最判昭和47年12月14日(民集26巻10号1888頁(昭和41年(行ツ)第1号))

(原審:東京高判昭和40年8月31日(昭和40年(行ケ)第11号))

<事案の概要>
(特許判例百選(第3版)による。)
 X(原告)は,発明の名称を「フェノチアジン誘導体の製法」とする特許権の特許権者であるところ,訂正審判の請求をした。その内容は,特許請求の範囲に示された化学式中の「A」について,「Aは分岐を有するアルキレン基」という記載を,「Aは分岐を有することあるアルキレン基」(下線部が訂正箇所。)と訂正するものである。Xはこの訂正を誤記の訂正に該当すると主張した。
 特許庁は昭和39年9月8日,審判の請求は成り立たない旨の審決をした。
 X出訴。
 原審(東京高判昭和40年8月31日(昭和40年(行ケ)第11号))は,Xの請求を棄却した。
 X上告。

<判決>
 上告棄却。
「上告代理人長井亜歴山(名義),同野口良光,同雨宮正彦の上告理由について
一 原判決が本件の具体的な事実関係のもとにおいて上告人の求める本件の訂正が許されないとした理由は,次のとおりである。
 1 本件特許発明において,特許請求の範囲の項に示され式(化学式は末尾添付)中の「甲は分枝を有するアルキレン基」との部分は,本件特許発明の構成に欠くことができない事項の一に属するところ,「甲は分枝を有するアルキレン基」なる記載を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と訂正することは,前者に「分枝を有しないアルキレン基」を付加し,それだけ前者(本件特許発明の構成に欠くことができない事項の一),ひいては特許請求の範囲を拡張することになる。
 2 本件特許発明において,その特許請求の範囲の項中の「甲は分枝を有するアルキレン基」なる記載が,当業者であればそのままで「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と解される,という事実も認められない。かえつて,「甲は分枝を有するアルキレン基」としても,発明所期の目的効果を奏しえないものではなく,ただ,「甲は分枝を有しないアルキレン基」としたときに,よりよい効果を収めうるにすぎないことからしても,「甲は分枝を有するアルキレン基」を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と解する以外にないとの見解を採りえないことが明らかである。
 3 「甲は分枝を有しないアルキレン基」とした方がよりよい効果を奏するものとすれば,訂正によりそれを本件特許発明の権利範囲に持ち込むことは,それだけ,後に至つて第三者の利益についてたやすく保護を薄くし,他方,誤記等の端緒ないし原因を作り責めを負うべき特許権者を保護することになり,右両者間の利害の権衡を図ろうとする特許法126条2項の趣旨にも副わない結果を生ずる。
二 原判決が本件において誤記の訂正が許されないとした理由は,右のとおりであるが,原判決は,右の説示に先だつて,特許法(以下単に法という)126条2項の趣旨につき一般的に言及するところがあり,論旨は,主として,右の一般的説示についての論難であるので,以下,上告理由の記載の順序に従つて判断することとする。
 1 上告理由一ないし三について
  論旨はまず,原判決が,法126条2項は訂正前と訂正後とで特許権の効力の及ぶ限界に差異を生ずることを許さない趣旨であるとした点を捉えて,原判決の解釈によれば,同条1項1号の規定はまつたく無意味に帰する,と非難する。
  按ずるに,同条1項1号は,特許請求の範囲の減縮を目的とする明細書の訂正を可能とするが,特許請求の範囲の減縮は当然に特許権の効力範囲の変動を齎すものであるから,一般に,同条2項の趣旨が訂正前と訂正後とで特許権の効力の及ぶ限界に差異を生ずることを許さない点にある,とした原判決の説示を文字どおりに読むと,同条1項1号が無意味となることは,所論のとおりである。しかし,本件は誤認の訂正(同項2号)に関する事案であつて,右の説示も,実は本件の事案に即してなされたものであることを窺うに難くなく,したがつて,原判決の当否は,必ずしも,右の一般的に立言された説示自体の当否によつて決せられるものではない。
  論旨は,法126条2項の解釈にあたり,そこにいう「実質」とこれに対するものとしての「形式」との各領域を想定して,訂正の結果変動を生じうる事項として考えられる(イ)特許請求の範囲の記載自体,(ロ)その記載から帰結される特許権の効力範囲,(ハ)発明の内容・思想の同一性の三者につき,そのいずれを「形式」の領域に属せしめ,また,そのいずれを「実質」の領域に属せしめるかによつて,訂正の許否を決すべきものとし,右三者のうち,(イ)が形式,(ハ)が実質の領域に属することはまず疑いを容れず,(ロ)ついては,同条1項は,特許請求の範囲の減縮(特許請求の範囲の記載から帰結される特許権の効力範囲の変動)を訂正可能なもの,すなわち「形式」の領域に属するものとして,まさに同条2項の「実質上」の変更と対置している旨を主張する。
