1 日本の政治状況
(1)1950年ー52年当時の政治状況
*「ある自由主義者への手紙」(1950年)ーAー
「『現実』主義の陥穽」ーBー
《丸山の問題意識》
〇「去年(一九四九年)の秋あたりから最近にかけての日本をめぐる内外情勢の推移や新聞の論調などをじっと見ていると、何かしら僕はこれ以上、そうした問題について沈黙しているのに耐えられなくなって来た」(A:pp.314-5) 〇「事態の急激な進行が昨日までの選択の問題を今日は既に既成事実に代え、今日はまだ相対抗していた動向の一つが、明日は決定的に支配的になるということがあるでしょう。いな講和論から中国選択問題を経て再軍備論に至るこの一年あまりの我が国の歩みは、現に私達の当面の選択のイッシューをあっという間に次々と移動させて行ったことは残念ながら否定出来ません。そうした場合に私達は具体的にどう処したらいいか‥。昨日までの選択の問題に何時までも拘泥しているために、現在或いは将来のまだいくつかの可能性をはらんだ問題への発言力を却って弱めるような結果になることは、極力警戒しなければなりません。‥しかし、さればといって次々と新しい問題の解答に気を奪われて私達の基本的な立場をいつの間にかどんどん移動させてしまうということはヨリ以上に危険なことです。それは結局、問題提出のイニシアティヴをいつも支配権力の側に握られて、私達はただ鼻づらをひきまわされるだけという結果に陥ってしまいます。」(B:pp.200-1)
〇「日本社会のどこに『防衛』するに足るほど生長した民主主義が存在するのか。…当面の問題は既存の民主主義の防衛ではなく、ようやく根の付いたばかりの民主主義をこれから発展伸長させてゆくことなのだ。…民主主義的な憲法や法律が整備すれば、その途端に実体的な社会関係までも民主的になったかのように考えるウルトラ形式主義者か、或は…巧みに偽装をこらした正真正銘のファシストにとってのみ、『民主主義』は新たなる『全体主義』に対して防衛さるべき既存の現実なのだ。そうした八・一五以前に直接連なる諸勢力は、まさに『民主主義の防衛』の名のもとに、一たび憲法及法律で保障された勤労大衆の組織的活動を数年ならずして、次から次へと制限している。‥日本政治のダイナミックスに基く政治的電流の伝達作用によって、一定の組織ー例えば全公労ーの活動に対する一定の法的制限は忽ち全装置に影響を及ぼして、実質的には不特定多数の組織に対する範囲不明の制限になって現われる。…こうして、我国の権力構造や人間関係における、およそ『英米的』民主主義の原理と相反する前近代的諸要素がまさに、『英米的』民主主義の防衛の名において復活強化されて行く。君はこのいたましいパラドックスの進行に対して晏如たりうるか。」(A:pp.329-30)
《50-52年の政治状況》
〇「再軍備問題を国民の判断に委ねよと主張する人が、いやしくも真摯な動機からそれをいうのなら、彼は必ずや同時に右のような条件(国民が公平に判断を下しうるため、通信・報道のソースが偏らないこと、異なった意見が国民の前に公平に紹介されること、これらを阻む法令の存在しないこと)を国内に最大限に成り立たせることを声を大にして要求すべき道徳的義務を感ずる筈です。もし彼がそうした条件の有無や程度については看過し、もしくは無関心のまま、手放しに国民の判断を云々するならーもし現在のように新聞・ラジオのニュース・ソースが甚だしく一方的であり‥、また異なる意見が決して紙面や解説で公平な取り扱いを受けず、ソ連や中共の悪口はいい放題であるのに対して、アメリカの批判や軍事基地の問題は‥おっかなびっくりでしか述べられないという状況‥に対して何ら闘うことなしに、ただ世論や国民の判断を担ぎ出して来るならば、私達はそういう人達の議論に誠実さを認めることは出来ません。」(B:p.205)
