』に対して防衛されるべき既存の現実なのだ(注3)。そうした八・一五以前に直接連なる諸勢力は、まさに『民主主義の防衛』の名の下に、ひとたび憲法及び法律で保障された勤労大衆の組織的行動を数年ならずして、次から次へと制限している(注4)。…こうして、我が国の権力構造や人間関係における、およそ『英米的』民主主義の原理と反する前近代的諸要素がまさに、『英米的』民主主義の防衛の名において復活強化されていく(注5)。君はこの痛ましいパラドックスの進行に対して晏如たりうるか」(pp.146-147)。

(注1&2)平和憲法の置かれた状況との類似性

(注3&4&5)現在の保守政治勢力のやっていること

(ロ)丸山のデモクラシーの担い手に対する「さめた」認識と期待

「もちろん…僕は現在の労働運動・農民運動その他一般に組織された大衆運動自体の中にもまた、僕が今まで述べたような日本社会が歴史的に背負っている前近代的な諸条件と人間相互関係が内在している事実(注1)に寸毫も目を覆うものではない。…しかしだからといって、なあにみんな同じことですべては灰色さというような見方は、認識としては歴史の具体的な動態を無視し、他の図式化に陥った見方であり、実践としては、社会・政治の問題がいつも最善と最悪の間の選択ではなく、ヨリましなものの選択であることを忘れた態度だと思う(注2)。一般に旧社会構造の固定性が強固なところでは、労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序なり支配なりに対するチャレンジは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神構造なりを切り崩していかなければとうてい有効に進展しないという本質的性格をもっている(注3)。中国革命はそのことを巨大な規模において実証した(注4)。…日本社会の近代化という課題は、…歴史的具体的な状況において近代化を実質的に推し進めていく力は諸階級、諸勢力、諸社会集団の中のどこに相対的に最も多く見いだされるかということをリアルに認識し、その力を少しでも弱めるような方向に反対し、強めるような方向に賛成するということによってのみ果たされる(注5)」(pp.147-148)。

(注1&3)日教組大会での経験;革新政党における前近代的要素

(注2&5)「政治における選択」の問題:選挙で棄権する人たちの論理の怪しさ

(注4)中国革命が実証したこと

(5)丸山の政治的立場

(イ)政治的プラグマティズムの立場

「僕は少なくとも政治的判断の世界においては高度のプラグマティスト(実利主義者)でありたい。だからいかなる政治的イデオロギーにせよ、政治的=社会的諸勢力にせよ、…その具体的な政治的状況における具体的な役割によって是非の判断を下すのだ(注1)。…君はその僕が…共産党に対して不当に寛容であるのはおかしいといったね。…しかし僕は日本のような社会の、現在の状況において共産党が社会党と並んで…西欧的意味での民主化に果たす役割を認めるから、これを権力で弾圧し、弱化する方向こそ実質的に全体主義化の危険を包蔵することを強く指摘したいのだ(注2)。僕はまさに政治的プラグマティズムの立場に立てばこそ、一方、下からの集団的暴力の危険性と、他方支配層が…実質的抑圧機構を強化する危険性とを比べ、また、一方大衆の民主的解放が『過剰になって氾濫する』危険性と、他方それが月足らずで流産する危険性とを比べ、前者よりも後者を重しとする判断を下すわけだ(注3)」(p.149)

Q1:(注1)及び(注3)に見られるような政治的プラグマティズムの立場をどのように評価するか?

Q2:(注2)で丸山がいう、共産党が「西欧的意味での民主化に果たす役割」を果たしている、という記述を皆さんはどう受けとめるか?

(ロ)正義対秩序

「僕はむろん秩序を尊重し無秩序を排する。…人類がその歴史において一再ならず(秩序と正義との)二者択一の前に立たされたことは痛ましい悲劇だ。我々はあらゆる努力をしてこうした状況の到来を防がなければならない。しかしもし万一不幸にしてこの選択の前に否応なく立たされるときがあったならば、そのときは僕は(正義に)組みする(注1)。…それは僕の祖国が…革命の伝統をもたず、…警察国家の伝統をもっているからなのだ(注2)」(p.150)

(注1)「正義」と「秩序」について

Q:(注2)で丸山は何をいおうとしているか?