 しかしながら,右にいう実質と形式とはたしかに対立する概念であるが,同条2項の解釈問題における両者の関係は,一方に属するものは他方に属しないというように,截然と相互に無関係に区分されうるものではなく,特許請求の範囲を実質的に拡張または変更するものでないかぎり,これを形式的に拡張または変更することも許されるという意味での,相関関係にあることが明らかである。そして,特許請求の範囲の減縮を目的とする場合においても,法は,これをつねに訂正可能とするのではなく,「実質上特許請求の範囲を拡張し,又は変更するものであつてはならない」という制限のもとにおいてのみその訂正を許容するのである。したがつて,同条1項1号の規定を根拠として,特許権の効力範囲の変動が齎される場合であつてもつねに訂正が許されるべきである,とする論旨の理由のないことが明らかである。
 2 上告理由四,五について
  論旨は,実質上特許請求の範囲を拡張または変更するものであるか否かの判断は,特許請求の範囲の項にとどまらず明細書全体の記載を基準とし,あるいはその記載事項から認定されうる発明の基本的思想の同一性を基準としてなされるべきである,と主張する。
  しかしながら,法は,特許出願に際し願書に添附すべき明細書の「特許請求の範囲には,発明の詳細な説明に記載した発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならない」(36条5項)ものとし,また,「特許発明の技術的範囲は,願書に添附した明細書の特許請求の範囲の記載に基いて定めなければならない」(70条)ものとするのであつて,明細書中において特許請求の範囲の項の占める重要性は,とうてい発明の詳細な説明の項または図面等と同一に論ずることはできない。すなわち,特許請求の範囲は,ほんらい明細書において,対世的な絶対権たる特許権の効力範囲を明確にするものであるからこそ,前記のように,特許発明の技術的範囲を確定するための基準とされるのであつて,法126条2項にいう「実質上特許請求の範囲を拡張し,又は変更するもの」であるか否かの判断は,もとより,明細書中の特許請求の範囲の項の記載を基準としてなされるべく,所論のように,明細書全体の記載を基準としてなされるべきものとする見解は,とうてい採用し難いのである。また,発明の基本的思想の同一性が失われる場合に,これが特許請求の範囲の実質上の変更にあたるとして訂正の許されえないことは勿論であるが,同条2項にいう実質上の拡張または変更にあたる場合を,ひとりこれにとどまるものということはできないのである。
三 おもうに,訂正の審判が確定したときは,訂正の効果は出願の当初に遡つて生じ(法128条),しかも,訂正された明細書または図面に基づく特許権の効力は,当業者その他不特定多数の一般第三者に及ぶものであるから,訂正の許否の判断はとくに慎重でなければならないのが当然である。
 原審の確定事実に照らして本件を観るのに,上告人が訂正を求める「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載は,特許請求の範囲の項中の本件特許発明の構成に欠くことができない事項の一に属するものであつて,これが「甲は分枝を有することあるアルキレン基」の誤記であることは当事者間において争いのないところであるとはいえ,本件における特許請求の範囲の項に示された式(化学式は末尾添付)中の「甲は分枝を有するアルキレン基」とする記載は,それ自体きわめて明瞭で,明細書中の他の項の記載等を参酌しなければ理解しえない性質のものではなく,また,それが誤記であるにもかかわらず,「甲は分枝を有するアルキレン基」という記載のままでも発明所期の目的効果が失われるわけではなく,当業者であれば何びともその誤記であることに気付いて,「甲は分枝を有することあるアルキレン基」の趣旨に理解するのが当然であるとはいえないというのである。これによると,前記の「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載は,上告人の立場からすれば誤記であることが明かであるとしても,一般第三者との関係からすれば,とうていこれを同一に論ずることができず,けつきよく,本件特許発明の詳細な説明の項中にその趣旨を表示された「甲は分枝を有するアルキレン基」と「甲は分枝を有しないアルキレン基」との両者のうち,前者のみを記載したのが本件特許請求の範囲にほかならないのである。
 以上説示するところによれば,本件の場合,特許請求の範囲の「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と訂正することは,形式上特許請求の範囲を拡張するものであることは勿論,本件明細書中に記載された特許請求の範囲の表示を信頼する一般第三者の利益を害することになるものであつて,実質上特許請求の範囲を拡張するものというべく,法126条2項の許容しないところといわなければならない。したがつて,これと結論を同じくする原判決は相当であつて,諭旨はすべて理由がない。
 よつて,行政事件訴訟法7条,民訴法401条95条89条に従い,裁判官全員の一致で,主文のとおり判決する。」