〇「殊に最近の滔々たる内外反共思潮にのって政治家や新聞ジャーナリズムはさかんに民主主義と共産主義が水と油のように相容れないことを書きたて、…検察官のような態度でいわゆる『進歩的』知識人を叱りつけ、是に対して共産主義という『踏絵』を踏ませようとしている。反共の旗幟を高く掲げない自由主義者は、すべてこれヌエ的な日和見主義者であるか、または巧みに隠れ蓑をきた悪質の共産主義者のように扱われる。…まるで反共の旗幟を掲げさえすれば、それが民主主義の証であるかのように!」(A:pp.316-7)
〇「もちろん、こういったからとて僕は現在の労働運動・農民運動その他、一般に組織化された大衆運動自体のなかにもまた、僕が今までのべたような日本社会が歴史的に背負っている前近代的な諸条件と人間相互関係が内在している事実に寸毫も目を覆うものではない。…一般に旧社会構造の固定性が強固なところでは労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序なり支配なりに対するチャレンジは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神構造なりをきりくずして行かなければ到底有効に進展しないという本質的な性格を持っている。…一時的にはむしろ古い意識や人間関係を利用することが手っとり早く見えても、間もなくそれは運動にとってーとくに反動期に入ると共にー手痛い復讐となってハネ返って来る。なぜなら人間の意識や行動における惰性の力は、まさにそこに大衆支配の心理的地盤をもっている保守反動勢力によって、急進勢力によってよりもはるかに容易に動員されるからである。社会党及その勢力下の諸団体が戦後の急速な勢力膨張の際に自治体のボス的分子を少からずかかえ込んだことが、その後いかに大きなマイナスとして同党に作用したか。」(A:pp.330-1)
《日本特有の政治土壌》
〇「ここ(注:日本)では最もしばしば強制力を把持する上級者が実質的な価値の体現者ないし決定者として現れることによって『自由討議』の原則だけでなく『法の支配』そのものを空虚化する。…だからこそ、彼の行動や主張に対する批判は容易に『反逆』という烙印を押されるのだ。『御上を恐れざる段不届至極』というのが徳川時代の刑の宣告のきまり文句だったが、いったい現在の我国の大小あらゆる社会集団の『上司』ないし『幹部』のうち、この感覚を自己の無意識の世界からも完全に駆逐していると断言できるものが何人いるだろうか。」(A:p.324)
〇「政治家にしろ、学者にしろ、評論家にしろ、昨日の言動を翻して平然たる風景が我が国ほど甚だしく見受けられるところがあるでしょうか。…変説改論がそれ自体悪いというのではありません。…しかし、変説改論にはそれだけの内面的な必然性がなければならず、また本人からそれについてハッキリした説明があるべきです。ズルズルベッタリの転向や三百代言は一番卑劣です。」(B:p.206)
〇「こういう自己欺瞞はむろん日本のインテリだけのことではない。…しかしとくに日本の場合には、‥二重の意味においてアクセントをつける必要があるだろう。第一には、‥本来自由民主主義は日本人の体から出たものでなく頭から入ってきただけに一層、意識と無意識とのギャップが大きいという意味において。第二に日本の圧倒的に強大な前近代的人間関係のなかでは、上位者の権威の無言の圧力、『にらみ』の実質的な暴力性が隠蔽され、それへの内面的な畏怖からの服従が容易に近代的な同意の偽装をとりうるという意味において。」(A:p.325)
〇「大衆の自発的能動性の解放が執拗に阻まれてその結果として生じたレヴェルの低さとか自暴自棄とかがまた逆に解放尚早の根拠づけにされるという恐るべき悪循環は今日依然として断ち切られていない。この悪循環に止めを刺すのは、いかなる形にせよ外からの、あるいは上からの恩恵的解放ではなく、言葉の真実の意味での内部からのトータルな革命以外には恐らくないだろう。」(A:p.329)
《今日的課題》
