最終更新日: 2006年06月17日


仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう)

・ 別名

足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

・ お祀りしている神社

伊佐爾波神社(松山市)
忌宮神社(下関市)
香椎宮 主神

・ 御利益

・ 説明

 景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子で、母は垂仁天皇の娘である両道入姫(ふたじのいりびめ)。 皇后に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、すなわち神功皇后を迎え、その間に誉田別(ほむたわけ)皇子、かご坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子、そして誉屋別(ほむやわけ)皇子らをもうけたとされる。
 叔父に当たる成務天皇が男子に恵まれなかったことから、同天皇四十八年に立太子し、天皇崩御にともなりその翌々年、第十四代天皇として即位した。
 仲哀天皇二年二月、天皇は敦賀にうつり、笥飯宮(けひのみや)を造営し、淡路に屯倉を定めた。 翌三月に天皇は南海道に行幸し、徳勒津宮(ところつのみや)に至り諸国からの朝貢を受けたが、熊襲は背いて貢を奉ることがなかった。 そこで天皇は熊襲征討を決意し、使いを敦賀に使わし、皇后に穴門で合流するように勅した。そして穴門豊浦宮へ移り、皇后とともに筑紫橿日宮(香椎宮)を目指した。
 同八年九月になると、天皇は群臣らとともに熊襲征討の計画を話し合ったが、一方、后の神功皇后に「新羅を討て」との神託が下りたが、天皇はそのような国は見えないとして神託に従おうとはしなかった。 そのため神の怒りにふれ、武内宿禰の取りなしもむなしく、同天皇九年、五十二歳で崩御した。 同天皇は恵我長野西陵(えがのながののにしのみさぎ)(藤井寺市藤井寺)に葬られたとされる。

 

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