 |
ダウラで思い知った私の体力 |
 |
すべてのキャンプを撤収してBCへ下る宮川隊員 仕立隊員撮影
2000年8月、私と二人でラカポシの、南西スパーをのぼっていた須藤建志君が落石に会い亡くなった。
ギルギットに須藤君の遺体を収容し、着のみ着のままの姿で「ホテル・ルパールイン」に入ったとき、
一番に電話が入ったのが、山田良二君だった。
その10年ほど前、須藤君と三浦宏伸君と私とでラカポシ北稜に出かけたとき、
山田君はマッキンリーのアメリカンダイレクトに行くと言って、その合同トレーニングで、
2月の「宝剣岳の東壁」を、猛吹雪の中、一緒に登った。
これらが、私と山田君とのおつきあいの始まりであった。
今回お誘いを受け「60才の僕に声をかけてくれる・・・・」という喜びに釣られながらも、
須藤君との縁の深さに思い至り、山田手記にあるように、
2月の空木岳山頂で、参加を表明、山田・仕立コンビと握手した。
須藤君の影響を受けた私は、「8000mノーマルより、人の居ない6000m、7000mを」
「組織登山よりも、少人数で」そして「ベースから上は自分で荷上げする」
「出来るだけアルパインスタイルにこだわる」登山を心がけてきた。
須藤君とつき合った15年間、「そういう登山が出来なくなったら、山登りを止めような」と、言い合ってきた。
しかし、私は60才を越し、8000m峰は高さにおいて、すでに頂には届かない年齢になっていた。
山田君の目指す「東壁」は、もちろん僕にはそんな登攀力はない。
しかも、8000mは私にとって初めてである。
そのような私が、今回、何を目標に参加するのか。
それは、8000m峰登山をする機会は、僕の人生で今回しかないだろう、
「初めての8000m峰(しかも、難峰で知られるダウラギリTだ)登山を、“酸素を使わず”しっかりと体験する。
登頂にはこだわらない」ことにした。
そして、万が一登頂できそうになったときも、登頂を断念するときも、後悔しないため、
(そのために)今まで以上のトレーニングを積もう。と、決意した。
日常トレーニングでは、京都・山科の「疎水沿いのランニングコース」を7km前後走ることをメインにおこなった。
1月〜7月の7ヶ月(30週)の累計では
@登山(ボルダリング以外のフリークライミング含む) 78日 11.1日/月
Aランニング(疎水沿い・7km) 59日
Bウオーキング(1時間以上、4〜5km) 32日
A〜Bの小計 91日 13.0日/月
Cジム(筋力トレ) 18日 2.6日/月
7月末、12分間走をやり、2500mをクリアした。
最大酸素摂取量は45.9ml/kg・分で、山本正嘉先生「登山の運動生理学百科」の評価表では、
60〜64歳代の「優れている・Excellent 」に入った。
富士山トレーニングを含む、高所トレーニングは(日数は、上記@に含まれる)
別項でも記したが、4月から8月出発までに9回(海外5000m前後2回含む)おこなった。
特に出発直前の、7月8月の2ヶ月は7回おこなった。
内容は、御殿場口からの標高差2300mを一日で登ったり、
富士宮口から頂上まで登り、7合目まで下って再度登り返して合計2000mの登行。
頂上でのテント泊3回など行った。
結果は、富士宮5合目〜頂上をノンストップで、2時間00分30秒が、私の最高タイムであった。
(もちろん、私の今までの20数回の富士山トレーニングを含めても、最高タイムだ。)
以上のように、今までの、私としての最高水準のトレーニングをして、本番に望んだ。
その、ダウラの現場でどうだったか・・・・。
ノーマルの「北東稜」での、今回の行動はおおまかに次の5節に分けられるが、
その節〃での、宮川の調子の変化を見てみると・・・・。
第1節・・・・8/30〜9/9 の11日間、マルファ(2700m)に到着してからBC(4500m)入りするまでの、順応行動。
マルファをベースにした4000m付近へ2日、
4000mをベースに4700m〜5000mへ4日、
4700m付近をベースに5200m〜5300mへ3日、
と、合計9日間の順応行動。レスト日は2日間。
この間私は、体調良好・食欲良好・快便で、頭痛もなく、登行スピードも若い二人にそう遅れを取らなかった。
起床時静脈もマルファで50回/分、4000mベースで54,4700mベースで56であった。
休養・停滞・・・・9/10〜16 の7日間、
ベース入りの翌日から、C1への行動開始までの、悪天によるベースキャンプでの停滞期。
7日間のうち、1日だけリレーキャンプ(RC・4900m)に、荷上げ兼偵察の行動したのみで、悪天(降雪)で、6日停滞・休養。
宮川、体調良く、食欲旺盛、快便、頭痛無し。
起床時静脈はほぼ毎日52回/分と、自宅時の回数(50)とそう変わらない。
第2節・・・・9/17〜27 の11日間、BCを発ち、C1・C2を経て、7300mへタッチして、BCへ休養に下る。
11日間のうち、RC(4900m)2泊、C1(5600m)5泊、C2(6500m)
3泊、で、休養がC1・C2で各1日入っており、この第2節で、C1,C2の荷上げと設営、
そして順応では、各人7000m以上にタッチしてアタック前の体制を作った。
宮川は、9/24・26と、2回7000mラインにタッチした。
しかし、1回目の24日は、ノンキャリーで、7000mあたりまで5hかかり、