〇「日本社会の近代化という課題は‥歴史的具体的な状況において近代化を実質的に押しすすめて行く力は諸階級、諸勢力、諸社会集団のなかのどこに相対的に最も多く見出されるかという事をリアルに認識し、その力を少しでも弱めるような方向に反対し、強めるような方向に賛成するということによってのみ果されるというのが僕の根本的な考え方なのだ。」(A:p.332) 〇僕はむろん秩序を尊重し無秩序を排する。しかし同時に僕は、…『秩序が社会共同の福祉の道具となるときにのみ、それは尊重され服従される』という‥言葉に共鳴する。…人間がその歴史において一度ならずこの二者(秩序と正義)択一の前に立たされたということは痛ましい悲劇だ。われわれはあらゆる努力をしてこうした状況の到来を防がねばならない。しかしもし万一不幸にしてこの選択の前に否応なく立たされる時があったならば、その時はー僕はやはり(正義)に与する。しかしそれは僕の祖国が‥革命の伝統を持たず、却って集会条例・新聞紙条例からはじまって治安維持法・戦時言論集会結社取締法等々の警察国家の伝統を持っているからなのだ。」(A:pp.333-4)
〇(「共産党に対して不当に寛容であるのはおかしい」という疑問に対し)「僕は日本のような社会の、現在の状況において共産党が‥西欧的意味での民主化に果す役割を認めるから、これを権力で弾圧し、弱化する方向こそ実質的に全体主義化の危険を包蔵することを強く指摘したのだ。僕はまさに政治的プラグマティズムの立場に立てばこそ、一方、下からの集団的暴力の危険性と、他方支配層が偽善乃至自己欺瞞から似而非民主主義による実質的抑圧機構を強化する危険性とを比べ、また、一方大衆の民主的解放が『過剰になって氾濫する』危険性と、他方それが月足らずで流産する危険性とを比べ、前者よりも後者を重しとする判断を下すわけだ。」(A:p.333)
《知識人の責任ある態度》
〇「私達にとって大事なことは、以前の争点を忘れたり捨て去ったりすることではなく、むしろそれを新しい局面のなかで不断に具体化することでなければなりません。その基本的態度を誤ると、結局いつしか足をさらわれて気がついた時は自分の本来の立場からずっと離れた地点に立っているということになります。これこそ満州事変以後、何千人何万人の善意の知識人が結果においてファシズムに一役買うようになった悲劇への途ではありませんか。…一たびは悲劇といえましょう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。」(B:pp.202-3)
〇「現在知識人は好むと否とに拘わらずそれぞれの根本的な思想的立場を明らかにすることを迫られていると思う。…真に自由の伸長と平和の確保とを願う人々の間に出来るだけ広範かつ堅固な連帯意識を打ちたてる前提としていうのだ。もはや平和や自由というそれ自体誰も文句のつけようのない『言葉』の下に、それぞれ『下心』を秘めた人々を結集させて表面のつじつまをあわせるのが『共同戦線』を意味した時期は過ぎた。それぞれの思想の人々が自分の考えをふせたり避けたりしないで、ギリギリのところまで見解を語り…合ってこそ始めて、どういう人間乃至グループとはどの点で一致し、どの点で分かれるかということが各自にハッキリする。こうしてつぎつぎと直面する現実の政治的問題に対してどのひろがりとどの深さで連帯が可能かということが可測的になる。…それでないと、例えば共産党がいい出したというだけで、きわめて事理明白な事柄に対してもただ尻込みするだけに終わったり、或は逆に共産党のいうことなすこと何でも『先天的』に弁護する文字通りの『同伴者』になったりして、いずれにしても知識人の生命である自由な批判的精神を喪失するような結果になってしまう。」(A:pp.317-8)
〇「知識人同志がインテリジェンスの次元での共通のルールを守りながら率直に口をききあうことができないようで、どうして思想の自由を守れるか」(A:p.314)