東京高判昭和60年9月30日(昭和58年(行ケ)第95号)

1.事案の概要
 X(原告)は,昭和49年3月28日,名称を「コレステリンの定量法」とする発明(以下,「本願発明」という。)につき,ドイツ連邦共和国において1973年3月28日及び1973年4月3日にした特許出願に基づく優先権を主張して,特許出願をしたが,昭和53年3月15日,拒絶査定謄本の送達を受けたので,昭和53年8月7日,これに対し審判の請求をした。特許庁は昭和53年審判第12076号事件として審理し,昭和57年12月9日,本願発明は,本願の優先権主張日前の出願(優先権主張日1973年3月1日)であって,本願の出願後である昭和50年1月11日に出願公開された特願昭49-22433号(以下「先願」という。)の願書に最初に添付された明細書(以下「先願明細書」という。)に記載された発明(以下「先願発明」という。)と同一であるから特許法29条の2により本願を拒絶した拒絶査定は正当であるとして,「本件審判請求は成り立たない。」との審決をした。
 X出訴。
 本願発明の要旨は,次のとおりである。
  「結合型コレステリンを遊離させかつ引続き遊離したコレステリンを公知方法により測定することによつて,総コレステリン又は結合型コレステリンを定量するに当り,結合型コレステリンを微生物からのコレステリンエステラーゼを用いて遊離させることを特徴とする,コレステリンの定量法。」

2.争点
(1)本願発明は先願発明と同一であるか。
(2)先願明細書の解釈に当り出願前の公知技術を参酌できるか。
(3)本願発明の「微生物からの」という広範な限定には技術的意義がないか。