仕立君に1時間半の差を開けられ、かなりよれる。
深い腹式呼吸をしての「一休み」で、15歩が精一杯。
その日の日誌には「僕は、下りでも結構時間がかかり、2時半頃霧の中C2に帰り着く。
かなりよれていた。
明日はレストし、明後日の7300mタッチの調子を見てみないと、アタックもおぼつかない。
食欲なくあまり食べれない」と記している。
2回目の、26日は、第1回目より少し高い、7100mの、フィックス最終点まで(標高差500m)、4時間45分で着く。
一休みが、10歩〜12歩のペース。前回のような、よれた感じはなくなった。
C2での、起床時静脈は、24日・・・72回/分、25日・・・80回/分
26日・・・74回/分と、高く、ダイヤモックスを、25日半錠服用した。
アタック前、休養・・・・9/28〜30 の3日間。ベースキャンプで、アタック前の休養を取る。
コックのダワの、作ってくれるご馳走を充分に頂き、読書・洗濯・手紙書き、昼寝など、3日間のんびりと過ごす。
第3節・・・・10月1日〜4日 の4日間。
アタックに出発するが、C3手前で天候悪化のため退却。
BCまで帰り、ファイナルチャンスにかける。
宮川は、C3の手前7300mまで山田と登り(アタック用・個人装備を担ぎ)、
これが、今回のダウラでの、自分の最高到達高度となった。
休養・・・・・・10月5日〜6日 の2日間。
ベースキャンプで、休養。3節で、体調を崩していた仕立も、回復する。
第4節・・・・10月7日〜14日 の8日間。ファイナルチャンスを生かし、山田・仕立がC3(7500m)に入り、
1度のアタックに失敗しながらも、翌日再アタックし、仕立君が12日、8167mの頂上に立った。
宮川は、7日のC1入りは、「山田・仕立より遅れるが7時間、体調は良」。
しかし、8日のC2入りでは、「休養中に降った雪で、山田・仕立君は、交替でラッセル。
後を追う、私はなかなか追いつけない」と、日誌に記している。
1000mの標高差に、約6時間かかる。
その日の、C2での就寝中、眠れず「起座呼吸」する。
息苦しく、腹式呼吸を深くしっかりと5〜6回やらないと快復しない。仰向けには寝れない。
10月8日の朝、山田隊長に
@C2での夜の呼吸が苦しい。
AC1〜C2の登行スピードが、極端に落ちている。
ことから、「アタックをあきらめ、C1で待機する」旨を表明する。
山田隊長から、「酸素はC3へ行けば有る。
1日C2で休養するから、その間で再考を」と、言われるが、僕としては「酸素を吸っての、登頂はしたくない。
体調は、落ちているし、決して良くない」旨を伝え、アタックメンバーからの離脱の、了承を得る。
その時点で、C3(アタックキャンプ)での、群馬の名塚さんのはいるスペースが出来、
群馬隊がテントを7500mに上げる必要がなくなった。
これが、群馬の星野さん達「東壁隊」の、アタック開始を早めてしまったかな、と、反省している。
9日は、強風のため、全員C2で停滞(名塚さんも)。
10日、起床4時。無風快晴の中6時30分、アン・プーリ、仕立、山田、名塚とアタックキャンプへ出発する。
彼らの、出発写真を撮る。
「みんなが、上に発ってから下山の順備するが、すぐ眠くなり、ぼんやりと別世界に引き込まれそうで、こわい。
空はあくまでも青く、アンナプルナが見え、雲がカリガンダキの谷間に少し、ポカリと浮かんでいるだけ。
別世界のこのダウラC2は静かで暖かい・・・・。
本当に、この別世界に僕1人しか居ない・・・・。」
と、日誌に記している。
以上の45日間・4節にわたった、私の体調を振りかえってみると、
@ C1(5500m)までの体調は、富士山及び、マルファ〜BCまでの、適切な順応行動で、完全にクリアできている。
A しかし、C2(6500m)での、2節3泊、3節2泊、4節2泊は、高所順応のためとは言え、
60才の心肺機能には、過大な負荷であったのではないか。
その値は、登行スピードの低下によって示されている。
B 7000m台に、2節2回、3節1回タッチしているが、4節目のC2への登行が、極端にスピードが落ちた。
一休みで5歩〜7歩で、時には、フィックスにもたれて、立ち止まったまま眠ってしまうこともあった。
「はっと」起きて「ここはどこだ・・・」と思ったこともあった。
C 上記、ABにあるように、6500mの高度に滞在することによって、高所衰退を起こしたといえる。
やはり、高度に順応していけるのは、順応できるだけの「強い(若い)心肺機能」を持っているからである。
D 普通の60才の、「心肺機能(最大酸素摂取能力)」では、
一定高度までは(私は、6000m台と考える)順応可能であるが、
7000m以上になると、「能力的に」順応は出来ないと、思う。
山本正嘉先生の「登山の運動生理学百科」で見てみると、
若者(25才〜29才)の最大酸素摂取量がEexcellent(優れている)で、69.9ml/kg・分であるのに対し、
中高年(60才〜64才)の、優れている人で、51.5ml/kg・分と、73.7%に過ぎない。
この「エンジン(心肺機能)」の差が、7000m以上での、無酸素による若者との差である。
エンジンの能力(心肺機能・最大酸素摂取能力)を超えれば、高所順応の限度を超え、順化は出来ない。
「安全登山」を目指す中高年の方は、このことを、胸に刻んで「高所登山」をすべきであろう。