3.判決
 審決取消。

4.判断
「一 請求の原因一ないし三は当事者間に争いがない。
二 先願発明の内容及び本願発明と先願発明の相違点が審決摘示のとおりであることは当事者間に争いがなく,この事実と成立に争いのない甲第2号証の2(本願の出願当初の明細書),第3号証(同手続補正書),第4号証(先願明細書)によれば,両発明とも,(1)コレステリンエステラーゼを触媒として使用し結合型コレステリン(コレステリンエステル)を分解して遊離コレステリンを得たうえ(以下この作用を「エステラーゼ使用」という。),(2)コレステリンオキシダーゼを触媒として使用し遊離コレステリンの量を測定する(以下この作用を「オキシダーゼ作用」という。)酵素的方法による定量方法である点で一致し(本願発明の要旨中の「公知方法により測定する」とは右(2)の作用を指す。),(1)のエステラーゼ作用において,本願発明ではコレステリンエステラーゼが微生物由来と限定されているのに対し,先願発明ではコレステロールエステル加水分解酵素活性を有する化学薬品系として示されているコレステリンエステラーゼにつき,右のような限定が付されていない点で相違することが認められる。
三 そこで,先願明細書に記載されたコレステリンエステラーゼ,即ちコレステロールエステル加水分解酵素活性を有する化学薬品系に本願発明に係る微生物由来のコレステリンエステラーゼが含まれるものと解すべきか否かについて,以下に検討する。
  1 前掲甲第4号証によれば,先願明細書にはコレステリンエステラーゼ及びコレステリンオキシダーゼの各起源についてXが指摘する記載のほか,コレステリンエステラーゼに関し,・・・の各記載があることが認められる。
    ところで,コレステリンエステラーゼとコレステリンオキシダーゼとはその営む作用が前者はエステラーゼ作用,後者はオキシダーゼ作用という差があるとはいえ,ともに酵素作用を有する化学薬品系であることに変りはない。しかるに,前記のように先願明細書には後者については微生物由来のものが具体的に詳細に記載されているのに対し,前者については動物臓器由来のもの,それも具体的には市販のパンクレアチンのみが記載されているにとどまり,前掲甲第4号証によるも,微生物由来のものはもとより,パンクレアチン以外の動物臓器由来のものについてすら,その使用に関する記載を先願明細書中に見出すことはできない。
  2 なるほど先願明細書には審決及びYが指摘する前記のような(1)「コレステロールエステラーゼは種々な方法及び多くの形態で得ることができる。」(2)「通常かかる系は天然物質例えば動物または人間の膵臓,肝臓及び腸の抽出により得られる。」との記載がある。
    しかし,(1)の記載は余りにも抽象的であり,これに当時の公知技術により得られるコレステリンエステラーゼすべてが含まれると解することは,抽象的に記載された事項について極めて広範囲にわたり先願の地位を認めることとなるから相当とは認めがたく,また,(2)の記載中「天然物質」といえば概念的には動物,植物(微生物もこれに含まれる),鉱物のように人工による物質以外のものすべてが含まれることになるが,それを理由にコレステリンエステラーゼを抽出し得るすべての天然物質が含まれていることが記載されていると解することは,前記(1)同様抽象的記載を根拠に広範に先願の地位を認めることとなり相当とは認めがたい。かかる場合明細書の記載全体を総合的に観察したうえで先願明細書はいかなる物質から得られたコレステリンエステラーゼに関する発明を記載したのかを先ずその明細書自体から判断すべきである。
  3 そして,前記1認定の各記載を中心に先願明細書を全体として観察すれば,同明細書には微生物由来のコレステリンエステラーゼの記載はないので,先願発明のコレステリンエステラーゼ(コレステロールエステル加水分解酵素活性を有する化学薬品系)とはいかに広く解釈しても動物臓器由来のものを指すにとどまるものと認めるのが相当である。
  4 Yは,前掲甲第4号証によつて認められるその主張に係る先願明細書556頁下左欄6行ないし下から1行,559頁上左欄4行ないし10行の各記載をも根拠として,先願発明のコレステリンエステラーゼには微生物由来のものも含まれる旨主張するが,前記の記載はコレステリンエステルのコレステリンエステラーゼの触媒現象による加水分解の反応式を示したものにとどまるし,後者の記載は「ある酵素活性を有する化学薬品系」を抽象的に説明したにすぎず,かかる記載を参酌しても,先願明細書中に微生物由来のコレステリンエステラーゼに関する記載があるものと認めることは困難というほかない。
四 審決は前記三,2のうち(1)の先願明細書の解釈に当り出願前の公知技術を参酌できるとの前提で鐘紡出願明細書の記載を引用する。
  なるほど成立に争いのない甲第5号証(鐘紡出願明細書,昭和48年1月9日公開)によれば,右明細書には微生物由来のコレステリンエステラーゼに関する記載があることが認められる。そして,明細書の記載を解釈するに当たり,その出願前(優先権主張のある場合は優先権主張日前)の公知技術或は公知事実を参酌することは許されないわけではないが,それはあくまで当該明細書自体から知ることができる具体的内容に関連する場合に限られるものと解すべきであつて,前記三,2に引用したような極めて抽象的記載についてまでかかる解釈方法を持込むことは,いたずらに明細書の記載内容を技術的に広く認めることとなり,後願者に対する関係で不当に有利に扱うこととなり相当とは認めがたい。したがつて,鐘紡出願明細書の右記載は,本願発明につき特許法29条2項の進歩性を判断する場合は格別,同法29条の2第1項により先願発明との同一性を判断するに当つては参酌すべきものではない。
五 審決は,本願発明には微生物由来のコレステリンエステラーゼであれば動物臓器由来のそれに比し常にすぐれているという根拠が示されていないから,本願発明の「微生物からの」という広範な限定には技術的意義がないものと判断する。
  なるほど,前掲甲第2号証の2,第3号証によれば,本願明細書にはX主張の微生物が短時間で定量することができるとの顕著な効果を有するコレステリンエステラーゼを得ることができるものとして記載されているものの,これら微生物のうち実施例により具体的に短時間で定量することができるとの効果が確認されているものはカンジタ・ルゴサのみにすぎないことが認められる。すなわち,前掲甲第2号証の2によれば,本願発明の実施例1では従来技術であるアルコール性水酸化カリウム溶液を用いた場合に30分間を要したのに対し,カンジタ・ルゴサを用いた場合には3分間を要したにすぎない旨の記載があることが認められるが,右は動物臓器に由来しない化学薬品とカンジタ・ルゴサとの対比にとどまるし,他の微生物については前記のような効果が確認される実施例の記載があることを認めるに足りる証拠はない。もつとも,前掲甲第3号証によれば,本願発明の実施例6として,膵臓からのコレステリンエステラーゼを用いた場合には30分を要したのに,等量の微生物からのコレステリンエステラーゼを用いた場合には8分以内で測定を終了した旨の記載があることが認められ,右は動物臓器由来のものと微生物由来のものを対比したものではあるが,微生物が何であるかが右記載自体からは不明である。
  そして,どの微生物からでもコレステリンエステラーゼを得ることができるものでないことは明らかなところであり,また,X主張の微生物のすべてからX主張の効果があるコレステリンエステラーゼが得られるものか否かも本願明細書からは明らかであるということはできない。したがつて,本願発明の「微生物からの」の記載を無限定に解した場合はもとより,これをX主張の微生物に限定したとしても,そのすべての微生物について産業上利用できるものとして発明が完成しているか否か疑わしいといわざるを得ない。
  しかし,前記各実施例の記載によれば,X主張の微生物中動物臓器由来のものに比し顕著な効果を有するコレステリンエステラーゼを得ることができるものも存在することが推認されるから,本願発明中に未完成発明が含まれているとすれば,それは特許法29条1項柱書又は同36条4項,同条5項の問題として別途処理すべきであつて本願発明の「微生物からの」という限定の技術的意義を否定した前記審決の判断は誤りであるといわなければならない。
六 以上述べたところによれば,本願発明が先願発明と実質的に同一であるとの審決の判断は誤りであり,右の誤りがその結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,審決は違法として取消を免れない。
  よつて,Xのその他の主張について判断するまでもなく本訴請求を正当として認容し,訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法89条を適用して,主文のとおり判決する。」